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「自分を生きる」ということについて

ここ2ヶ月ほど、「学習者が『自分を生き、他者と関わる体験から学ぶこと』ができる場を創る」人をつくる講座に参加してました。講座期間中、様々なドラマが展開しましたが、いまこの瞬間の私が振り返る体験としては、私自身が「自分を生きる」という課題を突きつけられたものだったように感じます。

1. 受講者を通じた「自分を生きる」ことへの気付き

もし私が宇宙に一人で浮かんでいたとする。その状況では、私は「自分を生きる」なんてことは全く考えないだろう。他者がいるおかげで、他者との関わり合いの中で、「自分を生きる」主体である「自分」に関する手がかりが見えてくる。以下では、受講者との関わりの中で見えてきた「自分」について、最も強烈で印象的な箇所のみを記述する。

「自分のハートに忠実で、それをそのまま外部に表現する」自分
これは、私が一番好きな自分なので、これを投影したTさんを見て、その発言内容の如何を問わず「いいぞいいぞ、その調子!」とわくわくしていた。
「自分の欠損点にばかり目がいき、そこから見える他者を過大に評価する」自分
この自分は、自分の中でまだ完全には癒せていないので、これを投影したTさんをみた時は、少し悲しくなった。
「人間的なものを煩わしく面倒に思い、割り切って他者や自分を機械的に見る」自分
私は、自分の中のこの自分をまだ許せていないので、これを投影したKさんに対して、とても残念な気持ちがした。
「全体がよくなるように振る舞う」自分
この自分のことは、嫌いではないものの「良い人ポジション」を取りに行く時に出やすい自分でもあり、そろそろ卒業したいと思っていたので、これを投影したCさんを見て「もう無理にそれをやらなくていいんだよ」と自分で自分に言い聞かせていた。
「自分の(勝手な)都合で立ち振る舞う」自分
最近、私の中に、「この自分であってもいいよ」と言い聞かせたい自分がいるので、これを投影したFさんを大歓迎する自分がいた。
「母性を発揮し、人のことを全面肯定する」自分
この自分は好きな自分でもあり、真実として存在してはいるものの、常にそうであらねばならないと信じてしんどい思いをした時期もあるので、これを投影したRさんに対しては、無理していないか時々心配になった。

チームで何かに取り組む時、「自分が自分でいながらも、その場に溶け込むような体験」を味わうことがある。今回の講座期間中では、それは私の身には起こらなかった。「自分でいること」を諦め、「その場に溶け込む」ように振る舞おうとしたが、結局のところ、前者を捨てて後者のみ達成することは不可能であるということに、今回の体験を経て改めて思い至った。しかし、それだけではあまりに成果が少なく悲しいので、受講者との関わりの中で発見されたさまざまな「自分」について明らかにしてみた。これにより、これまでしっかりと耳を傾けられていなかった、自分の中の小さな声たちに気付くことができた私の中の多様性に気付かせてくれた皆様に心から感謝したい。なお、「自分でいること」を諦めた理由については、後ほどメンタルモデルの章で明らかにする。

2. 講座全体を通じた「自分を生きる」ことへの気付き

「(運営として)ちゃんと運営しなきゃ」
「(参加者として)ちゃんと学ばなきゃ」

そんな「しなきゃ」感を講座の全体を通じて感じた。なんだかそわそわして、終始居心地が悪い感じ。恐れからくるエンジンで動いていて、あんまり楽しくない感じ。(事件は会議室で起こっているのではなく、私の内面で起こっているんだけど。)

▼「お金」が関係している?
もしかすると、運営側に、価値よりも値段を高く設定したかもしれないという思いが実はどこかにあって、そこから「恐れ」みたいなものが生じているのだろうか。参加者側は、中身(価値)が見えないままに投資判断したものに対して「まだまだ得られるはず。しっかりと回収しなきゃ!」という「執着」が働いていたのだろうか。

ここからの学びは、自分が何かを提供して金銭的対価を受け取る際、どの金額帯が「自分にとって、しっくりくるか」ここを最も大事にしたいということ。自分なりの筋が通っていれば、誰に何を言われようとも、芯の部分はブレずに実現させたい世界の実現に全力を注げるのではないかと思う。また、事前に価値がわからないものに投資する際には、お金を出すまでは色々と十分に吟味するが、お金を出した後に関しては「いくら払ったのか」という考えは過去のこととして、すこーんと忘れ去り、その場に立ち現れる生の瞬間瞬間に立ち会っていきたいと感じた。

▼そこには私の中の何が投影されていた?あるいは、どんなニーズが満たされなかったのか?
もしかすると、私の中に「お金」に対する恐れがある?
私の中に「オープンスペース的な場」に対する値付けに躊躇いがある?
恐れエンジンで動く人や組織への嫌悪感は、恐れエンジンから動く自分への嫌悪感?
私は「気楽さ」や「楽しさ」を求めている?
私は「安心」や「居場所」を求めている?

私が「自分を生きる」上で、喜びエンジンから楽しく生きたいという願いがある。一方で、恐れエンジンを否定的にみる自分を統合せずには、完全に喜びエンジンから楽しく生きる世界に引越しできない感じがする。上記いろいろと問いを立てただけで、結論が出ていないものが多いものの、自分の中の否定的なエネルギーに気付けたということが、今回の講座体験の中で得られたとても大事なことだと思う。

3. 全体を通して浮かび上がってきた私のメンタルモデル

▼出来事
講座期間中、「自分自身でいる」ことができなかった。
▼行動パターン
①それぞれにとっての「本当のこと」がどのぐらい話されるか、場を観察する。
②自分が求める深さでは話せないと感じきった時、自分も「本当のこと」を話すのを諦める。
③場が向かおうとしている方向に自身をなんとなくチューニングする。
④存在感を徐々に消す(消えていく)。
▼構造
「だって、繋がれないから。」
本当は、自分のハートと繋がって、感じるままそのままにエネルギッシュに動きたい。本当は、自分のハートと繋がりつつ、自分のハートと繋がった他の人たちと繋がりたい。自分のハートと繋がれてない人をみたら悲しくなって、繋がりなおすきっかけをつくりたいと思う。「この人たちとは繋がれない」と判断した瞬間、心のシャッターをおろす。自分のハートからの表現を諦め、深い部分での他者との繋がりを諦め、感知できる限りの表面的な場の方向性に合わせて行動する。
(自分のハートからの表現を諦めていることに、大きなストレスがある。)
(周囲の人と深く繋がれないことに、大きな絶望感がある。)
▼メンタルモデル
私はこの世界で所詮ひとりぼっちだ。
(他者と繋がれないのなら、少なくとも自分と繋がることを選ぶ。)
(自分との繋がりを諦めた瞬間に、最もエネルギーをなくす。)
▼(参考)天外伺朗さんのスートラ(※ひとりぼっち)
「私はありのままの自分で、縁ある人たちとつながり、自分らしさを大切にし、ユニークに生きてゆく。」

おわりに

先日、初めて受けたマインダンジョンカードのセッションで、私の必殺技の一つは「光よりも速く走れ」であることを知った。この必殺技は人を中心にしていては発動されない。自分を中心にして初めて発動される。きっと私は、自分中心でいいんだ。自分中心「が」いいんだ。さいごに、私自身に贈る言葉でこのレポートを締めたいと思う。

「自己を愛せよ。やりたいようにやれ」

「度胸試しだ、ビヨンビヨーン」

以上

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