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Camino ーいま、ここに続く道ー

道。
私は聖地 Santiago de Compostela へと延びる道を歩いている。
私が歩く道は「北の道」、かつてイスラーム勢力がイベリア半島へその勢力を拡大させた時にキリスト教徒が上へ上と追われ発展した道だ。

道を歩いていると様々なひとと出会う。
将来に迷う若者、健康のために歩く人、人との出会いを求め歩く人。

この巡礼路には目的地がある。
目的地を目指して歩いている。

精神的な目的地には終わりはない。
そう思って歩き始めた私は、歩きながら様々な人に出会い、出会う人の言葉と向き合いながら、そして自分の進んでいる道について考えていた。


ここに来る前、日本では興味のあるトークイベントに話を聞きに行ったり、面白そうなひとの歩いてきた道を知ることに夢中になった。

まるで正しい道や効率的な道があるかのような、looks betterな道を探してばかりいた。

スペインに来ても、国籍・年齢・価値観を超え、様々な人がそれぞれの歩んで来た価値観に基づき巡礼について語る。
皆 語ることは違う。


霧で前が見えない、
快晴で遠くまで見渡せる、
目の前の道ではなく、広がる一面の海に目線が奪われたり、
雨でぬかるんだ泥まみれの足元ばかりに注意を奪われたり、

道に迷ったり、
近道したり遠回りしたり、
前に人がいると安心したり、

いろいろな道があり、不安になったり安心したり嬉しかったり怖かったり、

これらの道、すべてが「今」私が踏んでいる道であり、
それらに正しさや誤り、優れているものや劣っているもの、
人が歩いた道だけが道ではなく、
自ら道をつくっていくことだってできる。

いろいろな人があなたの歩いている道に、そして彼らのやり方で語る。
一見、正しいやり方や道があるように見えて、
道に他人の軸で乗るのではなく、
そこには正しさも劣っていることもないから、

「ただ、心地良いからそこに立っている」

前に人がいないから不安、
前例がないから辞めておこう、

私が歩いている速度は遅いかも、
友達が先に行ってしまう、

決められた距離を歩けなかった、
スタンダートに合わせていけない、

こんな気持ちにばかりに支配されて、
いつ私は「今」を歩いているんだろう。


美しい景色が広がっていれば、暫く立ち止まって写真を撮ってもいいし、
思わず描きたくなるような建物があればそこに座って描き始めればいい。
文章が思いつけば堂々とmacを広げて書き出せばいい。


道は前にビーーーンと広がっているように思えるかもしれない。
早く目的地に着きたくて色々な気持ちや直感、居心地の良さを無視して無理をして早足になっているかもしれない。

心地良いことは何をしているとき?

直感で何かしたいと思って、いろいろと考えて辞めてしまって、
考えすぎていろいろなことが難しくなっていない?

あなたの立っている道は間違っていないし正しくもない。
私はただそこに立っているだけで、どうせ立っているのなら心地よい気持ちで立っていたい。

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