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量子論が分かりにくい理由と場の量子論

「現代物理の自然観」に書いた文章を転載します。


「場の量子論」は、物理学の自然観を、「原子論」から「場の理論」、「波動一元論」へと変革しました。

ですが、そのような事実が、あまり知られていません。

それと関係するのですが、量子論はとても分かりにくくて、具体的なイメージを持つこともできません。

それどころか、イメージを持つことを拒否する傾向があります。

吉田伸夫は、場の量子論の立場から、以上のような状況に関して疑問を呈しています。

以下、この件に関して、同氏の「素粒子論はなぜ分かりにくいのか」(技術評論社、2014年)、「量子論はなぜ分かりにくいのか」(同上、2017年)の二書を参考にして書きます。

同氏の立場は、「正統的とされる量子論の考え方に対して異を唱えて」、「リアルなイメージに基づいて、常識的な立場から量子論を理解しようとする試みである」と書いています。

そして、「リアルなモデルを用いずに説明するという方法論は、量子論の勃興期にボーアやハイゼンベルグが課した“戒律”と言っても良い」として、これら「量子力学(粒子の量子論)」を批判しています。

それに対して、同氏は、従来の自然観を変革した「場の量子論」に基づいて、「量子論的な現象の根底にはリアルな波動が存在する」と考えます。

つまり、同氏は、「場の理論」、「波動一元論」の立場から、分かりやすく量子論を解釈していて、とても興味深いと思います。


なぜ分かりにくいのか


吉田伸夫は、「量子力学」を、運動速度が充分に遅い現象に適用するための実用的な理論でしかなく、力学体系と呼べるほどのものではないというニュアンスを込めて、「粒子の量子論」と呼びます。

