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京アニ放火事件の判決とレヴァイアサン ~もるげんよもやま話~

前回の記事で、京アニ放火事件の話はしないといったな。

あれは嘘だ

この話をしないといったけれど、何故話すことにしたのか。
それは、「割と後出しじゃんけんが正しいと思っている人が多い」こと。
そして「再び人はレヴァイアサンを生み出すために、感情を捧げる必要があるのか
ということを考えたいためです。
このことは同時に、今自分が考えている「感情という生き物」としての人間を理解するためにも必要だと思ったので、前言を撤回しました。
予め述べておくと、本被告の刑事責任とかの是非とかについては言及しません。
精神科医のもるげん、というより一人の考える人として、本件を考えていきます。



後出しじゃんけんが得意な人たち

本件の判決が出たときに、ツイッター(現X)でいくつかの言動が見られました。
その一つが「死刑になるなら生かした意味がない」というようなものです。
まあ、そんなことを言っていたのはごく一部でしたが(おもにヒロのユキ)、現代日本でそんな言葉が出るとは思いもよりませんでした。

確かに、結果だけを見れば被告には死ぬこととなります。
しかしながら、治療させず裁判を受けずに死ぬことと、治療の果てに裁判によって死刑に至ることには十万億土の隔たりがあります。
裁判を受ける、という権利が行使されたかどうか、という点です。

権利を受けるということ

司法の歴史は詳しくはありませんが、日本において限定すれば、司法制度が整備されるのは明治時代以降になります。
それまでは「切捨御免」が罷り通る世紀末だったわけです。
たとえどんな理由があろうと、お侍様に申し開きすることはできないのです。

ところ変わりフランス革命以後、人権の思想が広まっていきます。
つまり、人間が平等であるのなら、その紛争も平等に解決しなければならない。
ならば、だれがそれを解決するのか。
トマス・ホッブスはこの自然状態(万人の万人に対する闘争)を解決するためにその権利を国家に譲渡することで、法律(自然法)を成立させよ、と述べました。
これが述べられたのが、「リヴァイアサン」という彼の書物です。

江戸時代はその階級社会によってすべての人は紛争を平等に解決されなかった。
しかし、人権概念の導入により、すべての人が裁判を受ける(起こせる)権利を得るに至ったわけです。
裁判を受けるということは人権の一部であることは、否定されえない事実だと、私は考えます。
故に、前述のような結果が同じであるという考えを示す人は、人権というものを全く理解していませんと公言して憚らない人と言えましょう。

裁判は感情を祓う場所ではない

一方で、翌日に控訴した弁護人に対して「その必要がないのではないか」といった言説も見られました。
これ以上、遺族を傷つけるのか
といった理由とともに語られることが多いようです。

これに対して自分はこれも違う、と考えます。
控訴自体が被告人の権利である以上、それを止めることは誰にもできません。
そもそも死刑という、人命を奪い去る最も人権を侵害する刑罰に対して1度の裁判だけで決めていいのか、そんな疑問もあります。

明言しておきたいのですが、遺族の方々にとって裁判が長引くことは耐え難い苦しみであると思いまし、その点については心から同情します。
遺族のお気持ちを鑑みれば、一刻も早く裁判を終結することが望まれるように見えます。
ですが、いち日本国の市民としては、この裁判は徹底的に言葉を尽くさねばならないと考えます。その理由は、前述の通り一人の人間の人権が奪われる刑罰を執行されるのならば、あらゆる観点からその妥当性を検討しなければならないこと。
そして、本事件の最大の関係者である被告を含め、なぜこのような事件が起こってしまったのかを解明する必要があるからです。

何より、裁判所というシステムはその最大の目的を紛争の解決や犯罪の判決に持っています。

裁判所の仕事は,個人間などの法律的な紛争を解決したり,犯罪を犯した疑いがある人が有罪か無罪かを判断したりすることにより,国民の権利を守り,国民生活の平穏と安全を保つことです。

https://www.courts.go.jp/about/sigoto/index.html

つまり、被害者家族の感情如何で裁判を終了したり短縮したりしてはいけません。
この件についての徹底的な解明こそが、私が本裁判について願うところになります。
恨み、憎しみ、悲しみ。
そういった感情を解決するために裁判所があるわけではないのです。

再びレヴァイアサンを生み出さねばならないのか

ホッブスは自然状態によって万人の闘争状態になってしまう。そのために各々の人権を自然法に委任することで国家統治を説明しようとしました。
確かに人権は素晴らしい概念です。これによって近代国家が生まれ、今の私たちの生活があります。
この人権を守るために、単一の人間という単位ではなく国家や法律というシステムに人権を委ねることにしてきたのが、今の我々です。

システムの最大のメリットは感情によって左右されないことです。
人間が感情の動物である以上、どんなに自制しようとしてもその行動には感情が滲み出てしまい、判断に感情が反映されます。
それが人間という生物種の限界であり、素晴らしい点でもあります。
ですが、こと人権などという、感情に反する判断を下さねばならないような場面が多い概念に対して人間というのは非常に無力です。
人権を運用するには、感情によらないシステムを構築する必要があったのです。

現代という社会では、どうもこの感情でシステムをオーバーライドしようとする動きが多いように見えます。
本件でも、控訴の部分でそれらが見えたように、ハラスメントやフェミニズム、マイノリティなどの部分部分で感情的な衝突が増えています。

もう少し観察しないといけないのですが、もしこのような感情的な自然状態が現代に再現されているのなら、そしてそれがシステムをも乗っ取ってしまっているのなら、我々は感情をレヴァイアサンに委ねねばならないのかもしれません。

感情の生き物について

最近になり、自分はようやく
人間は感情の生き物
ということに気付きました。

感情とは理性の対極にあるものだ、とずっと考えてきました。
様々な経験と学びの中で、ようやくそうではないと理解するに至りました。
つまり、身体的な反応(痛覚や五感)と同じレイヤーに感情があり、別のレイヤーに理性がある、というものです。
感情というものが人間存在のプリミティブな部分に深く接続している以上、どんなに理性を耕そうとも感情を上回ることはできないのです。
30年生きてきて、ようやく悟った一つの事実です。

それでもなお、自分は人間の善性を信じています。
それこそが、ときに冷酷にも見える裁判を代表とするシステムです。
人間の限界を人間の外側に拡張することで、より善いものとして機能できるようにしている。
人類の偉大な知恵の一つだと思います。

人間が感情の生き物である以上、「結果が同じだ」という発言や「控訴は遺族が苦しむ」という発言も理解できます。
けれども、このシステムというものが、いまだ不完全であったとしても、人間が人権を尊ぶために作り出したものであるということは忘れないようにしたいものです。

人間は感情の生き物
これは自分の中で消化中の命題です。
いつか、この命題を真正面から解き明かしていきたいものです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
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