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タイトルは何処へ。

書くこと。心の内を文字にすること。
その変換作業は、なんて難しいのだろう。
心にモヤッと浮かんだ思いを、強烈に叩く感情を探す。
でも、その過程がなんだか楽しくて。

思えば幼いころから、感情を言葉にして書き留めることは好きだった。
当時の友は日記帳。薄情なことに、現在の行方はわかっていない。

小学生では新聞を作っていた。
紙面の舞台はさまざまで、時には折り紙の裏まで活用することも。
この辺りはさすが小学生、それも低学年といったところか。
きっと老眼では苦労するであろう、それほどのボリュームを誇っていた記憶がある。

私の通っていた中学校、中でも私の学年のみ、国語の授業にて作文を書く時間があった。
先生によって選ばれた作品は本物の新聞に投稿され、図書カードをゲットできるというありがたいシステムだ。
しかしながら中学生といえば、少しずつ作文の書き方も変わってくるころ。
もとい、変えることを望まれるという表現の方が近いかもしれない。
でも正直、作文や感想文、小論文に随筆の間にどんな違いがあるのか、今でもほとんどわかっていない。書き手の立場であるときは特に…って、開き直っちゃいけませんよね。
ただ、私にとって悩みの種だったのは、その”書き方”よりも寧ろタイトルだった。

それから今に至るまで、文の書き方はほとんど変わっていないのかもしれない。
そのマインドが幼き頃からほぼ同じと考えると、もはや呆れなんて軽々と飛び越えてくれる。
思いついた言葉を並べるだけ、推敲すら怠ってしまうからか、とにかく長いし、意味不明。おまけに自分勝手な側面まで併せ持つ。

それでも時々、文に目を通して、褒め言葉までくれる人がいるから幸せだ。

高校生の書いた拙すぎる文を、まだ若い先生が好きだと言ってくださったこと。
憧れの人がラジオ番組にて、抽象的な表現ばかりになってしまった文章を好きだと言い、選んだ言葉を褒めてくださったこと。
褒められるとスグに舞い上がってしまう私は、その言葉が自分の中身まで肯定してくれたと捻じ曲げて受け取ってしまう厄介者。でも、いろいろな方のおかげで、文を書くことは嫌いにならずにいられている。本当に感謝ばかりです。

書くこと。上白石萌歌さんやスピッツといった、もはや自分自身を形作る大きなピースといえる存在の影響を、長らく、知らずのうちにこれでもかというほど受けている、その事実が色濃く浮かぶ愛おしい場所。
ただ、一貫性もなく思いつきで言葉を繋げるから、タイトルまで思いつきのままな部分には、そろそろメスを入れたほうが良いかもしれない。有言不実行の王様、明日からがんばる所存です。

こうしてnoteを始めたけれど、何を書くかは全く不明。自分については驚くほどネタがないから、きっと愛してやまないadieuやスピッツについてばかり書くんだろうな。まんまと魅せられ、抱きつづけるどうしようもない憧れを。

長い長い道のり。こんなところまでお付き合いいただいた果てに、オチも結論も、タイトルまでもが不在ですが、ここまで本当にありがとうございました。
小さなしあわせが代わりとなって届きますように。

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