働くことは、命の使い方を選ぶこと。

暗闇の中で、目隠しをして歩く。

 26年間、同じ会社で働いた。当然、嬉しいこと、楽しいこともあったし、辛いこと、理不尽なこと、怒ったこと、絶望したこと、色々とあった。能力はともかく、自分なりに、まぁ頑張ったよね、と言えるだけのことはしてきた。ただある日、「それまで」は何とか乗り越えてきたことが、ついに、乗り越えられなくなる日を迎えた。

 きっかけは、異動。長らく管理部門に所属し、現場感覚をなくした自分にとって、その後のキャリアに必要不可欠だった16年ぶりの「現場」の仕事。それは、暗闇の中で目隠しをして歩いているような状態から始まった。何とか、うっすらと景色が分かるぐらいにはなったが、圧倒的な力不足。それまで私が培ってきた強みは、全く発揮することができなかった。そんな現実に直面しながら、毎日仕事をする恐怖。いつ、どこで、何が起こるか分からない、何か起きても自分に対応できるだけの経験や能力がないと分かっていながら、責任者として詰められることは、日々ボディーブローのように、私を蝕む。

 組織の仕事をコントロールすることができず、部下を守ることもできず、セクショナリズム、見栄や保身に走る人、そして、マウントするマネジメントしか知らない人たちの餌食になった。それは、アプローチの違いはあれど、自分自身も同罪で、部下に犠牲を強いるマネジメントしかできない状態に凋落していたことに気がつくことになった。それでも、ただただ、家族の生活を守ることだけを考えて、会社に通う。いつしか、アラームが鳴ると、自分にこう命令するようになったいた。

 「いいか。とにかく、まずは、ベッドから降りろ。そして、足を動かせ。会社に行かなかったら、家族の生活を守れないぞ。とにかく足を動かせ。足を動かすことはできるだろ。ベッドから降りて、リビングまで歩け。とにかくスーツを着て、玄関を出るんだ。」と。

誰のため?何のため?を見失う。

 その頃、自分の中で「誰のため?何のために、(こんなに心身の犠牲を払ってまで)働くのか?」という問いが湧いていた。意思決定できない、仕事をコントロールできない、無理難題から部下を守れない、、、

「こんなマネージャーって、会社にいる意味ある?
「でも、家族の生活を考えると、辞めるわけにも、倒れるわけにも、いかないんだ。」
「あれっ?これって保身?自分が一番嫌いだった、保身に走るマネージャーに、自分自身がなっているんじゃない?」

 そこから始まったのは、強烈な、自責の念、自己嫌悪と自己否定。それまでの会社人生における自分を全否定。自分がやってきたことの意味を喪失し、全ては、過去の、至らなかった自分からのツケが回ってきたのだ。「人の苦しみに真剣に向き合ってこなかっただろ。助けてこなかっただろ。だから、お前も苦しんで当然だ。」と自分を追い込んでいた。

ブレーカーが落ちた瞬間。

 そんな葛藤と反省の中、部下を守れるために、できる行動はしようと決意した。保身のマネージャーになってはいけない、と。そんなある日、保身から抜け出すための行動を起こした。それは、2年以上、ボディーブローに耐え続け、絶望感に苛まれた私の最後の悪あがきだったのかもしれない。意を決した行動の結果、自分と部下を全否定される事態に陥った私には、もはや余力はなかった。その週末、家族とショッピングセンターで歩いていたときに突然、それは襲ってきた。

ズドンッ。

音にするとそんな感じ。まるで、電気のブレーカーが落ちたかのように、自分のエネルギーが低下することが分かった瞬間だった。さすがに、これはマズイ、と自分でも思った。帰宅してから、どうやって気持ちをリカバリーしようかと考えた。参考になりそうな本を読み、自分の状態を客観視するために、図を描き、感情を書き出した。そして、最後に、「覚悟」「勇気」と書いたカードを、財布に忍ばせた。翌日、いつものように、まずは足を動かんだ、という命令から始め、早起きして、会社に向かったが、やることは山積みだったが、もう仕事は手につかなかった。

「一体、俺は、誰のため?何のために?こんなに苦しい思いをしているのか。でも、部下に迷惑をかけるから、絶対に仕事に穴を開けられない。家族のためにも、絶対に倒れるわけにはいかない。」

・・・当時は、パニックに陥っていた。

今、いる場所。

それから約9か月後、会社を辞めた。誰のため?何のため?を考える中で、新しい問いが生まれた。

「そもそも、自分はどう生きたいのか?」
「もし、今死んだとしても、後悔しないか?」
「自分は、どんな自分でありたいのか?」

こんな問いかけをしながら、改めて働くことの意味を考えている。働き方の選択肢は、沢山ある。でも、問題は働き方ではなく、働くことの意味付けをどのようにするか、がまず重要なんだと。そもそも、自分が生きている、ということ自体が働いていることだ、とも思っている。命というリソースが有限である以上、「生きている、という活動」はとても尊い。働くということは、その限られた命の使い方を選ぶことになる。そうだとすると、自分の中には、誰のため?何のために?働くのかといことに対する、1つの答えが出てくる。それは、自分のために、自分が実現したい世界観を実現するため、に働く。ただ、それだけ。

そうした手段の中には、金銭的報酬を得て行う仕事もあるし、プロボノのように金銭的報酬がなくても自分のためになって、社会的意義のある仕事もあるし、地域活動もそうだし、社会課題解決のための寄付や署名、SNSでのシェアなどといった行動も含まれる。もっと言えば、日々の生活の中で関わる人に、ちょっとした感謝の気持ちを表すことも働く、に含まれていると思う。

自分の命というリソースを、どこにどのように配分すれば、ベストパフォーマンスを発揮することができるのかを考え、行動し、試行錯誤を繰り返し、自分のありたい姿を探究していくプロセスこそが、今の私を支えてくれる、「働く」の考え方。




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