相対性理論に相当するような原理的な量子論は、粒子ではなく場に量子化の手法を適用した「場の量子論」なのです。

ところが、一般向けの書物は、物理学会の大勢に従って、素粒子は粒子だというイメージに終始するので、「場」の概念に辿り着けないままに終わってしまいます。

素粒子論の「標準模型」は場の量子論に基づいて作られています。

場の量子論が確立される段階で、「原子論」から「場の理論」へと、自然観の革命があったにもかかわらず、そのことについて言及がされません。

また、量子論的な現象に関しては、数式が何を意味しているのかという議論に決着が付いていないため、具体的なイメージの記述が避けられてしまいます。

その代わりに、晦渋な哲学的議論がなされ、具体的なイメージが作れなくなってしまいます。

また、基礎物理について発言する人が、根底にある物理現象に言及をしません。

これらの原因は、ハイゼンベルグやボーアらの正統とされた「量子力学」の方法論に由来します。


行列力学


量子力学の先駆けとなったニールス・ボーアの「原子模型」の理論は、「粒子の軌道」という概念を使わず、自然数である「量子数」で指定される状態だけを扱います。

ボーアが与えたこの「量子条件」は、こういう関係式があると天下り的に導入したものです。

これが物理的に何を意味しているかは、まったく分かりません。

また、原子はなぜ安定かという問にも答えません。

ヴェルナー・ハイゼンベルグの「行列力学」の方法論によれば、物理学における基礎理論の目的は、物理的な実体の解明ではありません。

実験・観測によって得られるデータ間の関係を明らかにすることなのです。

また、観測されていない状態の記述が禁止されるので、具体的なイメージが作れません。

これでは、基礎的な理論とは言えません。

行列力学の基本方針は、物理的な実体の動的な時間変動を追求するのではなく、有効性が実証された関係式をもとに、状態の移り変わりの規則性を見いだすことです。

つまり、「軌道」という考え方を排するのです。

このような方法論を絶対視すると、「変動過程は原理的に記述できない」とする行き過ぎた主張が生まれます。

また、「電子は粒子である」という主張を、ちゃんとした議論なしに前提として、位置と運動量を基本的な物理量と見なし、その「交換関係」を理論の出発点とします。

そたため、粒子であるにもかかわらず、位置や運動量が確定しないという不可解な主張になりました。

そして、この方法論を正当化する哲学が考案されました。

それが、「相補性原理」です。

ですが、相補性を原理として認めて、そこで思考停止状態になってしまいがちです。

また、位置と運動量の交換関係の方程式から導かれる「不確定性関係」も、原理に準ずるものとされます。

そのため、これが物理的に何を意味するかをしっかりと議論することが方法論的に許されません。

フォン・ノイマンらは、「量子力学の数学的基礎」(1932)で、ヒルベルト空間のベクトルと演算子を用いて量子論を定式化しました。

この定式(演算子法)では、観測の際に、波動関数が不連続かつ非因果的に変化して、射影演算子を作用させた状態に飛び移ります。

ですが、これは数学的なものであって、物理的な過程を具体的に表すものと考えることは困難です。

また、ノイマンは、人間が観測結果を認識することによって物理的な状態が確定すると考えましたので、純粋な物理過程を対象としていません。


波動力学


それに対して、シュレディンガーの波動力学は、波動一元論によって、動的な変動過程を扱います。

シュレディンガーは、それをド・ブロイが考えた進行波ではなく、その場で振動を繰り返す「定在波」として考えました。

シュレディンガーは、電子を、原子核の周囲に形成される定在波であると解釈したのです。

これによって電子の軌道という概念は否定され、原子全体にわたって波が広がっているというイメージが描かれました。

ですが、シュレディンガーの議論では、「波動関数」は、場の状態を表す「場の波動関数」ではなく、粒子がどこにいるかを表す「粒子の波動関数」でした。

そのため、波動関数が一箇所に集中して粒子のように見えるという議論には無理がありました。

また、原子から飛び出た電子が粒子性を持つことを説明できませんでした。

そのため、シュレディンガーは、もともと波動をリアルな波と考えていたのですが、波動を実在しないものであると考えるボルンの「確率振幅(遷移振幅)」説を、受け入れざるをえませんでした。


場の量子論の扱かわれ方


「場の量子論」は、すべての素粒子を含む統一理論であり、新たな自然観をもたらしました。

ですが、その自然観は、一部の先鋭的な理論家の物理学者の間でしか共有されてきませんでした。

それには、いくつか理由があります。

場の量子論に深く関わったのは、エルンスト・ヨルダンとヴォルフガング・パウリですが、この二人は、職人的なタイプの物理学者だったので、場の量子論をどのように解釈すべきかについて、あまり発言しませんでした。

