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「コミュニケーションはスキルじゃない」? ~伝えること伝わること#1~

自分がいわゆる「コミュ障」だと気付いたのはだいたい中学生のころ。
なんとなく、「うまく会話が噛み合わないなあ」と感じ始めたことがきっかけでした。
そう、なんとなく。
たぶん他の人から見たら気付かないだろう、そんな違和感から自分は会話というものについて考え始めていました。

中学から高校に上がるころには自分の中で、会話に対するルールをいくつも持つようになっていました。
例えば、
「相づちはちゃんと打つ」
「目を見て話す」
「相手が話しているときは話さない」
「会話の主題に意識してそこから離れない」
「相手の話8割、自分の話2割。それも相手への質問を中心に」
などなどです。

いくつかはそんなのあたりまえだろ、というような内容であったり、またいくつかはちょっと意識しすぎでは、というようなルールでした。
思春期のもるげんは常に会話に対して気を張り、試行し、それがうまくいっているかを検証して新しいルールを設ける。
非常に肩肘張った会話をしている青年だったのです。
その傾向は今なお続いており、それゆえに精神科医などという仕事にもついているのかもしれません。

ある講習会にて

職場の都合で、ある講習会に出ることになりました。
それは緩和ケア系の講習会で、ときに終末期の患者さんに対してどのように接すればよいか、というものを扱う内容だったのです。
そのときの講師は非常に話の面白い、こちらを引き付ける講義を展開されていました。
自分も、なるほど、こういうスライドの作り方は勉強になるな、と感心している一人でした。
ある一言が放たれるまでは。

コミュニケーションはスキルじゃない

この一言を聞いたもるげんは、ただ一瞬呆然とし、しかし次の瞬間にはカッと腹の底が煮えかえっていました。
きっとこの講師の真意は
患者さんと向き合うとき、必要なのは技術じゃなくて人間として向き合うことなんだ
ということだったと思います。
その点については自分も全くの同意です。
しかし、コミュニケーションはスキルではない、という一言はどうしても容認できなかった。
それは違う、と叫びたいものでした。

noteを、小説を、言葉を通して

現在、自分はこのnoteでいろんなことを書いています。
作品の感想であったり、医学についてであったり、ニュースや自分の身の回りのことであったり。
幸いにも多くの方に読んでいただき、多くの反応をいただけております。
こうやって自分が伝わることの喜びは、唯一無二のものです。

同時に自分は同人作家として小説を何篇か発表しています。
まだまだ未熟ものですが、いくらかの感想と、楽しみにしているという声が自分を奮い立たせてくれます。
これもまた、自分にとって代えがたい喜びの一つであります。

さて、そんな中でこのnoteでいろいろ書いていますと、どうしても内容がとっ散らかってしまいます。
つまり、ある時は創作者として、ある時は医者として、ばらばらなスタンスでこのnoteに言葉を並べるわけです。
考える主体は自分一人だというのに、このnoteがまるでおもちゃ箱のような様相を呈しているのです。
まあ、それはそれで味があるものですし、その方針を大きく変えはしませんが。

とにかく、作家、そして医者、その両方を満たし、なおかつ自分自身の中に通底するテーマで何かを書き続けてみたい、と思いました。
では、そのテーマをどうするか。
そう考えていたら、ふと、思い起こされたのが冒頭の二つのエピソードでした。
そして、この二つのエピソードに通じるものは、作家としても医者としても、なにより一人の人間として重要なテーマであると感じられたのです。
そのテーマこそ「コミュニケーション」です。

伝えること 伝わること

コミュニケーションとは何なのか。
それは、発信者がいて、送信方法があって、受信者がいること。
そして、発信者が送信し、送信したモノを受信者が受け取ること。
この一連の構造こそがコミュニケーションであると、もるげんは考えます。
結構な場合、コミュニケーションについての話題では送信方法に目が向けられがちですが、コミュニケーションというのは、送信者と受信者が居なければ成り立ちません。
故に、タイトルは「伝えること 伝わること」以外にないと決まりました。

それは、送信者が「どう伝えればいいか」と考えることから始まります。
どんな送信方法があるか、どう送信するかを選び取り、
送られた送信方法がどのような挙動を取るかを考察し、
送られたそれを、受信者がどう受け取るかを想定し、
受け取った受信者の衝撃を推し量ることに、コミュニケーションは終わります。

本シリーズでは伝えるという発想、伝える技術、伝わる過程、伝わりやすさ、伝わった影響、こういったことを考えていきます。
なので、具体的な伝え方、スキルだけで終わりません。
例えば、我々はどのように言葉を選ぶのか、という内的な起こりからコミュニケーションを見てみたり、
ノンバーバルなコミュニケーションがどうして苦手な人たちがいるのか、を考えてみたり、
文字という媒体と音声という媒体でなぜ伝わり方が違うのかを考察してみたり、
受信者(読者)がどんな情報に価値を置き、伝わった衝撃を受け取るのかを予想してみる。
時にはコミュニケーションそのものを数学的に解き明かした理論に触れたり、哲学や行動経済学、文化人類学といった領域にも広げて考えてみたいと思います。
そう、ただ伝える、伝わるだけじゃつまらない。
認知や感情、そしてゆくゆくは人というものも一緒に考えていきたいものです。

そして、この思考と試行の果てに、なぜ私は会話にたくさんのルールを設けたのか。そして、本当に「コミュニケーションはスキルではないのか」ということを考えていければよいなあ、と何となく思っています。

皆さんに伝えたいこと

私はずっと、それは生まれてからずっと、伝えることについて考えてきたと思います。
私の心が芽生える昔から、「他人とは何なんだろう」という感覚があり、それは今でも残っています。
おそらく私自身の特性的な要素もあるのだと思います。
これまで考えていたこと、今考えていること、そしてこれから考えていくだろうことを、ここで皆さんに、伝わってほしいなと願っています。

本シリーズはだいたい、月1本で連載をしていこうと思っています。
時に連作で、いくつかの話をまたいで一つのことについて考えたり、時事ネタに絡めてコミュニケーションというものについて考えていきます。
また、なるべく裏取りをしたり、引用などを求めていこうと思っています。

これも、一つのコミュニケーションの実験場です。
「note」というコミュニケーションの場で、「書く」というコミュニケーションのスキルを試す場でもあります。
私が皆さんに伝えようとして、どのように伝わるのか。
もし、このシリーズを通して何か感じ入るものがあれば、私にとっての幸いです。
その先に、コミュニケーションというものが、ただ人間的なものではなく、ただスキルというだけでもない、複雑さの向こう側を垣間見ていきたいです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
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