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あの白いマヨネーズ

 葱玉と豚玉。店に来る前から決めていた。香奈子と待ち合わせしているときにふと、お好み焼きが食べたいと思った、その二秒後には脳内で豚が葱を背負ってジュージューと鳴いていた。

 香奈子は着てくる洋服に散々悩んだようだが、遅刻はしなかった。女二人で遊ぶのに最適な装いはなんなのかと、相当気を揉んだのだろう。いつものようにお嬢様然とした格好をすればいいのに、釣り合いを考えてか、似合わないホットパンツをはいている。そんな服を持っていたことに驚きだ。おかげでペアルックのようになってしまった。

 平日の昼間のお好み焼き屋は、いい具合に空いていた。クーラーも効きすぎていない。

「もう押していい?」

 真希はオーダーベルを手元に寄せて、プラスチックのスイッチをなで回していた。つやつやと、そして若干ベタベタしている。

「待ってよぉ」

 香奈子はメニューとにらめっこを続けている。ときおり壁に貼ってあるおすすめメニューに目をそらしたり、上目遣いにこちらをうかがったり。

「なにとなにで悩んでるの?」

「えっと、お好み焼きかもんじゃか焼きそばか、あ、ドリンクはどうしようかな。お茶かな。ジュースかな。ビールとかのほうがいいかな」

「ビールって、まだお昼でしょ。まあ、休みだからいいけど」

 ビールもいいかもしれないな。よし、飲もう。真希はすでに空になったお冷やのグラスを舐め、渇いた喉を鳴らした。

「っていうか、まだその段階?」

「だって、真希ちゃんが急にお好み焼き屋に行こうって言うから」

「イタリアンでもクレープ屋でも、カナは迷うでしょ。ペペロンチーノにしようかな、アマトリチャーナにしようかな、クリームパスタがいいかな。イチゴかな、バナナかな、アイスとかプリンも入れたほうがいいかな。カナ、カナ、カナ。昔からそう。セミかっての」

 香奈子が慌ててメニューに視線を戻す。急かされると香奈子はますます決められなくなる。わかっているが、すでにお好み焼きをビールで流し込むイメトレもバッチリな真希は、我慢の限界だった。オーダーベルを爪の先でコツコツと叩く。

「お好み焼き屋さんに来たんだからさ、お好み焼きでいいんじゃないの」

「でも私、もんじゃとか食べたことないから、どんな感じなのかなって」

「じゃあもんじゃにすればいいじゃん」

「でも、ほんとに食べたことないし、上手く作れなかったらどうしよう」

 来店時に店員さんが点けていってくれた鉄板は、とっくに温まっている。サイドに垂らした香奈子の巻き髪が、陽炎越しに揺れている。

「ねえ、真希ちゃんはどれがいい?」

「私は葱と豚。さっき言ったじゃん」

「じゃなくて、私の注文」

「自分で決めなよ」

 香奈子はうつむき、唇を引き結んだ。

 外では蝉が鳴いていた。店内ではよそのテーブルのお好み焼きがおいしそうに鳴いている。通路を挟んだ隣の席では、あとから入ってきたはずのカップルがすでに焼きそばを取り分けて皿によそっていた。汗をかいたウーロン茶のグラスと、前髪ごと頭頂で束ねた女の笑顔が眩しい。

「最近、カズマとはどう?」

「別れたよ」

「えっ?」

 真希は思わずオーダーベルを押しそうになった。乗り出そうとした身を、鉄板の熱に遮られる。

「一週間前に別れたの」

「なんで、だってあんなに――」

 香奈子とカズマの仲を取り持ったのは、真希と言っても過言ではない。よく三人で遊んだ。カズマは最初から、ずっと香奈子だけを見ていた。香奈子の優柔不断ささえ、カズマは愛した。

 辛抱強い人だった。しかし、真希が思いを告げるのを待ってはくれなかった。

「他に好きな人ができたから」

「そう」

 真希は肩を落とした。カズマに新しい相手がいるからではなく、香奈子という彼女がありながら他の女に目移りするカズマにがっかりした。所詮その程度の男だったのだと、むしろ安心した。

「だからね、いまはオモンディと付き合ってる」

「オモンディ?」

 香奈子がスマホを取り出し、ロック画面をこちらに向ける。スキンヘッドと区別のつかない短髪の黒人が、香奈子と肩を組んで満面の笑みを浮かべている。

 他に好きな人ができたって、誰に?

