迷人伝 その11(完結)

 紀昌がヒマラヤに旅立ってから九年の年月が経過した。その間、地球が太陽の周りを九回もまわり、地球自らも三二八七回転した。移りゆく季節は再び訪れるが、人にとって同じ時間は二度と訪れることはない。

 かつての同級生たちは、各々の人生を歩んでいた。社会人として働き盛りの時期を迎えていた者もいれば、早々に結婚をしてしまった者もいる。すでに親になった者も少なくない。彼らの記憶の中では、紀昌は笑いのネタに成り下がっていた。「中学校の時、変なやつがおったんやけどな……」といった具合だ。当時は戦慄さえ覚えた紀昌の奇行は、ユーモラスな出来事に経年変化していった。普通の暮らしに安住している彼らにとって、紀昌は自分とはまったく関係のない非日常的な存在なのである。

 だが、両親は別だ。たった一人の息子を軽く笑い飛ばすわけにはいかない。両親は行方不明になった息子に捜索願を出し、大学の休学手続きをしていた。復学の望みをわずかばかり期待して。しかし九年も過ぎると、もはや紀昌の退学処分は決定事項になっていた。紀昌の行方を探しまわったが、何一つ有益な情報は得られなかった。最初は必死になって紀昌の行方を探していたが、九年もの時間が経つと、もう何もすることがない。警察から良い連絡があるか(悪い連絡の場合も充分ある)、紀昌がふらっと家に帰ってくるのをただ待ち続けるしかない。

 紀昌は正当な手続きでパスポートを取得し、正当なルートで国外に出ていったのだから、少し調べれば彼がネパール行きの飛行機に乗ったことはすぐわかったはずだ。おそらく警察はろくすっぽ紀昌の行方を探さなかったのだろう。

 両親が紀昌の姿を見たのは、あるドキュメント番組が放送されていたテレビ画面の中だった。ヒマラヤ登頂を目指した登山家たちの証言を集めたドキュメント番組である。彼らは皆「ヒマーラヤには神がいる」と言っていた。「神を味方にできるかどうかが、登頂の鍵を握っている」とも言う。「神がそこにいれば、雪崩は決して起こらない」と証言する者もいた。中には「神には天候を覆す力がある」と、興奮して語る探検家もいた。

 両親は、何気なくその番組を観ていた。別に面白かったわけではない。ただ他に見るものがなかっただけのことだ。紀昌がいなくなってから、両親の間には会話らしい会話はなくなっていた。テレビはその緩衝材としての役割を果たしていただけである。

 しかし、番組がついにその神の存在をカメラに捉えた瞬間、両親は身を乗り出してテレビに齧りつくことになる。

 テレビの画面には、地鳴りを轟かせながら落ちてくる雪崩の中に佇む一人の人間が映し出されていた。カメラを携えたディレクターらしき人の「危ない!」という叫び声が妙に生々しい。雪崩に飲み込まれたかと思われたが、なぜか雪崩は真っ二つに割れて、彼を避けていったのである。ディレクターは、思わず「彼が神だ!」と絶叫した。カメラは可能な限り望遠で彼の姿に迫った。そこには、まるで獣のような人間が一人佇んでいた。

 両親にはそれが紀昌であることがわかった。どんな姿に朽ち果てようと、自分の息子であれば瞬時に見抜けるものである。それだけでも驚きなのだが、次に起こった現象に両親は文字通り腰を抜かした。

 望遠レンズで撮影しているため、カメラの画面は気持ち悪いくらいに揺れている。ぼんやりと映し出されている紀昌らしき人物は、ゆっくりとした動作で両手を高々と上げた。すると、先程雪崩落ちたはずの雪の塊が宙に浮き上がるではないか。それらは一つの大きな塊となって、紀昌らしき人物の頭の上に浮遊している。なんと彼は、それをさらに高くまで持ち上げて、雲に変えてしまったのである。それまで晴れ渡るほどの好天気だったにも関わらず、あたりは一瞬にして大吹雪に襲われた。山の天気は変わりやすいと言うが、ここまで一瞬に変わってしまったことに、ディレクターは声にならない声で意味不明なことを口籠っていた。

 残念ながらテレビの画面は、強烈な吹雪一色となり、紀昌らしき人物を見失った。もう一度カメラが彼を捉えることはなかった。

 時間にして数分しか映らなかった紀昌の姿を見た両親は、まず息子が生きていたことに歓喜した。次に、もはや自分たちの手に負えない存在になってしまったことを悟った。

「あれは確かに紀昌だが、もう私たちの息子ではない」

 両親は、紀昌のことを諦めた。たとえ紀昌を見つけ出すことに成功したとしても、日本に連れ戻すことは不可能に思えたのだ。それに紀昌が日本の社会で普通に日常生活を送れるとは到底思えなかった。彼の居場所は、この日本の窮屈な社会には存在しないだろう。息子のためにも、そして自分たちのためにも、紀昌は辺境の地で暮らすほうがいいと、両親の意見は暗黙のうちに一致していた。結局、この映像が両親が紀昌を見た最後の姿になったのである。

 当の紀昌は、決してモテモテの人生を謳歌したわけではない。しかしながら、彼の類稀なる努力によって、自信と生きがいを見つけたのは間違いない。紀昌が幸せかどうかは本人にしかわからない。多くの人からすれば、それは一般的な幸せから程遠いように思われる。誰でも気楽でバカバカしい生活、そして小さな成功を望んでいる。社会の枠に縛られているが、逆に安全と安心が確約されているとも言える。歳を重ねれば重ねるほど、社会に対する息苦しさにますます鈍感になってしまう。残るのは、都合のいい安全と安心だけだ。そのほうが幸せと言えば、幸せなのかもしれない。

 紀昌はその社会の枠から飛び出し、ついには人間の枠をも超越してしまった。他のあらゆる日常と可能性を犠牲にして、超人的な能力を目指したがゆえの生き辛さ。時代が違えば、彼の超人的な能力は遺憾なく発揮されたかもしれない。しかし、現在の日本において、紀昌に活躍の場は与えられていない。異質なものを排斥するちっぽけな世界で、ただ絶望を感じながら絶望を与え続けるだけである。

 今後、どのような険しい道を歩んでいくのかは、おそらく紀昌本人にもわからないだろう。ただ、彼の“迷人伝”はまだまだ続くに違いない。

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