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エネルギー

私は、私がつくりたいモノをつくる人です。
今回は、私の創作のエネルギーがどこから湧いてくるのか、
人間とエネルギーの関係について最近 考えていることを話したいと思います。

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私は人は皆、同じくらいのエネルギーをもともと持っていると思っています。
それはどんな方向にも流れうるし、日々それをどう扱うのかを考えながら生きています。
湧き上がるエネルギー量は多分、筋トレと一緒で毎日の意識の持ち方で増やしたり衰えさせることが可能だとも思います。
私の場合は、ゆっくりと増やしていっている。そしてエネルギーをバラバラに使うのではなくて、集中させるようにも訓練しています。

私は今、桑沢デザイン研究所でデザインを学んでいます。
デザインを一年学んで、デザインにはそんな個人的なエネルギーは必要ないのかも、
私がしていることはアートなのかな、なんて悩むことも多かったのですが、
やっぱり私はエネルギーを感じるものが、とても、好きです。たまらん。
そこに美を感じる。今の段階では、エネルギーが美の原点だと思っています。

私が企業人だった時、職場の人間関係を調整することや、他人に受け入れてもらうことに多くのエネルギーを遣っていました。
そして内から湧き上がる感情、エネルギーの火を押さえ込むためのエネルギーも同量に必要でした。
自分のなかで激しく燃えて、一生懸命に消して、エネルギーの遣い方が心地いい循環ではありませんでした。

自分がつくって動きたいタイプなのに、自分に自信を持てずに社長秘書をしていたから、
自分の意見を押し込むことはとてもとてもエネルギーのいることでした。
そこから解放された時(退職)に、サンティアゴ巡礼の道を女一人で歩いたエネルギーもまた、凄かった。
25kmくらい歩いた後に絵を描いて文章を書いて、とにかく自分の見ている世界を語りたかった。
何が私を突き動かしていたのかは分からないけれど、歩き続けて描き続けた。
その時に、私にエネルギーをくれたものってやっぱり美しい建築や自然だった。
私の場合は、人との交流じゃなかった。人と話すことはそんなに自分に感動をくれなかった。
私はガウディや教会といった建築から、歩くエネルギーと自分の生きる地球の美しさ、感動を知った。
それは、人と言葉を通じて「わかる」ことではなく、建築を構成する土や空、光をつうじて「感じる」ことだった。
その時に、私は自分の生きる道をなんとなく決めた。
自分が語ること以上に、自分がつくるものを通じて、自分は「生きていきたい」と。
サンティアゴ巡礼記ご興味ある方は是非読んでみてください〜!

今、ものをつくる時、とてつもないエネルギーが必要になる。
作品はその時の私の分身である。
私はコンセプトから自分で考えたいタイプだから、それが楽しいだけ、しんどさもある。
そして、それを言葉で説明することは本当にしんどい。
私にとっては真理だと思うことが、他人には伝わらない。

幼い頃に、私はたくさんの児童文学を読んで育った。
そこには動物が人間と話をしたり、言葉でなぜそうなるのか説明できない世界が広がっていた。
私は、そこから、高校生の頃に、離れた。
そしてサンティアゴ巡礼と自分が生きている世界の息苦しさから、またそれが必要だと思った。
それは、私が必要としていたし、それが受け入れられる余白のある社会になってほしいという強い願いがあった。

それを伝えていくために、ロジカルで説明的なデザインの世界に敢えて飛び込んだ。
それらは相入れない。美大に行った方がよかったと皆に言われる。
でも、ファンタジーをリアルにしていくために、デザインの力が私は必要だと思っている。
できないことに挑戦しているのかもしれないけれど、私はそれを、する。貫く。
人間が全て説明できる、納得できるなんて、人間のエゴであると私はいいたい。
だから、毎回とんでもなくデザインの課題に取り組むときはエネルギーがいる。

そんな時にやっぱりエネルギーをもらう先は、彫刻とか建造物とか、人間が魂を燃やして作り出した作品だ。
そして、説明がつかない自然。
人はエネルギーの遣い方をうまく扱えるようになれば、きっと今ある壁を越えることが、できる。
と私は信じている。

私が意味なく様々な建築に触れたり、作品に触れたい理由は、エネルギーを得るためだ。
水俣から京都に現在移り、先生に勧められるままに東寺へ行った。5回はきている。京都に来るたびに来る。
ここには、立体曼陀羅の仏像がある。

仏像を見ながら、考えたことはやっぱり、エネルギーのことだった。
「エネルギー」って言葉が、日本語にしたときに何かずっと考えいた。
私は「欲」なんじゃないかと思った。
サンティアゴの道を歩いたことも、デザインの領域でファンタジーの世界を表現することも、東寺まで不慣れな彼の明らかにサイズ感の違う自転車で危なっかしく観に行くのも、
私を突き動かす説明できないその「エネルギー」は、「美しいものに出会いたい、死ぬまでにそれに触れたいという「欲」」なのだ、と思った。
そして、欲によって喜怒哀楽しながら全身全霊で生きている自分を嬉しくも思った。

私は、つい2年前まで、
自分の欲やエネルギーを正しく遣えていない気持ち悪さをどうにかするためにエネルギーを沢山つかっていた。
今もとてもうまく遣えている状態ではないかもしれない。
でも、少なくとも全力で、正直に、生きている。
そしてジュエリーを水俣でつくっている。
いつもジュエリーのことを考えながら暮らしている。

2年前までは、社長秘書をしていて、給料をたくさん貰って、ほしいものを買いに行く私だった。
今は、収入はなくて、お店にはアイディアや自分の作品を置いてもらえることを想像しながら歩く。
物を見る目が、変わった。物を見て、想像力がワンワン広がり、急いでお店を出て、スケッチをする。
あのパーツはどこに行ったらあるのかしら?
あの感触を紙で表現するためにはどうしたらいいんだろう?
これは化学繊維?天然繊維?

秘書をしていた時には、考えないで生きていけた世界にすんでいた。
今は、世の中に溢れる物がなにでできているのか気になってしかたない。
そして、その時に、仏像の素材的・技術的な素晴らしさに、また気づく。

私は今、とんでもなく、エネルギーに溢れている。
自分がしっくりと心地よく、飽きることのないエネルギーに。

人は皆、同じだけのエネルギーを持っている。
これから、もっともっと自分が表現していきたい世界を、
表現するための技術を身につけるためにそのエネルギーをつかえるといいな。


京都のとあるカフェから.

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