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死の指針

大人になれば社内外に気軽に話せる友人がいて、
週末は飲みに行ったりして、
大変なときは不思議な連絡網で助けたり助け合ったりして、
休日はスタバ行ったり遊びに行ったりドラマでよく描写されるような生活に自動的になっていくものだろう、
と心のどこかで思っていたのかもしれない。

そんなことないね。
気軽に話せる関係はそれぞれの努力で培うものだ。
週末飲みに行けるような景気ではないし、それだけの経済力がある人間は週末飲みに行ったりしない。
不思議な連絡網はちゃんとした友人同士の心遣いでできているし、
休日スタバに行く経済力だって、おそらくそんなに沢山の人は持っていないのだ。
誰かが言い尽くしたような台詞だが、
今となっては平凡というのは成功の代名詞になってしまっている。

そして素晴らしいことに、僕はその成功を少しだけ自力で頑張って実現した。
正直経済的には無理をしたのは否めないけど、大人としてもっといい姿でありたかったから、せめて正解を知っておきたかった。
そんなつもりで、
休日友人と遊びに行ったり親しい人と飲みに行ったり、スタバに行ってみたり。
キラキラでインスタに乗れそうな生活をしばらくやってみた。
で、すぐにやめた。
とくに満たされなかった。


全てがその場しのぎのような感じがして、
どれも維持しなければ維持できない幸せのようだった。
眠ってる間だけ見れる夢みたいな、なんか、理不尽や不幸に対抗する方法であって、
ゼロから幸福を建設するようなものとは感じ難かった。
どれも楽しかったんだけどさ。

友達と遊びに行っても、好きなものの話が出来ない。
共通の趣味があっても、そこで込み入った話ができるのかは相手と自分次第。
感性だってそれぞれあって、
少なくとも僕は多くの人より"ズレ"ているため、話の合う人というのが普段の生活では見つけにくい。
きっといるのかもしれないけれど、その人も多分僕と同じで、表面上は"ズレ"を隠して生きているだろう。だから出会わない。

ていうか"ズレ"てるってなんだ。なんで自分を"ズレ"呼ばわりしなきゃならないんだよCreepy nutsをロック枠でカウントしてるやつとか飲み会で他人を酒で潰したがるウェイの方が厳密にはズレてるだろ脳がよ。

むちゃくちゃ好きだった恋人がいたときもあって、それはその時の幸せがあったことは間違いないけど、
やっぱりそれもいつか覚める夢と同じ具合だった。
だとすれば僕の求める幸福って永続性が保証されてる必要があるのだろうか。
けど、この世で永続性を信頼できるものなんて無くないか?
あっても多分僕なら疑ってしまう。
孔子もといマツコデラックス曰く、「他者を介在させずに喜びを得られること」が幸せのひとつの定義のようだ。

あってる。他者を介在しない場所、例えば創作の場なんかで自分が喜びを得る時は、基本的には誰かに邪魔されたりしない。
それで評価を貰う時にどう言われたとしても、作る最中の喜びは誰にも侵害されない。

しかし、作品は誰かに見て貰いたいし、それで褒められたり誰かの価値になったりするところで喜びを感じることもあって、
他者を介在する喜びはじゃあ、幸せじゃなかったらどう表現するものだろう。
いや、そういえば確かに、それを「幸せです」と言ってしまうのはなんだか危険な感じがする。他者に依りきってしまってるような。

いやけど嬉しいのは嬉しいし、それはもう嬉しいどまりのことなんだろうか。
甲斐があるって感じだろうか。手応えや達成感。そういったものに近いかもしれない。


大人になってからそういう甲斐や幸福を守ることが難しくなったと感じる。
僕は自分の創作圏を持ってるし、
そのなかではある程度自由に飛び回れる。
その世界では魔法使いになれる。
これはきっと、恐らく自分が実感してるよりもとてつもなく幸せなことだと思う。
だけどどうも寂しくなるのは、創作に他者を介在させ続けなかったことに問題があったかもしれない。
独りでつくり、独りで完結させ続けてきて、
仲間をつくってこられなかった。
自己否定と劣等感で、色んなチャンスを焼き消してきた。
いま、実際の友人に僕が創作をしてることを知ってる人はそう多くない。
伝える気もない。わかり合える気がしない。
自分の行為やその度を立証する必要に駆られたくない。傷つきたくない。闘いたくない。
だから、今「創作者の僕」を知ってる人たちにはできるだけありがとうの気持ちで接しようと思う。できることをしよう。創作者としてできるだけのことをしよう。
僕が創作者でいられるのは、創作者である僕を認識して、創作物に触れてくれる人たちがいるからだ。
なるべくつくろう。もっといいものにしよう。

満たされない気持ちは少なくともそれで一番ぬぐえてきた。泣くほどの孤独もなんとか才能にかえてきた。イカれそうな深淵も野性も殺意も、きちんと花火の弾にして、誰も傷つけない危険物にかえていける。
それが創作者、殺意や野性やその他の激情を飼い慣らせる人間の資格だ。


しばらく独りの時間が長すぎて、精神的に弱ってしまった。
友達を作るのは不得意だ。基本的には話が合わないし、僕も合わせられないから。
今いる友達と自分を、できるだけの方法で愛していくしかないや。
それくらいしか今は思い付かないや。



次はこの作品を作れる。あの人が聴いてくれる。
そういう前向きな続きのある喜び、螺旋状に続くような喜びに僕は期待したり安心したりするのかもしれない。
そしてそのうち、次の作品の構想を練りながら、未発表の完成品を4つ残してポッとこの世からおさらばしよう。そこまでしなきゃ、
ここは寂しすぎる。


そして来世で書こう。その時は、自分を認めてくれる親のもとで、のびのびと何とも闘わず急かされず、静かな森のそばで、のんびり絵を描いて歌を歌い暮らそう。
犬と猫と一緒に。
言葉が今ほど重要じゃなくて、
電子機器が今ほど主要じゃなくて、
みんなが今ほど苦労しなくて、
世界がそれほど忙しくない時代とかで、
陽だまりに包まれて一生を終えたい。

欲張ろう。もっと欲張ろう。欲張っていれば寂しくないから。

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