死へのアンチテーゼ

【注意】 この文章には星野源さんの人間的な部分に対して、個人的な解釈が書かれてあります。ソースも曖昧な部分があります。苦手な方は引き返して頂きたいです。ご意見は受け付けております!

「クソみたいな毎日だけど、また笑顔で会いましょう!」
これは、POP VIRUSドームツアー最終日、アンコールの中での言葉だ。
パッと聞けば、忙しい彼には日々大変なことが山盛りで、お客にもお客できっと辛い日々がある。
それを最終日、声がかすれる覚悟で叫び、偶然居合わせた人々と分かち合う言葉に聞こえた。
人と人とが共に生きる瞬間に感じられる。

しかし、彼を知る度にひしひしと感じるのは「孤独」の二文字だった。

彼の才能は多彩で、様々な人との出会いがあるだろう。歴の浅いファンから見ている限りでも友人は沢山いそうだし、何かを創り上げる仲間にも恵まれているのではないかと思う。でも、どうしたって孤独に見えるのだ。

「さらしものfeat.PUNPEE」のPUNPEEさんのバース、「イヤモニで閉じこもって また自分のせいって気づいてる」
これはPUNPEEさんの詩なので、星野さん自身がこう思っているとは限らないが、きっと同じように思っているのではないだろうか。星野さんは「創る過程」を様々な場所で語っているが、その姿勢はかなりストイックなものに感じられる。また、同時に違うものをいくつも創り続けている。享受しているファンの一片として、この言い方はどうかと思うがもう少し休んではどうかと思う時だってある。

ずっと音楽を、演技を、言葉使って自分の内面を見つめ続けることはどうしたって恐ろしい事だろう。自分を表現する方法が多ければ多いほど、それに即した表現ができる。裏を返せばそれだけ多角的に、正面から、自分という人間に対して、丸裸でぶち当たらなければならない。それに加えて、生きていれば誰か他人の感情をキャッチする。その度に、どれに当てはめるか考えて、再構築する。もし、それがうまくいかなければ、きっとどうしたって音楽の、言葉の、演技の中に「閉じこもって」しまう。もっと、上手くいくはずだ。逆に、それがうまくいけば星野さんがよく口にする「楽しい」に変化するのではないだろうか。星野さんが「楽しい」と口にするときは本当に楽しそうだ。その「楽しい」をファンはワクワクして享受し、歓声をあげる。でもその歓声は星野さん自身に当てられたスポットライトにはならない。生きている人間たちが、その一瞬交わった交点に星野さん自身がいたに過ぎないのだ。

「クソみたいな毎日だけど、また笑顔で会いましょう!」

加えて星野さんには、病気の過去がある。生きているこの世は地獄で、死ぬことよりも苦しい。生死をさまよった彼には、きっとどこまでも、すぐ一線のそばに、死が寄り添っているのではないだろうか。
人は死が怖い。怖いけれど、怖いようにプログラムされているから怖いのであって、実際に死は生ぬるいほど優しく悪魔のようにすぐそばにある。対して、生きるということは圧倒的に苦しい。ずっとずっと苦しくて、辛い。そっと寄り添い続けるバグのような甘美の死を選ばず、地獄の中をただひたすら進むことで生きる。その中で笑顔は唯一の武器だった。

これは私の勝手で個人的な意見であり、ここに書くべきではないかもしれないが、生きることとは殺し、殺される覚悟を持つことだと思う。次の瞬間私は死んでいるかもしれない。誰かを殺しているかもしれない。本当に一瞬のうちに起きる出来事だ。それがどんなに恐ろしい事かを歩くたびに確かめて、腹の内でこらえる。誰かに殺されない、誰かを殺さない。その為にどこまでも他人と自分を見つめ、それぞれに距離をとって冷静であり続ければならない。時には自分か他人かを殺しかけなければならない時だってある。でも笑顔は武器だ。武器であり盾だ。笑顔だけで解決することだってある。

「クソみたいな毎日だけど、また笑顔で会いましょう!」

話がそれてしまったが、彼にとって生きるということは地獄の中を進むこ十七のでは無いだろうか。生き続けている限りクソみたいな毎日に直面してしまう。それでも、その日々を生き続けて、また、そうやって生きている人間たちが、その一瞬交わった交点で、一斉に「楽しい」と笑顔を交わしあうことは最高の死へのアンチテーゼだと私は思う。

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