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【無料】それはろう教育以前の問題なのでは?

前回のお話しはこちら。

紋白蝶がリスタートします。その最初を飾るのが、お子さんとろう学校に通った日々を描く、編集者の大熊信さんの連載です。普段あまり見ることができないろう学校の内側や、難聴の子を持つ親の気持ちがつづられます。障害とはなにか、子育てとはなにか、父親とはなにかを考える連載です。前後編一挙公開の後編。ぜひお読みください。

二朗が3歳になり、幼稚園を検討しはじめた。聴覚障害者には早期教育が重要で、年少から専門の教育機関に通い始める。どこを選ぶにせよ、親の付き添いは必須だ。送り迎えだけでなく、授業も一緒に受けて付きっ切りでサポートすることになる。

乳幼児教育相談に通っている学校で、素晴らしい先生たちとの出会いがあり、その学校付属の幼稚園に通うことに不満はなかった。でも先生からは、いろいろな学校を見学することをすすめられた。聴覚障害支援の学校は、学校ごとに教育方針がまったく違うからだ。

見学に行く中で、最初に検討から外したのが、手話を中心とする学校だった。まったく音声を使わず、手話と読み書き日本語を教えるという。正直、心情的には一番近い学校だったかもしれない。二朗のために手話は必要だし、その学校の校長の講演も見たことがある。とても心打たれる内容だった。

二朗はある程度手話を読み取ることができるようになったが、音声を言葉と認識できる程度の聴力も持っている。それは読み書き日本語の習得に有効なのでは、と考えた。また、我々の手話環境にも自信がなかった。家の中は5人家族で1人だけ聴覚障害がある状態。

兄の一朗も少しは手話を使ってくれるが、弟の三朗に手話を使わせるのはなかなか難しい。家にはどうしたって声が飛び交う。その環境で育った二朗が、そして我々が、手話のみで教える学校についていけるのか、不安があった。

次に見学に行ったのが、手話をまったく使わない学校だ。残存聴力の活用や、発声訓練などで日本語を習得していく。実は、二朗の主治医や、担当の言語聴覚士からはこの学校を推されていた。二朗の聴力や発話の状況、両親が聴者である環境なども含め、一番合うのではないかという。

その学校は広く、自然に恵まれたとてもすてきな環境だった。物腰の柔らかい教務主任の方が案内してくださったのだが、広すぎて少し目を離すと迷子になりそうなほどだった。ずっと歩いているうち、二朗は慣れないスリッパを嫌がって、靴下のまま歩き出した。

違和感を覚えたのは、授業を見学していたときだった。5人くらいの子供たちが、大きな四角いテーブルを囲うように座り、文化祭かなにかの制作活動をしていた。しばらく見ていたのだが、よくしゃべるのは2人だけ。本当に、まったく手話は出てこない。それを見て、聴覚障害がある子たちの幼稚園と思う人はいないだろう。

つぎの教室への移動中、教務主任の方はだれかを見つけ、手招きした。二朗より1歳か2歳くらい上の男の子だった。その子は台の上に立たされると、なにかを話し始めた。さっきの子ほどではないが、きれいな発音で、自己紹介のようなことをたどたどしく話していた。

あれ、これ、僕たちに見せつけてる? 妻の方を振り向くと、彼女も何かを察したのか、僕の顔をみてうなずいた。さらに教務主任は、さっき教室で見かけたよくしゃべる子を捕まえると、腕を掴んで動かせないようにして、なにかをしゃべらせた。どうやら劇の台本かなにかのようだ。明らかに、僕たちに見せつけるようにやっている。この学校に入ると、こんなに話せるようになりますよ、と。

「普通に話せるようになりますよ」と言った、医師の言葉を思い出した。先に書いたが、聴覚障害のある子が話せるようになることは、悪いことだとは思わない。でも、話せるようになることは、この障害の解決にはならない。それだけで世界に出ていけば、自分の欠けたものだけを突きつけられながら生きていくことになる。僕たちはずっと、それを考えてきた。

この葛藤は、簡単なものではない。普通に話せるようになってほしい、聴者のようになってほしい、と思う親がいるのも、理解できる。この学校の教育方法を完全に理解できたわけでもないし、この方法で幸せになった聴覚障害者もたくさんいると思う*。でも僕たちが目指すもの、二朗に歩いてほしい道は、ここにはないんじゃないかと思った。