また、場の量子論は、基礎理論ですが、実用性がほとんどありませんでした。

場の量子論を計算ができるように近似したのが「粒子の量子論(量子力学)」に当たるのです。

そのため、実用的な分野で仕事をする物理学者は、粒子の量子論を使って議論できる問題に集中してきました。

場の量子論で計算ができるのは、場同士の入り組んだ相互作用を無視した時だけです。

その時は、対象を粒子として扱うことができるので、「場」の概念が必要なくなるのです。

ですが、場の量子論に基づいて物理現象をイメージすると、量子論的な現象が分かりやすくなります。

場の量子論の立場から見れば、「粒子なのに位置が確定しない」は、「場の強度が不確定になって広がりがある」と理解されます。

また、「粒子であると同時に波である」は、「波が粒子のように振る舞う」と理解されます。


場とは


「場」とは、至るところに存在し、あらゆる物理現象の担い手となるものです。

そして、媒質が「空間の中で移動できる」のに対して、場は「空間と一体化して動くことができない」ものです。

「時間とともに変化する物理現象」は、「場の値が変化する」ことで動きをもたらしています。

場で生じる最も基本的な現象は振動であり、ある場所で振動が始まると、すぐに波として周囲に広がっていきます。

そのため、場は、無数の縦のバネを横に連結して並べた(ベッドのマットレスのような)モデルで表現できます。

バネは仮想的な内部空間を表現します。

ゲージ理論では、場は、数学的な抽象空間で値が定義されます。

これは、3次元空間とは異なり、形式的には3次元空間のあらゆる地点ごとに微小な空間が内在していることになります。

量子論的な場は、この「内部空間」に広がることで不確定性を持ちます。

秩序のある世界が実現されるのは この内部空間で生起する微小な波動が、定常状態に落ち着くからです。


粒子とは


「粒子の量子論」では、粒子は明確に定義されていません。

ですが、「場の量子論」によれば、素粒子は粒子ではなく、場がエネルギーを得て振動して、粒子のように振るまっている「粒子的状態」です。

内部空間に定在波(正弦波)が形成され、維持された場合に、粒子状態が維持されます。

定在波とは、波を閉じ込めたときに、干渉によって打ち消されずに残る共鳴パターンです。

原子内部の電子は、常に原子核から作用を受けるために、粒子性が失われてしまいます。

ですが、波を伝播させる以外の相互作用がない場合は、伝播する波は正弦波となります。

この時、わずかに異なる波長を持った三角関数の波がいくつも重なることで、「波束」と呼ばれる局在化した波を形作っています。

この仮想的なエネルギーの塊が「量子」です。

ある地点に局在した振動ではなく、伝わっていく波の形になる「エネルギー量子」が素粒子です。

素粒子の位置や運動量が確定しないのは、これがエネルギー量子という波であることに由来します。

素粒子が生まれたり消えたりするのは、波が立ったりおさまったりする現象だと考えれば、不思議ではありません。

また、内部空間には2次元以上の広がりがあり、振動の方向が変化すれば別の粒子になると考えることができます。

質量は、内部に閉じ込められたエネルギーです。

電荷は、場の性質を表す定数であり、素粒子が電荷を担って動き回るわけではありません。

素粒子論の「標準模型」は、ゲージ対称性を持つ場の量子論ですが、時空の最小要素が関わる現象を無視した場合に成り立つ「有効理論」です。

有効理論とは、解像度を低くしていった時に見える現象について記述する理論であり、あるスケール以下の変動は見ないようにするのです。


経路積分法


波動光学では、光の伝わり方をホイヘンスの原理を使って考えます。

これによると、光が伝わってきた各地点の振動が新たな波源となって、二次的な無数の波の重なり合いで、光の波の伝わり方が決まります。

ですから、A地点からB地点に至るには、すべての可能なルートを通る光が存在します。

ですが、直線ルート以外は、互いに干渉して打ち消し合います。

量子論は、波動光学の考え方が、粒子の運動のような一般的な物理システムにも適用できると考えるのです。

リチャード・P・ファインマンが考案した「経路積分法」は、波動をベースにしたイメージしやすい手法によって量子論の理解を深めました。

経路積分法は、交換関係を原理と見なさない量子論であり、「量子力学」よりも基礎的なものです。

経路積分法では、観測していないときの物理的状態が、さまざまな経路の和として記述されます。

粒子の軌道は1本の線ではなく、ぼやけて広がることになります。

古典解の周囲に、小さな量子論的な揺らぎがあると見なせます。

作用が最小になる基礎方程式の解だけを求めるのが古典論、作用に応じて振動する波の重ね合わせを考えるのが量子論です。


波動関数


波動関数は、実際に存在する波そのものではありません。

「粒子の波動関数」は、ある状態にあった粒子が、その後にどこに移動している可能性があるかを示す量(確率振幅・遷移振幅)です。

場の量子論においては、場の変動としての「場の波動関数」と、変動が伝播する過程としての波の、2種類の波があります。

「場の波動関数」は、あらゆる場所と時刻において、場の値がどのような広がりを持つかを示す無限個の変数の関数となります。

これは形式的に定義できるだけであって、具体的に計算することは不可能で、波動関数が使われることは稀です。


摂動法


場の量子論は、方程式を解けば答えが得られるという単純なものではありません。

方程式を満たさないものも含めて、すべての過程(振動する関数の積分)を考慮しなければならないので、近似的な計算を使います。

これには「摂動法」を利用しますが、これは、いったん相互作用を無視し、その後、段階的に取り入れていくという方法です。

相互作用を無視する段階では、場に生じる波動は粒子として扱うことができます。

次の段階では、相互作用は、この粒子の生成・消滅・変転として扱うことができます。

この粒子は実際には存在するものではありませんが、計算する際には粒子として扱ってもかまわないので、「仮想粒子」と呼ばれます。

摂動法は、相互作用がなく仮想粒子が飛び回る部分と、瞬間的な相互作用の部分に分けて計算します。

ある相互作用から次の相互作用があるまでの間は、粒子として扱うことができます。

「ファインマン・ダイアグラム」は、あくまでも摂動法の計算をするときの式を表すものです。

この図は、実際に起きる物理現象を、そのまま表しているわけではありません。

素粒子の交換によって「力」が生じると説明されますが、これは計算の仕方を言葉に置き換えたものに過ぎません。

摂動法で近似的な計算を行うと、特別な場合にそれが成り立つだけなのです。



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