 たくましい腕が画面の外に伸びている。撮影は彼に任せ、香奈子は両手を顎の横に添えてピースしている。そんな小顔効果を狙うまでもなく、謎の黒人の胸板にもたれた香奈子は、妖精のように華奢に見えた。

「オモンディ?」

 真希は画面を指さして訊ねた。彫りの深い目。大きな団子っ鼻。分厚い唇。よく見ると前歯がない。きれいに四本欠落している。

 香奈子がうなずいて、スマホを伏せる。鉄板越しに見えたオモンディのビッグスマイルは、地平線の彼方、香奈子のバッグの中に消えた。

 再びメニューに視線を戻して、香奈子がサラダでも頼む調子でつぶやく。

「二人でアフリカに住むの」

 真希は目を見開いた。オーダーベルが鳴り響く。思わずつかんだベルを慌てて離して、真希はやり場のない手で空のグラスをつかんだ。

 威勢のいい声を上げて、伝票を持った店員さんが厨房の暖簾をくぐって駆けつける。

 テーブルの前に片膝をつき、コンロの火加減を確認しながらペンを構える。

「ご注文お伺いいたします」

「あ、すみません、お冷やのおかわりを」

 しどろもどろになる真希を店員が眉をひそめて見上げる。まだ決まらないの、と不満が言外ににじみ出ている。さっきまでの真希と同じ表情をしているからよくわかる。

「じゃあ私は、ビビンバと、バターコーン、ルイボスティーの冷たいのと、あと、食後にわらび餅をください」

「かしこまりました」

 さらさらとオーダーを書き留めて、店員が復唱する。真希は箸箱の裏に立てかけたままだったメニューをあたふたと開き、お好み焼きのページを探した。貼り付いていてうまくめくれない。

「すみません、あと、お好み焼きの、葱玉と」

「葱玉一つですね」

「あ、はい」

 豚玉とビールは呑み込んだ。次々と湧いてくる疑問で喉が塞がっている。オモンディ。アフリカ。カズマ。ビビンバ。

 店員が去ったあとも、真希はメニューから目を上げられなかった。そこに答えが書かれていないかと。せめてヒントでもないものかと。

「お好み焼き屋さんのマヨネーズっておいしいよね。どこに売ってるんだろう」

 メニューを戻して、香奈子が天井の換気扇を眺める。真希はその視線をたどり、宙に浮いて吸い込まれていった質問を見送った。

「モンちゃんは獣医さんなんだよ。ポンタ診てもらったんだけど、すっかり元気になっちゃった。あっというまに懐いちゃったし」

「モンちゃん? ポンタ?」

「モンちゃんはオモンディのこと。ポンタはうさぎだよ。おばあちゃんが飼ってるの。うちに遊びに来たとき見たでしょ」

 香奈子の家に最後に遊びに行ったのはいつだろう。実家となると、高校時代にまで遡る。

 夏休みは二人で海の家でバイトしていた。そこでカズマと知り合った。カズマは焼けると赤くなってしまうタイプで、オモンディのように黒くはならなかった。だからお酒を飲むとすぐに赤くなってしまう香奈子が、真希はうらやましかった。

「……カズマは?」

「んー、どうしてるんだろ。結構あっさりしてたけど。元気かなあ」

 元気なはずはない。カズマは穏やかで、いつも余裕をたたえていて、どれだけ待たされても文句を言わないが、繊細で寂しがり屋だった。きっとうさぎのポンタよりも。そして香奈子のことが心底好きだった。きっとオモンディよりも。

 カナちゃんは俺のことどう思ってるんだろう。そう訊いてきた日のカズマの瞳は忘れられない。母親に置き去りにされた少年のように心細い顔をしていた。真希は精一杯明るく励ました。カズマの顔は覚えているのに、そのとき自分がどんな顔をしていたのか思い出せない。

「真希ちゃんはまだ海の家で働いてるの?」

「うん、まあ」

「あそこのお好み焼き、また食べたいな」

 ヘラを両手に構えた得意げなカズマ。休憩中に香奈子と砂だらけのベンチに腰掛けて、紙皿のお好み焼きを分け合って食べた。葱と豚しか入っていないお好み焼き。おいしいねと笑う香奈子の前歯に青のりがついているのを、真希はあえて黙っていた。ぬるくなったペットボトルのアクエリアスを、ぶくぶくとうがいしてから飲み込んだ。お好み焼きの味より、その生ぬるさを覚えている。

 店員がお好み焼きのたねをテーブルに置いた。ルイボスティーと、バターコーンを香奈子側に置き、厨房へと引き返す。

 ステンレスのロングスプーンで黄身を潰し、たねを混ぜる。溢れんばかりの葱とキャベツが、なかなか生地と混ざり合ってくれない。

 ビビンバが届くと、香奈子は迷うことなくマヨネーズをかけた。まるでそうすることを最初から決めていたみたいに、ジュージューと音を立てる石焼きの彩りに、白いハートを描いた。

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