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秋葉原無差別殺傷事件の犯人死刑執行

秋葉原無差別殺傷事件の犯人の死刑が執行された。
ということで、死刑やその他の罰について少し考えていこうと思う。

まず、僕の死刑についての考え方について述べるとするならば、
僕は死刑賛成派だ。
現代社会では世界的に死刑はいかなる場合もすべきではないという
流れが一般的なので、僕の考えは野蛮な部類に入るだろう。

なぜか日本は85%は死刑賛成という現代の先進国の中では
かなり特殊な国なっている。

ただ、死刑をなくす場合は終身刑を作らなければならない。
日本にはそれがないので、
死刑を反対するならば、終身刑を作るのが先かもしれない。
また、問題なのは、終身刑のコストパフォーマンスだと思う。
その囚人を働かせたとして、果たして国の収支はプラスなのだろうか?
生きている限りマイナスになるならば、それは負債でしかない。
ちなみに死刑に関しては完全にマイナスになる。
死刑囚の場合は望まない限り強制労働はない。

コストパフォーマンスの話はさておき、
大事なのは被害者感情だと僕は思う。
偶発的な事故とかでない限り
基本的に一人殺人をしたら僕は死刑でいいと思っている。
あと、納得いっていないのは、
精神病をはじめとする病気だった場合、
無罪になることがあることだ。
これに関してはおかしいと僕は考えている。
現在の司法でそういう判断をされていることは
知っている。
しかし、仮に被害者家族だとして、
納得できるだろうか?

あなたは家族を殺されました。
加害者は精神病を患っていたので、
無罪です。

納得できますか?

少なくとも僕は納得できない。
そもそも殺人をする人の精神が病気でない
確率の方が低いだろうと考えているからだ。

そして、同じ病名がついている人も迷惑だと思うのだ。
「あの人あの殺人事件を起こした犯人と同じ病気なんですって!」
という話をされる可能性もある。

病気を理由に無罪としていいのは、
被害者がそれを認めた時だけだと思う。

例えば、認知症の独居老人がコンビニで万引きを繰り返していた。
理由は家とコンビニの判断が認知症のためについておらず、
棚のものを持っていったということだった。
コンビニの店主はこれを理解し、
商品の代金を保障していただければ、
罪に問わないとした。

これならこの老人は病気を理由に無罪でも
いいと考える。

病気を理解した被害者がそれを許したからだ。

司法に病気を理由に無罪ですと言われても、
ことが重大(殺人など)であれば、
余程でなければ納得できないだろう。
僕はそんな聖人君子にはなれないし、
なろうとも思わない。

今もそうかわからないが、
確か某砂漠の国では死刑は公開処刑だそうだ。
柵で囲まれた首吊り台があり、
そこで誰でも見学できるようになっている。
そこで、悪いことをしたらこうなるということを
わからしめ、犯罪の抑止力にしているそうだ。
砂漠の民族は性格がキツいので、
こういった強い抑止力が必要なのだろう。

そして、この公開処刑には続きがある。
子どもを殺された親は、
死刑囚の足の下にある椅子を蹴る権利があるのだ。
つまり、最後の台を落とすことができるのだ。
望めばなので、望まなければする必要もないし、
しかも許す権利もあるのだ。

流石にそれはすごいルールだと思うが、
僕がもし子どもを殺されたなら
間違いなく椅子を蹴るだろう。

みなさんがどう考えるかはわからない。
僕がこう考えているというだけで、
死刑に反対だという人の考えを僕は否定しない。
実際、僕の考えは野蛮だという自覚はある。
ただ、リアルに想像した時に、
自分が犯人を許すという選択肢を選ぶとは思えない。

みなさんもこれを機に少し考えてみてはどうだろうか?
もしよければ、考えをコメント欄にでも
書いていただけるとありがたい。

これはあくまで個人的な感想であり、
現在の司法の考えとは全く違うので、
そこはご容赦いただきたい。


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