ル_グウィン

ファンタジーとの向き合い方② 〜魔法を信じるか?〜

(よければ前回記事「ファンタジーとの向き合い方 〜アースシーを旅して〜」も合わせてどうぞ)

さてはて、ゲド戦記全6巻を全部読み終えたわたしは、事前に購入しておいたアーシュラ・K・ル=グウィン特集のユリイカのページをいそいそとめくった。

しかし冒頭の上橋菜穂子さんと荻原典子さんの対談を読みながら、わたしはものすごい違和感を感じてしまい、夜中にベッドの上で「ちがーう!そうじゃない〜!!」と叫びながら本を閉じてしまった。

この違和感は一体なんなんだ。これがオタクの解釈違いってやつ…?よくオタクが揉めるやつ…?そんなモヤモヤが収まらず、他のページを読めばいいのに、気持ちを落ち着かせて再度対談を読み直した。

そして、ああこのお二人とわたしではファンタジーに対する向き合い方が違うんだな、と気づいた。

どこがどう違っているのだろう、考えていくうちにわたし自身さらに深い考察ができて面白かったので、ここに記したい。

| ファンタジーと現実世界


●フェミニズムやポリティカルコレクトネスはファンタジーを殺すのか

ゲド戦記4巻以降は確かに賛否両論があるが、否定派の意見として代表的なものであろう「ファンタジーにフェミニズム(現実の問題)を持ち込んでいる」という点が対談のお二人にもひっかかったようで、極端に言えば「ポリティカルコレクトネスがファンタジーを(もしくは物語を)殺している」というふうに見えているようだ。(さすがにそこまで露骨な言い方はされていないが、まあそうともとれるような発言はある…)

確かに、この作品にフェミニズム的な視点やポリティカルコレクトネスという意識がないと言えば嘘になるだろう。性の問題だけでなく、人種の問題、アカデミズムの問題、社会的に弱者とされる人々の問題。そうした問題に対する皮肉や批判はたしかに含まれているし、それらの問題に対する問いかけが、4巻以降の物語を動かしてきたのだと言って過言ではない。

しかしわたしは読んでいてそれが物語を殺しているとは思わなかった。たしかに4巻を読み始めた時の戸惑いはあった。その中で、3巻までの魔法は、死んでしまった部分もあるのかもしれない。物語は、それまでの魔法について今一度考え直さなければいけない段階に来ていたのだ。
しかし、そこにはテハヌーという新しい魔法の息吹の存在がしっかりと描かれていた。

3巻までは船旅が多かったが、4巻以降はもっと生活の匂いがした。土の匂いや木々の匂いを感じた。そしてその中で、アースシーという世界に、その社会に疑問を覚えるテナーと共に、わたしはその世界の当事者のような気持ちで考えていた。

特に、ロークでの問題は自分たちの問題のようにも思えたのだ。5巻「ドラゴンフライ」を読む少し前、ちょうど世間では東京医大の入試で不正が行われていたニュースで沸いていた。
ニュースを見て、わたし自身も憤り、自分の体験を元に記事も書いた。(東京医大のニュースを見ても驚けなかった話

アイリアンの前にずらりと並ぶ長たちの姿は、入学当初、ずらりと並んだ23人の教員スタッフ(女性は一人もおらず、男性しかいなかった)を思い出させた。

わたしはアイリアンと一緒になって、その内にある炎を燃やした。
ロークを壊しにきたというアイリアンに、「わたしはアイリアンであるだけではないわ」と叫ぶ彼女に、わたしは激しく頷き、彼女の炎を直に感じた。
彼女に手を握られアズバーの手が火傷を負ったように、わたしの心にも消えない炎の痕がついたような気がした。

ファンタジーと現実の世界は互いに共鳴しあって、そしてわたしはアースシーの世界に、今わたしが立っているこの世界と同じ重みと存在感を感じることができたのだ。

そしてそれは4巻以降の物語に限った話ではなく、3巻までの物語でも、わたしはアースシーの世界を現実と向き合うのと同じような気持ちで向き合っていた。が、おそらく対談の二人の向き合い方はまた別であったのだと思う。

対談の中で、こんな会話があった。

上橋「わたしは"イズム"というものが一番苦手で、「◯◯イズム」と名付けられているものすべてから、すったかたった、ほいほいほい、と逃げています。」
荻原「そもそもイズムから逃れるために別世界を作るんですよね」
上橋「その通りでござる!」
荻原「現代社会の問題点に直接つっこまなくていいから、別の、あるいは過去の世界の物語を描く。」


なるほど、このお二人の中でのファンタジーは、"完全に現実から切り離された"世界ということのなのかもしれない。
たしかに、そういう種類のファンタジーもあるだろう。
お二人それぞれの「守り人シリーズ」と「空色勾玉」などの作品は小学生の頃に読んだきりで(でも当時とても面白く読んだと記憶している)詳細に思い出せないので今はなんとも言えないが、当時わたしが夢中になっていたまだ記憶も色濃いハリー・ポッターと比較して考えてみようと思う。


