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リライト作品 「真冬のレモンは小さくて甘くて切ない」#クリスマス金曜トワイライト

池松潤さんの作品「真冬のレモンは小さくて甘く切ない」のリライトに参加しました。


3日ぶりに帰った家は、換気がされないまま、冷たい乾いた空気が漂っていた。
電気もつけないまま薄暗いリビングで、今朝郵便受けに入っていた手紙を開いた。慌てて封筒を見ると、2日前の消印が押されていた。

息はすでに切れていた。地下鉄の階段を駆け上がるとJRの改札が見えてくるはずだ。山手線に乗り換えれば15分くらいで着くだろうか。駅のホームまで考えてもギリギリ間に合うかどうかだった。心臓が激しく胸を打って喉の奥から血の味がせり上がってくる。 ふいに子供の頃のマラソン大会を思い出した。
スタートしてからまだまだゴールが見えないうちは、とにかく頭を空っぽにして走る。
「あと2周!」誰かの掛け声が聞こえてやっとゴールまであと2周だと意識した瞬間に、急に疲労感が襲ってくる。途端に、脚がズキズキと痛んで、呼吸が荒くなる。隣で、もはやランニングハイだと笑いながら涼しい顔で走り去る友人達に抜かされながら、「もう諦めたい」という気持ちが脳内を支配する。もう立ち止まってしまえ。歩いてしまえ。僕はコースを外れてしゃがみ込む。
そうやっているうちに、マラソン大会は終わって結局僕は完走できないまま、通り過ぎてきた。
大人になった僕はそんな過去の自分を見下すようになるくらいには、負けず嫌いになったと思っていた。

上野発の特急列車の発車まであと何分だろうか。
走るのをやめたら楽になれるかもしれない。あきらめれば、もう走らなくて良いのに。

彼女は田舎に帰ると言う。このところ僕たちはいつもすれ違っていた。30歳を目の前にして焦っていた。夢を叶えるためには、今じゃなきゃいけない。僕はまだ出来る。まだ、誰にも負けたくない。目の前の理想に向けて全速力で駆け抜けることに夢中だった。
全速力で駆け抜けている間は、周りの景色も音も何にも分からなくなる。僕が見ている世界には、僕の前を走るライバルらと、がむしゃらに手足を動かす僕だけだった。
夢をがむしゃらに追いかける自分は、出世に目が眩んで夢がない奴よりも立派だと思っていた。
そして、いつのまにか、彼女のことをないがしろにしてしまっていたことに今更気付く。

僕はもっと早く受け取るべきだった彼女からの手紙を握りしめていた。
「ごめんなさい。少し時間が欲しいの。東京の生活に疲れちゃった。」
手紙の文字はか細く小刻みに震えていた。
それだというのに、やはり形は美しく留まったまま。
彼女にとって東京の生活とは、僕との時間だった。手紙の最後には、今日の上野発の特急列車の時間が書かれていた。

・・・・・

JRの改札を超えると、長い階段を駆けた。電車から降りてくる人たちの波が降りてくる。右に左に波をかき分けていく。肩がぶつかるとチッ!と舌打ちが聞こえてきた。

みんな急いでいる。何かと競っている。負けて流れたらそれっきりで終わってしまう。
ぼくは誰にも負けたくなかった。
というよりも、何かと戦うことでやっと生きている心地がしていた。誰にも負けたくない。手に入れるものが増えるたびにぼくは一歩ずつ理想の成功に近づく。何かを手に入れることだけに必死だった。
仕事が終わってから彼女に会うと『最近いつも顔が険しいね』と言われた。
それでも彼女は、少し寂しそうにしながらも笑っていた。
僕は、夢を追いかける人生に彼女がいてくれて幸せだと思っていた。
何かを得るとは、大切なものを失わないために守ることだということに、微塵も気付いていなかった。

出会った頃は背負うものなど無かった。スタートラインを越えたばかりの爽快な走り。採れたてのレモンのようにはじけて軽やかだった。いつからつまらない男になったのだろう。僕はいつもギリギリを走っていた。限界まで追い込まないと目指す頂上に登れそうもなかった。

あと少し階段を登ればホームだ。山手線の車両が見えてきた。あと少し走れば間に合う。これに乗れれば間に合うかもしれない。ホームから発車案内のベルが聞こえてきた。力の限りを振り絞ってホームへ躍り出た。閉まる寸前で滑り込む。冬なのに汗が止まらない。むっとする人混みの中で、最後に会った時の彼女の顔を思い出す。駅の改札を通った後、一度だけ何か言いたげに彼女が振り向いた時、僕は何も考えずに手を振った。
「きゃっ!」次の駅のホームについて扉が開いた瞬間、ドアの付近にいた小柄な女性が押し出されてホームの上に仰向けに倒れた。みんなそれを傍観しながら、急ぎ足で電車から降りていく。「大丈夫ですか?」差し伸べた僕の手を借りずに彼女は顔を赤くしながら涙目で立ち上がって、また車内の人混みに吸い込まれていく。朝の車内はみんな何かに追われる通勤客で溢れていた。

