水流のロック(7)
翌日には川井は復帰した。手に包帯をぐるぐる巻きにしていたが、驚いたことに自分で巻いたらしい。大したことないよ、と隠すためでもあったのだろう。
川井の訴えもむなしく、みんなは今日も黙々と作業を続けている。幻の報酬が実際に幻になったとも知らず、いや、知っていても信じようとせずに、スイッチを押し続ける実験用のネズミに成り果てている。
二人とも持ち場についたものの、コンベアーを流れていく部品をただ見送っていた。これが人殺しの道具になっているかもしれないと知ったいま、いくら強制されようと手が伸びることはなかった。
あのとき川井が聴かされていたヘッドホンからは、大音量の洗脳BGMが流れていた。工場から手渡された小型の音楽プレイヤーは未だに川井の内ポケットの中だ。
のちにそれが動かぬ証拠になった。ついでに言うと、中のデータだけを提供すると、川井はそのプレイヤーをまんまとくすねた。最先端の技術はすごいね、とハイレゾの音楽を堪能している。どうせならヘッドホンももらっておけば良かったなぁ、と言ってのけるのだから、案外ふてぶてしいやつだ。
パイプ椅子に腰を下ろし、両手にスパナをつかむ。川井は訝しんで眉根を寄せたが、作業台や工具を叩いて音合わせを始めると、そわそわと踊りたそうに体を揺らした。
ジョー・レインマンのBack Flow。飽きるほど練習した曲。天知と違って飽きることなんてなかったから、正しくは呆れるほど。初めてCDを買ったときの興奮と、少しでも彼の音楽に近づこうと悪戦苦闘した日々のもどかしさが甦る。
いつか音楽で世界を変えてやる、と熱に浮かされていた。若気の至りと片付けるには信じすぎていたし、いまもまだ信じている。現にジョー・レインマンの音楽は、自分の世界を変えてくれたのだから。
いまこそ逆流を起こすときだ。たとえ波紋のようなさざ波でも、この淀んだ流れを断ち切って、遥か上流まで越えてゆこう。
鳴らし始めた音楽に、軽快な靴音が乗ってきた。見ると川井は一心不乱に踊っている。ここまで大きく鳴らせるとは知らなかった。いままでは手を抜いていたというか、遠慮していたのだろう。悪くない音だ。
向こうのラインで作業していた班員が、手を動かしながら辺りを見回す。振り向くと目を丸くして、一瞬中断してしまった遅れを取り戻そうと、慌てて作業に戻った。
従業員たちが振り向く頻度が多くなる。迷惑そうに顔をしかめて、なにをしているんだと首を傾げて、次第に体を揺らし始め、中には川井に感化されたように、足でリズムを取り始めるものまで現れた。さすがにスパナでコンベアー台を叩く者はいなかったが。
ついにたまりかねて、休憩のランプで作業を離れた男が、こちらに歩いてきた。
「うるさいぞ、お前ら」
さらに一人、また一人とやってくる。
「昨日も騒いでただろ」
「なんて曲だ、これ」
足踏みをしてリズムをとっていた一人が、休憩のランプも光っていないのに手を止めて振り返った。
「ジョー・レインマンだろ。懐かしいな」
大声で正解を答えたが、ピンとくるものはさほどいないだろう。音楽ではあんなに雄弁なのに、ジョーは寡黙な人だった。普通にしゃべってるところは見たことがない。当然、残ってる映像は歌っている姿ばかりだ。
だが彼の名前を知らなくても、その音楽に聞き覚えがあるものは何人もいるだろう。たまにテレビのBGMなどに使われていると、この番組はセンスが良いな、と感心して贔屓目で見てしまう。
「すごいな兄ちゃん。どうやったらそんなスパナで演奏できるんだ」
「練習したからね。悪いけどインタビューに答える練習はしてないんだ」
ほとんど唯一と言ってもいい、ジョー・レインマンのインタビュー映像の台詞だ。レコーディングの最中に質問されていただけだから、正規のインタビューでもないだろう。ジョーは相手をあしらうというよりも、本当にインタビューの練習をしたことがないからと申し訳なさそうな顔をしていた。
天知はスターの名言を自分が考えたかのように振りかざしていたが、あれほど敬愛していたジョー・レインマンの言葉は、ついに口にすることはなかった。
だけどあのとき奏でた音楽は、見ていた世界は同じだったよな、天知。お前はいったいどこでなにをしているんだ。
スパナを持つ手が痺れ、汗が滲んでくる。
俺はここにいる。ここにいるぞ。
衝撃は打つたびに肩まで駆け上り、頭の芯を揺らす。もはや工場にかかっているBGMは耳に入らなかった。
川井のタップダンスが佳境に入った。音を追いかけるでも追い越すでもなく、自ら生み出している。演奏中の自分でさえ、つられて足でリズムをとりたくなるほどだ。
技術がある水準を超えると、かえって上手い下手には目がいかなくなる。ストレートに感情だけが伝わってくる。
スパナでコンベアー台を叩くという曲打ちに注目されているうちは、自分の音楽もまだまだだ。音が少ない、伸びが足りないと、言い訳ばかり浮かんでくる。
天知よりも真っ先に会いたいやつがいる。手放せずに実家に預けている相棒。まだ自分を待ってくれているだろうか。
あいつを売り払えば、幾ばくかの金になっただろう。それで借金を返せるわけではないだろうが、当面の足しにはなったかもしれない。それができなかったから、ここにいるのだ。諦めた振りをしていたのに、全然諦められていなかった。
またドラムを叩きたい。憧れていた天才がいなくなっても、自分が天才になれなくても、ただひたすら音楽の只中にいたい。