● 魔法の力を持たない人々

ハリー・ポッターもゲド戦記も、魔法使いが活躍する物語である。そして、前者にはホグワーツ、後者にはロークと、魔法を学ぶための学院もある。(ちなみにこの魔法の学院が登場したのはゲド戦記が初めてだそうだ)

しかし同時に、魔法の力を持たない人々も登場する。注目したいのは、この「魔法の力を持たない人々」の描かれ方だ

ハリー・ポッターでは魔法の力を持たない人々は「マグル」といわれ、マグルの世界は私たちが今生きているこの現代の社会だ。しかし、ほとんどのマグルは魔法使いたちの存在を知らない。

「マグルの世界に干渉してはならない」というのが魔法界における鉄則で、マグルの前で魔法を使えば裁判沙汰になるレベルだ。

ハーマイオニーのようにマグル出身の魔法使いもいるし、魔法族とマグルの間に生まれる魔法使いもいるため、その関わりはゼロではないにしろ、社会的な関わりは絶たれていると考えていい。

ハーマイオニーのような存在がいるおかげで、ちょうど(ホグワーツの入学年齢である)11歳のころにハリー・ポッターを読んでいたわたしは、その入学案内がこないものかと妄想したものだ。
残念ながらホグワーツから入学案内が届くことはなかったので、マグルの世界でわたしはハリー・ポッターを読みふけった。だから、そこで起こる数々の冒険も事件も、マグルのわたしには直接関わりのないことだった。

巻数が進むにつれてどんどん話が重くなるハリー・ポッターだが、魔法界の風向きがどれだけ怪しくなろうとも、ヴォルデモートや死喰い人たちがどれだけ勢力を増そうとも、その中で自分の大好きだった登場人物が死んでしまって、オイオイ泣いて落ち込んでも、それは魔法界の話だった。

魔法界に憧れをもちつつも、とはいえ自分はマグルであると、そこにある物語に対してどこか距離を持って見て楽しんでいた部分があったように思う。
そう、ハリー・ポッターの魔法とファンタジーは、わたしにとって別世界の出来事で、だからこそ楽しめた部分ももちろんあったのだと思う。


さて、ゲド戦記の方はどうだろうか?

アースシーの世界では、魔法使いと、魔法の力を持たない人々は、一緒に暮らしている。特にこの世界では魔法使いは親子で受け継ぐものではなく(魔法使いで結婚するものはほとんどいないというのだから)どうやら力は血とは関係ないらしい。

村にいるまじない師や魔法使いは、人々や家畜の病気や怪我を治したり、お産の手伝いをしたり、壊れた花瓶を直したり、船に乗って風向きを調整したりする。そうして村人たちからは識者として尊敬されている。(女まじない師たちは敬遠されているところもある)

ロークで杖をもらった正式な魔法使いともなると、貴族の家や領主の家に雇われることが多いようだ。

そう、アースシーの中では魔法使いやまじない師はひとつの職業にすぎない。

王なき間はロークの学院が政治の中心になっていたと言うが、3巻「さいはての島へ」の旅路を経てレバンネンがハブナーの玉座についてからは、そこが政治の中心となっている。そして、レバンネンは魔法の力を持たない人だ。

また、魔法の力を信じない人々もいて、それがテナーや様式の長がいたカルガド帝国である。(彼らは魔法の力を信じない代わりに、アーキペラゴの人たちが持たない宗教を持っている。)

そのような世界の中で魔法の力を持つ者たちはごくごく一部の人たちだけだ。多くの人々は16〜17世紀ごろのヨーロッパの文明に近い普通の生活を送っている。

この世界には、魔法の力を持つものと持たないものの間にハリー・ポッターのような分断はない。それゆえ、マグルの世界から呑気に魔法界の出来事を眺めていたときとは違い、わたしはアースシーの土を自らの足で踏みしめ、共にはてみ丸に乗り海を渡らなければならなかった。

そして魔法使いたちは、ある時は医者のようであり、ある時は探検家のようであり、ある時は芸術家のようであった。

実際に作者のル=グウィンはエッセイ「夜の言葉」の中でこう語っている。

「アースシー三部作は、ひとつの観点から見れば、芸術家の物語であると言えよう。魔法使いとしての芸術家。トリックスター。」
「魔法の術は芸術的行為である。この意味で三部作は、芸術に関わる想像の体験であり、創造の過程であると言える。」

この物語の中で魔法使いたちは、そのものの真の名を知ることで(また、探り当てることで)魔法を使う。この世界では子供が成人する時に、村のまじない師や魔法使いに真の名を授けてもらうのだが、この名付けの儀式では、名を授けられるものと授けるものとが二人で裸で川に入る。そして川の中で魔法使いらは名前を「決める」のではなくそのものの名前がやってくるのを「待つ」のだという。

