「おげんさんといっしょ」と「豊かさ」

「おげんさんといっしょ」を観た。星野さんが、NHKオンデマンドで見つけたと、坂本九氏の「上を向いて歩こう」(インスト)に合わせたダンスの番組を流した。映像は白黒だったが「雨に唄えば」のコズモような楽しくて心躍るダンスだった。星野さんはこの映像を「豊かだ」と評した。


 その翌日の朝ドラ、「エール」で小学生くらいの子どもたちが歌うシーンがあった。正直に言えばそんなに上手ではなかった。でも、「豊か」だった。音楽や芸術は豊かなものだなんてすっかり忘れていた。そうして心に留めてみると豊かさはたくさん日常にあった。書道教室の、まだ自分の苗字が全部漢字で書けないけれどきっと何枚も書き直して展示してある書、住宅街のバイエルを練習するピアノの音、チャリンコに乗りながら鼻歌を歌う人。上手なこと、売れている音楽、流行の絵柄。そうした洗練されたものも、もちろん素敵だけれど、そうではないいろんなものがここに確かにある、それが誰かの生活の毎日に溶け込んでいるというのは豊かだと思い出した。


 豊かさというのは時としてビジネスにされがちだと思う。公立図書館が、どう考えても使いにくい建築家のエゴみたいな施設で、その市や県のアクセサリー的立場にしか存在しないことがある。音楽をひっそりやっていれば明らかに怪しすぎるレーベルの詐欺みたいなDMがSNSに届くこともある。芸術に正しい価値を見出さないお金というのは豊かさからかけ離れていて、私たちはそうしたものをあまりにも摂取しすぎている。物質的な豊かさを生み出すことが正義になって、そしてもっと芸術の根本的な豊かさがあることを忘れてしまった。


美しいもの、美しくないもの、おいしいもの、おいしくないもの、おもしろいこと、おもしろくないこと。ただそこにあることが、とても重要なのに自分の価値観や社会にしがみつく腕が蓋をして豊かさをどんどん忘れていく。いつの間にか、私は正しいか、正しくないかでしか物事をジャッジできなくなっていた。でも正しいか正しくないかはいつも主観的な問題でしかなくて、日々が移ろい違う自分が生まれればその価値観は全く違うものに変わる。それはそれで老人の自分が見れば面白いけれど、それを現在の自分が妥協して許すことは違う。美しいもの、美しくないもの、心を揺さぶらないもの、そうしたものがたくさん溢れている自分の中で、美しいなと思えるものを自分で選び、どうしてそれを美しいと思ったかを自分でゆっくりと考えて、夕焼けの帰り道でそっと歌うのは誰かの歌でも自分の歌のような気がする。


本当にいろんなものが世の中に溢れかえっている。というより洪水のように溢れかえって、大事なものまでものすごいスピードで流れている。その中で、心から「豊かだ」と思えるものをつかみ取って選び続けたい。そうしたら、きっといつか、わたしの泥団子みたいな感性も、磨かれてピカピカに仕上がって、それを私だけが美しいと思える豊かさと出会える気がするから。

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