「やめろやめろ」
例の筋肉ダルマが肩を怒らせてこちらにやってきた。騒ぎを聞きつけて、わざわざ他の班から首を突っ込みに来るとは。
「仕事中だろ、お前らも持ち場に戻れ」
いつの間にか集まっていたギャラリーに、筋肉ダルマが怒鳴り散らす。みんなはたじろいだが、川井は笑みを浮かべたままステップを踏み続けた。
「戻るっつったてなぁ」
誰かがぼそりとつぶやく。
「ああ、この工場もうすぐ潰れるんだろ」
「ちゃんと給料もらえんのかよ」
昨日、川井が流した噂だ。みんなどこか疑いながらも、とりあえず作業を続けていたのだろう。不都合な事実からは目をそらして、奴隷のように働くことを選んだ。その方が楽なのだ。ただ流されるだけでいいのだから。
「こんな奴らのいうことを信じるのか」
筋肉ダルマが葉巻のような人差し指でこちらを指さす。まいったな、すっかり自分も反乱軍の首謀者だ。
川井は踊りながら、右手の包帯を器用にほどくと、高々と掲げて見せた。
見たくもなかったが、思わず目が引き寄せられる。胃がキュッとすぼまり、一瞬手が止まった。ギャラリーがざわめく。
「僕が嘘つきなら、工場に部品に間違われることもなかったのにね。正直者は辛いよ」
おどけて言いながらも、川井は顔をしかめた。実際に痛むのかもしれないが、何割かはパフォーマンスが入ってるのが見て取れた。質の悪い正直者だ。
筋肉ダルマも言葉が出ないようだった。周囲の戸惑いは、確信に変わり、やがて怒りに変わった。ふざけんなよ。俺たちはスクラップじゃねぇぞ。
ようやく監視カメラで異変に気付いたのか、工場の人間がやってきて、入り口の扉を開け放った。しかし暴動すれすれの雰囲気に怖じ気づいたのか、さっと顔だけ出して引っ込んだ。それを押しのけて黒尽くめの、ヤクザというよりホストのような男が入ってきた。川井が言っていた例の黒服か。
「静まれ」
思っていたより若い男の、良く通る声が響き渡る。サングラスをしていて顔は見えないが、声には誰よりも聞き覚えがあったし、普段からサングラスをしているようなやつだったから、一目でわかった。
懐に手を入れて、つかつかと歩み寄ってくる男にみんなが道をあける。まるでスターかモーセ気取りだな。
「よぉ、天知」
「滝?」
サングラスがずり落ちて、驚きに見開いた目が露わになる。
言いたいことも聞きたいことも特にない。ただ残念だ。心のどこかではいまもこいつは音楽をやっていて、あざ笑うかのように一人で夢を叶えて、悔しい思いをさせてくれると信じていたのに。
「ずいぶん小さいギターだな」
懐に入れた手を睨んで吐き捨てる。
「それともマイクか?」
「お前こそ、こんな掃き溜めでスパナもって、コツコツとご苦労なこった」
「ああ、これな」
手に持ったスパナに目を落として、ふっと鼻で笑う。
「どうやって使うんだったかな。悪いけど、これしか練習してこなかったんだ」
ちらりと横に顔を向ける。包帯を巻き終えた川井が、にっと口角を上げて、カツンと一つ靴音を鳴らした。
あっけに取られていた観衆が、待ってましたと手を叩く。
「ジョー・レインマンで、Back Flow」
ようやく手に馴染んできたスパナが、小気味の良い音を奏でた。
弾むように、抗うように、ジョーの曲は音をかき分けて進むように厳しくもあるが、どこか軽快さも感じさせる。流れる汗に吹きつける風の爽やかさ。
川井のタップに感化されて、みんなが足を踏み鳴らす。メロディーと言うより拍手や歓声に近かったが、不思議とまとまりのある音楽になっている。川井がみんなを引っぱっているのだ。本人にそのつもりはなくても、ただ突っ走ってるだけで、楽しそうだなとその姿を追いかけたくなる。
だけど自分は追いかけてる場合じゃない。あいつが泳ぐための波を作ってやらなければ。どんな奔流でも泳ぎ切ってくれると信じて、ただひたすらに鳴らしまくれ。
俺たちの手足は流されるためについてるんじゃない。荒波も濁流も向かい風も掻き分けてどこまでも進んでいける。
天知は両腕をだらりと下げ、しばらく立ち尽くしていたが、気付くと姿を消していた。あいつをいつまでも待ってやるほど、俺はお人好しじゃない。だけど俺はここにいる。水流のさなかであがき続けてやる。
大勢の抗議と訴えにより、監査が入った工場は正規の給料と賠償金を各々に払い、違法な製造品の発覚から停止処分に追いやられた。洗脳に関しては事実を否認しているが、いずれ真相が明らかになるだろう。
川井は最後まで、一緒に組んで世界を回ろうと誘ってきた。それも悪くない気もしたが、さし当たってやりたいこともあるので、いつかな、とあしらっておいた。
別れ際の電車はあっけないもので、ホームまで見送りもせずに改札で別れた。川井は相変わらず口角を上げ、たたんと軽くステップを踏むと、手を振って去っていった。
移動中はほとんど眠っていたから、実家にたどり着いたときは、長い夢を見ていた気分になった。いかんなと頭をかいて、現実の手触りを探しに行く。
とっくに捨てられているものと思っていたが、そいつは物置でシーツをかぶり、変わらぬ輝きを放って待っていてくれた。
「またよろしくな、相棒」
相づちは物置に響き渡り、埃っぽい淀んだ空気に波紋を立てた。またここから始めよう。伝説を作ろうと誓ったあの日の夢を、今度こそ本当にしよう。
了
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