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年賀状不要論vsアメリカに届いた80代の友人からの年賀状

2015年~2018年夏まで、自分は海外駐在員としてアメリカに住んでいた。

渡米を機にこれ幸いと年賀状をやめたのに、日本からはるばるアメリカまで届いた1通の年賀状があった。
差出人は50以上も歳が離れた友人、Kさん。

近年の年賀状不要論には賛同しつつも、10数年来の年賀状でつながる不思議な友人関係についてしたためる。


1930年代生まれのKさんとの出会い 

Kさんとは10年以上前に当時の趣味だったバイクを通じて偶然出会った。
バイク好きの仲間の集まりだとか、バイク屋のオーナーだとかそういうものではなく、徒歩でたまたま通りかかったKさんに突然声をかけられた。

当時自分は学生で、ヤマハのドラッグスタークラシックという排気量400ccの中型ながら車体の大きいバイクに乗っていた。

本当はホンダのCB400が欲しかったけれど学生のバイト代では手が出せず困っていたところに、知人が手放すといってドラッグスターを安く譲ってくれた。

ボディが大きくていかつい相棒は、知らない人が見れば「邪魔」なバイクだった。


あるとき用事で路上駐車をしていたら、通りかかった男性に声をかけられた。

失礼を承知でストレートに言うなら、うるさいじいさんに見えた。
近所のじいさんに注意をされる、まずいな、と直感的に思った。

「これは誰のバイクですか?」と。

すみません僕のです、すぐ動かします、と駆け寄ると次に聞かれたのは意外にも「これは大型ですか?なんという車種ですか?」だった。


Kさんは退職して趣味を探していた。
そこで昔乗っていたバイクにまた乗りたいという思いを持つ、いわゆるリターンライダー志望。
大型のバイクをたまたま目にして興味を持ち、自分に声をかけたのだという。


警戒心を解いた自分は、その場でKさんには自分のバイクに乗ってもらった。
後日再会し、Kさんを後ろに乗せて2人でバイクショップに行ったりもした。
傍から見たら孫とおじいちゃんにしか見えなかっただろう。

そのお礼にと、学生身分の自分なんかにとても気を遣ってくれて、とらやの5,000円くらいしそうな箱入り羊羹をいただいてしまったのを今でもよく覚えている。


Kさんとの年賀状のやりとり

そんなKさんと年賀状の交換を始めたのはたしか、2005年くらいだったと思う。

Kさんはバイクの購入を危ないからと奥さんに止められて、その情熱をロードバイクに注いだ。

年の割りに背が高く体も大きいKさんにはおそらく不利であろうヒルクライムに挑戦し、大会にまで出た話なんかを数年にわたって年賀状で知った。

自分からはバイクで行った北海道一周旅行の話やその後の就職、結婚なんかを毎年知らせた。

就職して乗る時間が無くなったバイクは手放してしまった。
お互いをつなぐ共通の趣味はなくなったけれどなぜか年賀状の交換だけは続いた。

それが、2015年に自分が海外赴任したことで年賀状の交換は途絶えてしまった。


郵便転送は1年間有効だったので2016年初の年賀状は実家に届いたが、そこにKさんからの年賀状は無かった。

不謹慎な話だが、亡くなられたのかな、なんて考えてしまった。

2016年は第2子が産まれたので、その報告も兼ねて日本の親戚や友人へ年賀状代わりにクリスマスカードを送った。

Kさんにも送ったが、返事は無かった。

その1年後、2017年末。

この年は自分から年賀状も、クリスマスカードも1枚も送らなかった。

実は前の年に年賀状代わりに送ったクリスマスカードは、親戚や友人へ数十通出したうちの約1割が宛先不明で返送されてしまったのだ。

特に身近な30代の友人は転勤や住宅の購入なんかで転々としているので、海外赴任から2年近くの間に何人かは引っ越してしまっていた。

また、郵便の事情でクリスマスを大幅に過ぎて届いたカードも1割くらいあったと後で知った。

国際郵便なので仕方ないことではあるけれど、これならメールの方がよっぽど確実で、相手にメッセージを伝えるという本来の役割をタイムリーに果たすことができると思ったので結局1枚も出さなかった。


突然アメリカに届いたKさんからの年賀状

2018年1月7日に突然、Kさんからの年賀状が封筒に入って届いた。日本から太平洋を越えてアメリカに、だ。

自分の住所を知っているということはつまり、昨年のクリスマスカードはきちんと届いていたということの何よりの証拠だった。

この時期にKさんの名前で届くものは年賀状しかないので開ける前から中身は分かったけれど、封筒がやけに分厚い。
丁寧で力強い筆跡を見ながら封筒を開けてみると、2018年の年賀状と手紙に加えて去年とおととし受け取れなかった年賀状も同封されていた。

Kさんはとうとう大型バイクを買ったらしい。

クラッチのマニュアル操作に不安があるといっていた10数年前のとおり、オートマの白いビッグスクーターの横に立つKさんの写真入り年賀状が入っていた。

それを見て、こちらまでうれしくなった。

手紙や年賀状に加えて、一冊の文庫本が入っていた。
本にはKさん自作のしおりがはさんであり、最後のページには宛名と日付が鉛筆書きされている。

中身を読む前から、なんとなくKさんはそういうことをしそうだなと考えて背表紙に手をかけ、最後のページを先に見て、宛名と日付を見つけた。

10年以上会っていないのに、相手の考えが分かるのも不思議な感覚だ。


本は明治時代の史実を基にした歴史物、自分では絶対に手に取らないジャンル。
パラパラとページをめくってみるとどうやら、主人公が東京に出るか、海外に出るかと葛藤をする場面があるようだ。

海外で働く自分を思い浮かべてこの本を送ってくれたのかもしれないし、偶然かもしれない。読みきっていないので真意はまだわからない。

ただKさんが手紙の結びとして、「2017年最高の1冊をお送りします。日本人に生まれて良かった」と書いていたので、結末を楽しみに読みたい。


年賀状不要論について思うこと

この正月はTwitter上で年賀状不要論を多く目にした。

自分は基本的にその意見に賛同する。

メールで済む時代だし、形式にとらわれて逆に忙しくなったり手間を感じたりする必要もないと思っている。総論では大賛成だ。

個人的にも前述のとおり、手紙よりも国を超えて確実に、タイムリーに相手に届くメールの方が好ましい。手間も費用も少ない。
なんならSNSだって十分だ。
アメリカ駐在で年賀状と縁遠くなってむしろせいせいしている。


では各論ではどうかというと、きっとKさんへの年賀状だけはこの先もずっと書き続けるだろうと思う。
不思議な10年以上の関係は、いまや年賀状だけで繋がっている。

Kさんがものすごく長生きしたらあと30年はこの交信が続くことになる。
その時自分は60代、Kさんは110代。

じいさんと孫のような年齢差のコミュニケーションだった僕らの関係は、いつかじいさんとじいさんのものになる。

その頃にはきっとメールすら古くなっていて、年賀状なんて2世代、3世代前の歴史の遺物になるかもしれない。

そんな時代に逆に年賀状がどんな意味を持つのか、送ってみたいし、受け取ってみたいし、いまから楽しみで仕方ない。


そんなやり取りが本当に実現したら、その時にはまたブログでも書こうと思う。

60代の自分に届いた110代の友人からの年賀状、というタイトルで。

好きなコーヒー豆を買い、早起きをして、また何かを書きます。