・・・・・

僕たちは品川・御殿山の住宅街にある美術館で出会った。モダンアート展のパーティー会場は賑わっていた。
仕事上、このようなパーティーに度々参加することがあり、知っている顔もちらほら見える。
奮発して購入したブリオーニのスーツもここでは浮かない。
特段、モダンアートというものをよく理解しているわけではないけれど、この場の雰囲気にそぐう人間になるための振る舞いは心得ていた。

僕は、アート作品を堪能するふりをしながら、ふと視界に入った一人の女性を眺めていた。
彼女の手に持つシャンパングラスは震えている。
彼女が場慣れしてない感じはひと目でわかった。アート作品を眺める姿は何か儚げだった。ショートカットにアニエスベーのバックをかけている。

『ココにはよく来るんですか?』

彼女は驚いて、僕の顔をまじまじと見つめた。
思ったよりも童顔で、丸い目元が可愛らしかった。ふいに、実家で飼っていたトイプードルを思い出した。僕は困った瞳をじっと見つめて返事が来るまで待っていた。

『いえ。はじめてです。。』
『僕もはじめてです。。。嘘です』

彼女がクスッと笑って、一口飲んだグラスシャンパンで頬は紅くなっていく。最初はトイプードルみたいだと思っていたけれど、秋桜からこぼれ落ちる朝露のような清らかで素朴な人だ。気付いた時には、僕はすっかり彼女の笑顔に惚れてしまった。
彼女の目にはどんな世界が見えているのか、気になって仕方がなくなった。

『文字は、アートとよく似ています。その人の心がすごく現れるの。しかもね、見えない部分の心が。』
僕はしがない広告屋で、彼女は書道の先生。全く違う世界に生きていて、日常では出会うはずのない人だった。
彼女は素朴な学究肌で疑うことを知らない。
『声をかけて下さってありがとうございます。どうしても見てみたい作品があって、ここに来たんだけれど、ひとりで、心細かったの。』
彼女が美しい誰かの庭で咲いている純朴な花だとしたら、僕は混沌とした正解のない暗い海の中で、必死にもがく魚。それでも、僕たちの気が合ったのは、お互いがまるで違うから磁石みたいに惹きあったせいかもしれない。

彼女がふいに俯いたとき、柔らかな産毛が少しかかった白くなめらかなうなじが見えた。僕は何とも表現しづらい感情に支配されて、気付いた時には、彼女の手を引いて美術館を抜け出していた。彼女の髪から微かにレモンの香りがする。風が優しく頬を撫でていった。

・・・・・

上野駅は師走でごった返していた。山手線ホームから階段を駆け降りる。あと3分で特急列車は出てしまう。彼女はもう列車に乗っているのだろうか。

東北本線のホームを探す。一気に階段を駆け上がると長く伸びる列車が見えてきた。『白線まで下がってお待ちください!』駅員が怒鳴り声に近い声で叫び続けるホームには見送りや、これから乗り込む客でごった返している。僕は飛び跳ねながら彼女を探した。

・・・・・

季節外れの古い洋館のホテルは僕たち以外に誰も泊まっていなかった。木目調の家具と、シンプルなベッドが置かれた簡素な部屋。窓からは、小さく作られた庭が見えた。窓辺に佇む彼女は、摘み取ってはいけない野花のようだった。

『ん…ずるい…』
しわくちゃな白いシーツの上で彼女は小さく丸くなっている。唇を重ねてうなじに舌を這わせると彼女が小さく身をよじった。さっきよりも強いレモンの香りがする。
甘酸っぱいというよりも、酸っぱさにほの温かく体温が混じって、鮮明なレモンの味を口の中で柔らかく溶かしたような感覚に襲われる。
上へ上へと逃げようとしているカラダに、僕は壊さないように優しく覆い被さりながら、生温いレモンの匂いと、バターのように柔らかく溶けた感情が混ざり合う中におちていく。
窓にかかった白いレースのすき間から、しわくちゃに乱れたシーツの上に柔らかな陽が刺していた。影がゆらゆらと揺れる。
幸せだった。

・・・・・

雑踏のホーム。どこまでもヒトが流れていた。ホームに電車が到着するベルが鳴り響いたとき、人ごみのすき間から視線を感じた。振り返ると小さな身体に大きなバックを肩にかけている姿が見えた。

彼女の名前を叫ぶと驚いて振り返った沢山の視線が刺さった。その瞬間、呼吸を忘れて、時が止まる。周りの景色が何も見えなくなって、視線の先にはただ、彼女がいた。
両手で人の波をかき分けて、ドアの淵にたたずむ彼女に手を伸ばした。指先をめいっぱい伸ばしても届きそうで届かなくて、僕と彼女の間に開いた距離のように思えた。大きく見開いた彼女の瞳は大粒の涙がいまにも溢れそうで、それなのに、それを拭うことも出来ない。指先が震えた。どくどくと血が流れ込んで心臓が締め付けられるように痛む。ふいに彼女に出会った時のことが走馬灯のように駆け抜けた。今、僕の目の前にいる彼女はやっぱり佇む一輪の花から溢れる朝露みたいだと思った。
でも、もう今の僕は抱きしめることすら出来ない。

