見出し画像

難聴の子供はどのように言葉を身に着け、その言葉でエレベーターの他人を吹き出させたか?

前回のお話はこちら

ろう学校に通う父と子の体験を書いた「この歓声は届かないけど」、連載再開です。登園中のエレベーターでのエピソードから始まる、言葉のお話です。

「おとうさん」と声で話しかけられたので、「何?」の手話で返事した。満員のエレベーター。登園時間は通勤ラッシュで、電車も駅のエレベーターも混んでいる。心なしかピリピリとした空気を感じてしまうのは、腰ぐらいまでしかない二朗を守らなきゃいけないプレッシャーのせいかもしれない。

「ぷぅううう」

もちろん、本当に屁をこいたわけではないのだけど、静まり返った満員のエレベーターではやめてほしい。慌てて口に人差し指をあてる。もちろんこれはろう者に通じる「静かに」だ。二朗は、にやにやしながら僕の顔を覗き込んでいる。

すると、エレベーターの中でどっと笑いが起きた。笑ってくれるのはありがたいけど、本当に恥ずかしい。僕は顔を真っ赤にしながら、二朗に「ダメ」の手話をする。親指を立てて相手に向ける、「アウト」のジェスチャー。二朗もにこっとして親指を立てる。こいつ、「グッド」と勘違いしている。

二朗は聴覚障害者だが、聴覚障害は聞こえないことを意味しない。当たり前のことだけど、聞こえるのが当たり前の聴者はそのことを忘れがちだ。聞こえを数値で表せば、右耳は60db台の中等度難聴、左耳は100db以上のほぼ聞こえていない重度難聴。さらに、音域によって聞こえ方が変わる「感音性難聴」なので、単に音を大きくしても、言葉として聞き取るのが難しい。

音はdb(デシベル)で表す大きさの他に、Hz(ヘルツ)で表す高低がある。日本語は主に、母音の音が低く、子音は高い傾向がある。ただし、子音の音域はバラバラで、例えば「ず」みたいな濁音だと、母音よりも低いこともある。音の高低(周波数)で聞こえる大きさが変わる感音性難聴は、高音域が苦手になる場合が多い。

たとえば、「こんにちは」と話しかけた場合、高音域の子音が聞こえないと「おんいいあ」になる。聴覚障害者に子音の発話が苦手な人が多いのは、このあたりに理由がある。難しいのは、これは傾向であって、実際は人によって聞こえ方がまったく違うこと。

高い音が得意な子ももちろんいるし、真ん中の音域だけが聞こえない子もいる。見た目にはわからないし、話してみたってわからない。同じ「こんにちは」でも、「こんいいわ」になったり、「ぉんぃ□あ」になったりする。検査をすれば数値として出せるけど、実際の聞こえは医者にだって、本人にだってよくわからない。とにかく、日常会話のスピードでこんな聞こえ方すると、理解するのが相当しんどいというのが、難聴者のみなさんの共通認識のようだ。

次男の右耳は、数値を見るとやはり高音が苦手なものの、全周波数帯が比較的フラットに聞こえているらしい。60db以上の難聴というのは決して軽くないし、障害者総合支援法の対象になるので、障害者手帳も取得している。ろう学校には、障害者手帳を取得できない難聴者もいて、これも悩ましい問題なので、いつか触れたいと思う。

二朗はよくしゃべる。手話よりも圧倒的に音声言語を使う。難聴の度合いのわりに発音が明瞭で、初めて会った人だと難聴と気が付かない場合もある。静かなエレベーターでおならをしたら面白い、くらいの、音に対する認識がある。

二朗とのやり取りには必ず手話を付けるけど、僕の語彙が足らなくて、音声だけで話しかけてしまうことがある。それが通じてしまう。通じると、ついついそれで良しとしてしまう。「難聴だけど話せる」の難しさは以前も書いたが、二朗が残存聴力だけで話せるようになっても意味がない。二朗が成長した時に、自分が一番いいと感じるコミュニケーション方法を選べるようにしないといけない。だからこのろう学校を選んだのだ。

その日は入学して2か月ほど経った日。欠席が多かった。多かったというか、教室に二朗しかいなかった。3月に、新型コロナウィルスがインフルエンザと同じ5類に移行したばかり。子供は体調を壊しやすいので、大事をとって休む家も多い。たった5人しかいないクラスなので、ありえることではあるんだけど、さすがに珍しい事態。

しかし今日は、我々親子で担任の渡辺先生を独占できる。たった2か月の付き合いだが、それでも渡辺先生がいかに人間的な魅力に溢れているか、すぐに理解できた。二朗も渡辺先生が大好きだ。

渡辺先生は、ネガティブな言葉を使わない。なにか失敗しても、ポジティブな言葉に変換して教えてくれる。工作のでんぷんのりをつけすぎたら、「すごい量だね!」と褒めてくれる。転んでパンツまで泥だらけになったら「あっはっは、どろどろじゃん!」って笑ってくれる。もちろん悪いことをしたら、目を見て「だめだよ」と叱ってくれる。二朗だけでなく僕も、そのコミュニケーションのひとつひとつが心地いい。

二朗について、先生に尋ねてみたいことはたくさんあった。普段、他のお母さんたちがいると聞きにくいことでも、今日はいろいろ聞けるはずだ。と思ってたら、園庭で子供たちが遊んでいる時に先生から話しかけてくれた。

