物語のための、ほんとうの言葉を考える

最近、昔読んだ児童文学を読み返したりしていて、ふと、こどものころ、自分は常に物語とともにあって、そして物語をつくる人になりたかったことを思い出した。

わたしは、漫画家になりたかった。小・中学生のころ、毎日毎日次々といろんな話を考えては、何ページも何ページも漫画を描いていた。ぺんだこは日に日に厚く固く、ひどい時は腱鞘炎になった。(筆圧が強すぎるのだ…)
少女漫画っぽくてファンタジー要素の強い話が多かった。もうほとんど覚えていないけど、不思議な生物がでてきて、それに導かれるままに世界がすべてオレンジ色に見えるおかしな異世界に迷い込む話や、自分の考えてることが服の柄になって出現してしまう女の子の話なんかを書いていた。そしてだいたい完結する前に飽きてしまい、次の話に行ってしまう。

次に、小説家になりたかった。これも、漫画ほどではないけどノートや原稿用紙に何作かの物語を書いていた。うさぎやハムスターなどの動物が主人公だったような気がする。(当時とにかくハムスターが流行っていたし、アニメなるずっと前の、素朴な絵柄のハム太郎の愛読者だった。)自分の書いた文章に、自分で挿絵をつけていた。

あのころは次から次へと、物語の断片が頭に浮かんできて、授業中のノートの落書きは、形にならない物語の切れはしであふれていた。

漫画や小説を書かなくなった高校生のころも、まだ物語はわたしのそばにあった。演劇部に所属していたからだ。これまでとは違う、物語との関わり方に、わたしは夢中になった。そして自分一人だけじゃなくて、チームで物語を共有し作り上げていく難しさを知った。

自分の書いた脚本を、誰かが声に出して読み上げるというのは、奇妙な気持ちだった。初めて誰かに読まれるときはいつも恥ずかしくって死にそうだったけど、わたしの中だけで完結していた物語が、別な他者の声によって形が生まれるその瞬間は、不思議な感動があった。

自分の書いたものを、舞台へと形にしていく中で、物語はわたしだけのものではなくなっていく。わたしの中だけでは完成しえなかったものが、組み上がっていくとき、そこには面白さもあり、自分(が考えた)以外のものが入り込んでくることへの抵抗もあり、複雑な気持ちになった。頑固で融通のきかないわたしは何度も仲間と衝突した。

それでも、本番の、幕が上がって降りるまでの間ー舞台上にいるときも観客席にいるときも音響席にいるときもーひとつの物語をそこに出現させるときのあの興奮と緊張感は、わたしの中に生々しく残っていつまでも忘れられない。


……………………


しかし、わたしは物語をつくる道を選ばず、彫刻科に進んだ。そこにはまた違う刺激があったし、わたしは物語を読んだり作ったりするのではなく、自分自身が、自分の物語の中を生きている主人公のような気持ちになっていた。

そして、わたしはその中でしばらく言葉を見失った。
自分の物語を生きながら、その物語を語る言葉は出てこなかった。おかげで自分が作った作品の話だってまともに語ることができなかった。

無理に言葉にしようとすると、まだ熟していない青くてすっぱい果実を齧ったような「まだこれじゃない」という気持ちが沸き起こった。

これだと思っていた言葉を繰り返し繰り返し語るたびに、その言葉が腐っていくような感覚を覚えたこともある。そうだと思って語っていたのに、だんだんとまるで嘘をついているような、なんだか詐欺師になったような気分になってしまうのだ。

本当のことを語りたいとき、その言葉が熟すのには時間が必要だということを知った。自分の中にあるイメージを、彫刻という形に表現するとき、それで自分の中では何かひとつ完結してしまって、それに対して何か言葉を紡ぐことに抵抗を感じてしまったのも事実だ。

それでも、学生じゃなくなって、外にでて自分のことや作品について人に伝えることや、他者との対話の大切さを痛感し、そしてそれがやはり自分にとってネックになっていることに気がついた。未熟な青い言葉を齧ることも、わかりやすい言葉を繰り返して言葉を腐らせることも、怖くて、核心から話題をずらしてしまう。大事なところをはぐらかしてしまう。

そしてそうしている時、わたしはきっと誰かの真摯な言葉を受け入れられずに聞き流してしまっていることも、たくさんあるんだろう。


……………………


やっぱりもう一度言葉と向き合わなくては。noteで文章を書き始めたのは、そんな意識もあってのことだった。作品とは直接関係ないことから、でもわたしにとって大切なことを、すこしずつ、言葉にする練習をしている。

そんな中で、十数年ぶりに児童文学やファンタジーを読み返して、わたしはハッとした。わたしは忘れていたのだ、これらのファンタジーが現実だということを。
子どものころはとても自然に、ミヒャエル・エンデの「モモ」や「はてしない物語」の世界が、「ハリー・ポッター」の世界が、「ゲド戦記」の世界が、「クレヨン王国」が、別の次元だとしても、ここではないどこかで本当に存在しているんじゃないかと思っていた。

でもいつしかそれらの物語を「ファンタジー小説」として、現実にはあり得ない「夢物語」としてどこか切り離していたような気がする。そして、そうしたファンタジーに熱中するのはこどもっぽいことだとすら、思っていたかもしれない。

だけど、違った。ゲド戦記の「さいはての島へ」を読み終えた時、ああわたしは今本当にゲドとアレンとともに、死の国を越えて長い旅路をともにしたのだと、そう思った。ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んで、ああそうだ、わたしのなかにも灰色の男たちはいたのだと、彼らは本当に現実にいて、わたしたちの時間を盗みにやってくるのだと気がついた。

そうして、わたしの心のなかに、小さなモモが戻ってきた。

それは乾いた大地に水が戻ってくるような心地よさがあって、もっと吸収したい、もっと水が欲しい、そんな欲もでてきた。
思い出さなければあやうく、言葉も形も、何もかも干からびきってしまうところだった。

もうすこしで、わたしはわたしの中にあるイメージを、そしてそこから生まれた形を、怖がらずに「これは現実のものなんだ、本当の景色なんだ」と話せる気がする。物語を見つけられる気がする。もっと鮮やかに、その景色を見ることができる気がする。

そしてそのために、その景色の中へもっと深く潜るための計画を、密かに練っている。うまくいくかはわからない。でも、それはまだないしょの話。


(見出し画像作品:「昨日の話をしよう」大理石、ブロンズ  2018年)

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諸岡亜侑未

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