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第34話「何もみてない、何も考えてない」

5月を迎えると、躑躅が終わり、
皐月の花が庭中を彩る。

様々なところに皐月の木があり、
陽の当たり方によって、
そして種類によって、咲く時期や色も異なり
暫く楽しむことができる嬉しい季節。

ただ、緑色の5ミリから1センチ程度の
小さな芋虫🐛が付き、
皐月を丸坊主にしてしまう。

調べてみると「瑠璃鐫花娘子」
ルリチュウレンジという
黒い蜂の一種の幼虫らしい。

今までは、放って置いたのだが、
今年は摘んで取り除くことにした。

食べられている葉の近辺を
よくよく見ていると、
最初は緑の葉に同化して
見えていなかったものが、見えるようになり、
芋虫を見つけることができるようになる。

そして僅かな違和感を感じると
そこに芋虫がいるようになる。
気がつくと、相当数の芋虫を
捕まえることができたのだが、
翌日、もう一度捕まえようとすると
見えるようになるまでは一定の時間がかかる。

僕らは、普段目の前にあるものを
何気なくみているが、
「本当にものを見ているのだろうか」
「どれほど見過ごしているのだろうか」
と考えてしまう。

僕の友人で
ディンギー(小型のヨット)の、
世界選手権まで出た彼は、
風の固まりが見えると言う。

一緒に葉山や逗子沖を
レーザーで走ったのだが、
僕には風は見えず、
遅れをとって、更に風を押さえきれず
よく沈没をしたものだ。

しかし、一流の人には見えるのだ。

同様に、魚釣りの達人や漁師さんも、
そこに魚がいるのが見えるという。

最近の楽しみというと、
庭の桜の木に
小さな啄木鳥(コゲラ)が、
穴を掘って住み着いたので、
朝夕と穴から可愛い顔を出しているのを
眺めることである。

コゲラ


一人暮らしをしていたのが、
近頃、お嫁さんを連れてきて、
どうも中には雛がいそうな感じで、
ぼーっと眺めているだけで
笑顔になってしまう。

一方で、大きな啄木鳥である
青ゲラの鳴き声と
木を突くドラミングの音は聞こえるが
どうしても見つけることができない。

鳥の観察の達人は、
僕が見つけられないものを
見つけられるのかも知れない。
そして、鳥の僅かな違いで
名前を言えるのであろう。

結局、普段、僕は何もみていない、
見えてないのでは無いかとの思いに至る。

木の葉の形一つとっても
本当に見えているのだろうか?
人の顔色だけは、みるのが
得意になってしまっていないだろうか?

そして、だから、
デッサンが下手なのだとの思いに至った。

これは、何も目に映るものだけでは無く、
日々使われる言葉の洪水の中で、
その言葉の本質を何気無く素通りして、
見えていないのではないかとも思う。

ポスト・トゥルースの時代、
フェイクが常態化する世界だからこそ、
バズワードに捉われず、
その言葉や事象の本質を
しっかり考える必要があるのであろう。

大量の情報の中で、
見てないこと、見えてないこと、
本質を理解していないことを理解して、
ほんの少しでも見て考えることを
放棄しないようにと
初夏の日差しの中で
芋虫を摘みながら思うのである。


森の黒ひげ塾
塾長 早川 典重


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