「二朗くんは、いつも言ってることが面白いですね」

ほんとうにそうだ。例えば二朗は、声でしゃべることが多いが、手話も同時に使ったりする。右手の手のひらを前に出す「ある」と、両手を広げてひらひらさせる「ない」は、二朗がなにかを強調したいときによく使う。食事の時、「からあげ食べる?」と聞くと手話をしながら「ある!」と言う。「野菜も食べて」と言うと「ない!」と答える。英語でいう「yes」と「no」の役割のようだ。

興味深いのは、「唐揚げは嫌い?」という質問の仕方をすると、「ある!」と答えることだ。英語で「Don’t you like karaage?(あなたは唐揚げが好きじゃありませんか?)」と質問すると「Yes,I like karaage.(いいえ、私は唐揚げが好きです)」となるように、日本語と意味が逆転するのも一緒だ。

言語学で「極性」と呼ばれるもので、肯定と否定の表現方法を指す。手話という言語では、必ず日本語と肯定否定が逆転するわけではないが、表情で表す方を優先するイメージがある。「唐揚げが好きじゃありませんか?」という質問に「はい」という手話を使っても、「いいえ」という手話を使っても、表情が肯定的だったら「好き」、否定的だったら「嫌い」と表現することができる*1。

英語にしても、手話にしても、二朗にしても、肯定と否定を明確にしているように感じる。二朗が言葉を増やしていく様子をみていると、日本語の獲得というよりも、原初的な言語の生成過程をみている気がしてくる。もっと簡単に言うと、自分たちが当たり前のように使っていた言葉に、気が付かなかった面白さが隠されていたことを教えてくれるのだ。渡辺先生がどういう意図で言ったかはわからないけど、僕もすごく面白いと思っている。

続けて先生から、「二朗ちゃんはいつも快活でいいですねえ」と言われた。僕は「そのとおりですね。本当に育てやすい子で」と、天然の親バカを見せつけた。そもそも手話を勉強し始めたり、ろう学校に毎日付き添ったりで、育てやすいもないもんだが、それぐらい二朗との生活があたりまえになったんだなとも思った。

さて、先生に相談したいことがあった。先ほど書いた手話の件だ。二朗が音声優位で育っているのは、あきらかに我々家族の影響だ。特に、いつも一緒にいる僕から誘発された部分は多いだろう。まだクラスメイトはみんなそこまで深いコミュニケーションをとっていないが、今後音声言語ばかりが身に着くと、手話を前提としたろう学校での生活も難しくなるかもしれない。

「音声はいいんですけど、全然手話が追いついてなくて」というと、先生は「あー」と相槌を打った後にこう言った。

「でも二朗くんの音声言語は武器ですからね」

あ、と思った。心がふわっと軽くなった。先生は続けて「手話の獲得は大事ですけど、二朗くんの聴力は日本語の獲得にすごく役立っていると思うので、そこは伸ばしていきたいですよね」と言った。

自分はなるべくフラットでありたいと思っていた。音声言語に縛られ、口話教育に苦しんだろう教育の歴史も学んだ。かといって、がちがちに手話で育てようとも思ってはいなかった。でも、自分の手話習得が当初目標にしていたほどには進んでおらず、二朗もどんどん音声優位で育っていることに、自分が思ってるより不安を感じていたのかもしれない。

二朗は賢い。抽象的な言葉は苦手なところもあるが、同世代の聴の子と比べて遜色ないくらい、むしろ上回るくらい語彙が多い。数字も20まで数えられる。これに残存聴力が寄与しているのは間違いない。聴者においては音声言語なんて当たり前で、意識もしないだろう。でも難聴の二朗にとっては、なるほど十分に武器になりうるのだ。

手話は、我々が使い続ければいい。まずは言葉。とにかく言葉。聴覚も、視覚もフル活用して、彼に言葉を教えていこう。この世のすべてに言葉がある。言葉を理解することは、この世界を理解することに繋がる。そこに音声も手話もない。

僕が勝手に感動していることを、もちろん先生は気づかない。勝手に信頼度を増しただけだ。二朗、我々はこの人に付いていこう。

翌朝、また満員のエレベーター。「おとうさん」と声で話しかけられたので、「何?」と手話で答えた。「ぷぅ」か、と思ったけどどうやら違うようで、エレベーターがぎゅうぎゅうで、ちょっと嫌な顔をしていた。

「このなか、なんびきひとがいるのー?」

ぷって吹き出す声が聞こえた。恥ずかしい。とりあえず、単位の言葉から教えていこうと思う。

*1 この場合、「からあげは好きじゃありませんか?」の問いに、
・「はい」の手話を使いながら肯定的な表情→好きです
・「はい」の手話を使いながら否定的な表情→そうそう、嫌いなんです
・「いいえ」の手話を使いながら肯定的な表情→いえいえ、好きですよ
・「いいえ」の手話を使いながら否定的な表情→本当に嫌いです
といったニュアンスになる。という話をろう者の友人に教えてもらったのだが、違うよと思った人はSNSなどで教えてください。


この記事がおもしろいと思ったら、ぜひ紋白蝶に登録してください。150以上のコンテンツが読み放題です。


この連載の過去記事はこちら

大熊信(だいくましん) 1980年生まれ。千葉県出身。編集者、ライター。コンテンツ配信サイトcakes元編集長。

ここから先は

0字

通常会員

¥980 / 月
このメンバーシップの詳細

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?