*逆に、苦しめられた人もたくさんいた教育方法でもあるのだが、そのことはこの先の連載で触れたい。

その後応接室で、学校について聞いていたときだった。子供の付き添いをするとなると、夫婦どちらかが仕事をやめるか休職しないといけない。他の親御さんはどうされていますか?と聞くと、「本校は、付き添いをお母さんだけにお願いしています」と言われた。

言っている意味がよくわからなかった。「以前、父親の保護者がなにか問題を起こしたとか?」と尋ねると、「いえ、そういうことではないんですが……」という。「えーと、お母さんがいない家庭もありますよね?」と聞くと、「その場合はおばあさんであるとか、入学をあきらめていただくことになります」。

今日は、二朗にとってなにが一番いいか、を見極めるために来た。今のところ、教育方針に合わないところを感じているが、でもわざわざ父親を排除するなんて、教育以前の問題なんじゃ……。なんてことを思っていたら妻が言った。「どういう意味なんでしょうか?」

この場合怒るのは、排除された父親である僕のはずだ。でも先に妻に切り出されてしまったので、目を泳がせることしかできなくなった。妻が「母親と父親、何が違うんでしょうか?」と追い打ちをかけると、学年主任は「……うーん、やはり父性と母性というのは、違うものだと思うんですね」「は?」(は?って言った!)「子供を育てるのが、母性の役割だと思うんです」。妻は話にならないと思ったらしく、少し肩を落として目をそらした。

僕は、ここがチャンスと割って入った。「障害児の育児や療育に対する父親の参加率の低さが問題になっているのは、障害者教育に携わっている先生ならご存じですよね。父親が付き添いをできないとなると、息子はこの学校に通うことはできません。それは仕方ないにしても、これからの父親、だけでなく母親のためにも、今後の見直しをご検討いただけませんか」。いいことを言ってやった。

「わかりました」と教務主任が答え、その日の話は終わった。二朗はあんぱんまんのおもちゃが名残惜しく、帰る足取りが重かったが、我々もどっと疲れて足が重くなった。妻は怒ってるのかなと思ったが、そういうわけではなかった。僕がいうまでもなく、母親じゃなくちゃいけないなんて意味がない。そもそも時代に合ってない。

それが改められないのは、やっぱりろう学校だから……? たしかにここに限らず、ろう教育の中に古い慣例が残っているのを何度も見た。妻とはそんな話をした。少しだけ気も重くなった。

「そんなことより、自分だけいいこと言ってやったと思ってるでしょ!」妻が突然切れた。「……いや、思ってないよ」「あとなんかどさくさに紛れて付き添いは自分がやるみたいなこと言ってたでしょ! 私もやりたいんだから、勝手に決めないでよね!」(ばれてたか……)

翌週の乳幼児教育相談は、夫婦で参加した。先生にことの顛末を話すと、笑って聞いてくれた。そしてこの学校の幼稚園に通いたいとお願いした。どさくさに紛れたまま、付き添いは僕が行くことにさせてもらった。この学校なら父親が排除されることもない。

でも、これまでに、父親だけで1年間付き添いをやった例はないそうだ。あの学校の慣例が、今も残っている理由が少しわかった気がした。なおさらやってみたいと思った。

今回連載するのは、2022年に僕と息子の二朗が、ろう学校の幼稚園に一年間通った記録だ。基本的には、耳の聞こえづらい息子とそれに翻弄される父親を中心に、そこで出会った人たちの話になるだろう。聴覚障害について理解してもらいたいので、少しややこしい話も出てくるかもしれないが、できるだけわかりやすく書くつもりだ。でも、それより書きたいのは、心の底から楽しかった日々の話だ。

二朗が生まれてから約一年、僕はどうかしたまま生きていた。できるなら、あの時に自分に、この先に本当に楽しい毎日が待ってることを教えてあげたい。僕の人生、妻の人生、出会う人たち、ろう教育の歴史、さまざまなものが絡み合って、その先に二朗の歩く道がある。人が言葉を獲得し、それで意思を伝えあい、成長し、未来につながっていく。そんな、希望の話を書いてみようと思う。

次回は10月26日更新予定!


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大熊信(だいくましん) 1980年生まれ。千葉県出身。編集者、ライター。
コンテンツ配信サイトcakes元編集長。

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