おそらく、これがル=グウィン自身のやり方だったんだろう。(同じエッセイ「夜の言葉」の中で)彼女は「どうやってアースシーという世界をプランしたのか?」と聞かれこう答えている。

「でも、わたしはなにもプランしなかったわ。わたしは発見したのよ。」
「どこで?」
わたしの潜在意識の中で。

自ら作り上げるのではなく、潜在意識の中へ潜り、その世界が見えるのを待つ。それはこの物語に登場するまじない師や魔法使いたちと同じやり方である。

「アレゴリーが大嫌い」という彼女が唯一、魔法使いを芸術家だと例えているのには大きな意味があると思う。逆に言えば、芸術家は魔法使いだと言えることになる。

それはつまり、現実に魔法が存在するということにならないだろうか。


| 現実の中の魔法

わたしは普段、石を彫ったり粘土をこねたりしながら彫刻作品を作っているのだけれど、(わたしなんかがこんなことを言うのはおこがましいことだと思うけれど)わたし自身、ル=グウィンが「プランしたのじゃない、(自分の潜在意識の中で)発見したのだ」と言っているような感覚を持つことはよくある。

現れるイメージはわたしが組み立てて構成したものではない。
もちろん作品として形にする時どう見せようかと思案してドローイングやマケットを制作するけれど、そのもととなるアイデアが一体どこから来たのかと聞かれると、「潜在意識の中から。」という他ないような気がする。

そしてイメージはイメージのままだと、捉えづらく、気がつけば忘れていってしまう。多くの人が昨日見た夢を覚えていないように。

わたしはそのイメージを知るために作るのだと思う。化石を掘り出すように石を彫る。そして出来上がっていく形に、明確になっていくイメージに、自分で気付かなかった(自分の中のひとつの)真実を教えられることがある。

そこに至る道は全て自分で思考したとはいい難く、自分の意識しない力が働いている、そうしたものに動かされているように感じることが多々ある。それこそが、もしかしたら現実の世界における魔法の力なのかもしれない、とすら思えるのだ。

ル=グウィンはユング心理学や東洋哲学に親しんでいたそうなので、創作する上でそういう考え方(探求の仕方)をするのは自然なことだと思われたのではないかと思う。

(ちなみに、ユング心理学の視点からゲド戦記を考察したものは、河合隼雄著「人間の深層にひそむもの」(大和書房)の中の[ファンタジーとこころの構造]に書かれているものがおすすめです。興味があるかたは是非読んでみてくださいね。)


●魔法を信じるか?

少々冒頭の話からずれてしまった。

対談のお二人の中では、そうした現実的な重みのある魔法は、堅苦しく感じるのかもしれない。たしかに、そうじゃない魔法の楽しさも、ファンタジーにはあるものだ。(なんだかんだ言って私もUSJのハリー・ポッターエリアで5歳児のようにはしゃぎ倒し、子供をさしおいてオリバンターの杖屋で杖振ったしね!)

しかし、それはそれとして、それでゲド戦記のアースシーという世界を「指輪物語やハリー・ポッターのほうがわくわくするし、つまらない」というふうに考えるのは惜しいなあと個人的には思う。(まあでもそこは本当に好みだし、文句を言うつもりもないのだけど、なんでこの対談を冒頭に目玉として持ってきたかなあとは思う)

わたしとしては、時を経て4巻以降の物語にフェミニズムや政治性が持ち込まれたのも、6巻まで読んだ今では自然なことのように思えるのだ。

だってあそこは魔法使いだけが住む世界ではないし、永遠に過去にとどまる昔話や神話の世界でもない。私たちの生きる世界で時間が流れ時代が動いていくように、アースシーにもまた時間が流れ動いていくのだ。きっと、彼女が亡くなった今でも、その世界はあるのだ。

「現実の問題をファンタジーに持ち込まない」ということは、ファンタジーと現実の関わりを断つことなのだ。そうすると、逆に現実にファンタジーを持ち込めなくなってしまう。魔法もファンタジーも、現実にはあり得ないと、信じないことになってしまう。

わたしは信じている。ファンタジーの世界を、魔法を信じている。

現実にある魔法は、たしかに石を浮かせたり箒で空を飛んだりすることはできないだろう。(何度ウィンガーディアムレビオーサで石が動かせたらいいのにと思ったことか)
だけどそれは、わたしに何かをー大切な真実をー気付かせてくれる力となったり、アイリアンの火のように、物事を変えていくための勇気を与えてくれる力となるだろう。石は動かせなくても、人を動かす魔法の力は確かにある。

それがわたしが大人になってファンタジーと向き合って、見つけたひとつの真実だ。

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