「行くなよ。お願いだから、行かないで。」

彼女は何も言わなかった。けれど、彼女の目は必死に何かを言おうとしている。パーティー会場で出会ったあの時みたいに彼女の瞳をじっと見つめて返事を待つ余裕はなかった。それなのに、たった数秒が永遠の宇宙のように感じる。

発車のベルが鳴り止んで扉が閉まった。彼女の頬には、大粒の雫が零れ落ちていた。
「待って!待ってくれ!」
いくら必死に叫んでも、彼女には届かないほどに確かな隔たりが、僕たちの間にある。
閉じたドアのガラス越しに唇がちいさく動いたのがみえた。

「ごめんね」

囁くように聞こえた気がした。僕の手には、ドアが閉まる瞬間に彼女の細い指が一瞬押し付けるようにして残した手紙があった。
列車が低く響く音を立てて僕の前から去っていく。その後で残された空っぽの線路には、強く冷たい風が通り抜けた。鼻の奥をツンとつくような強い柑橘系の匂いが突き抜ける。もう、彼女はいないはずなのに、それは確かに檸檬の香りだった。
それは今までになく強く鮮明に香る。
何年ぶりかの涙がとめどなく頬を滑り落ちた。
いくら歯を食いしばっても止めることが出来なかった。

引潮みたいにざっと人の波が引いて、ひとりぼっちになったホームの長椅子に腰掛けると手紙の封を開いた。

・・・・・

手紙の文字は、ピンと乱れることなく綺麗に一列に並んでいた。3日前にポストに入っていた手紙とは違って、文字はしなやかでその線に迷いなど微塵もない。

この手紙を読んでくれているなら、あなたに会えた時でしょう。身勝手なわたしを許してください。

あなたは、誰にも負けない強い人です。夢を追いかける強さを持っています。
わたしは、そんなあなたの背中を側でずっと見守っていたかった。
けれど、わたしは負けてしまいそうな自分が怖いのです。距離や時間が離れたとき、あなたが消えてしまいそうで、わたしはそれを孤独だと思ってしまった。
あなたが愛おしくて仕方なくて、わたしはあなたの愛を失うのが怖くなった。自分が分からなくなってしまったの。

得られないともどかしく思うのは、それを得ようと思うから。
失うのが怖いのは、わたしの手にあるべきではないと気付いているから。
前へ前へと走るあなたの心をわたしが留めておくことは出来ません。

でもね、あなたに出会えてよかった。
わたしはあなたに出会えたこの運命に、感謝をしています。

わたしの目に見えているあなたを、確かに一緒の時間をすごした日々を、わたしは決して忘れないでしょう。

ありがとう。
さようなら。

・・・・・

ひとりになった僕の手に残ったのは、脳裏にこびりついた彼女の面影と、檸檬の残り香が強く香る彼女からの最後の手紙だけだった。
決して乱れることなく美しく書かれた手紙の文字が滲んでバラバラに見えた。

全身の身体の力が一気に抜けていく。
僕は何を得て、そして何を失ったのだろう。
手から滑り落ちた手紙が冷たい風に連れていかれてしまいそうで、慌てて拾い上げた。
その時、僕が強く握ってぐしゃぐしゃになってしまった下の方に小さく書かれた文字を見つけた。
「大好きです。」
青いインクで書かれた文字は、か細く震えていて、滲んでいた。

                                 ★

追記

・この作品をリライトに選んだ理由
 まず、この作品を読んだとき、小さな劇場で映画を観ている気分になりました。風が通り抜けるみたいにすっと入ってきて、ひたすら脳裏で流れ続けるムービー。切ないはずなのに清々しさを感じました。特に、途中で何度も男性が駅のホームまで走るシーンが挟み込まれていて、時系列としてはバラバラになっているのに、流れるような心理描写が、運命的な出会いと幸せなひと時から、やり切れない男性と切ない女性の心の移り行きをスムーズに変化させていて、あぁすごいと思いました。選んだ理由は、この作品が好きだったから。これに尽きます。

・どこにフォーカスしたか
 この作品のムービーとして完成されている見事なシーンの移り変わりはそのまま残しておきたかったので、リライトでは、心理描写とストーリーに肉付けをすることに徹底をしました。
「前に突き進むように走る」「手に入れたい」という男性心理と「文字に現れる繊細な心の移り変わり」「守りたい」という女性心理の交わり合いとすれ違いを特に描けていたら嬉しいです。
そして、檸檬の香り方の違いという嗅覚の描写も少しこだわりました。

誰かの作品のリライトを初めて経験しましたが、難しい!その作品がもつ味を消さずに自分の解釈を付け加えるってすごく難しいんですね。
でも、しばらく書けなかったわたしにとって、直感で参加しなきゃ!と思ってこの2日間でこのリライトと向き合えたこの企画は救いでした。とっても楽しくて、創作する楽しさを思い出しました。
素敵な企画に参加できて良かったです。



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