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十二年と数カ月前から

 ごを二重線で消して、欠席に丸をつけたはがきを、出さずに捨てた。以来、同窓会の誘いの手紙は受け取っていない。

 ひさしぶりに届いたのは、当時の担任の訃報だった。

 吉岡真奈実。左右対称なその名前の下に、不釣り合いな数字が書かれていた。享年五十八歳。

 健太郎は自分の年齢から中学卒業時点の年齢、十五を引いた。あれから十二年経っている。五十八引く十二は四十六。当時の先生は四十六歳。とてもそうは見えなかった。

 以前、実家のビデオテープを処分するために、DVDへのダビング作業を請け負った。結局ビデオは捨てずに実家の物置に保管され、健太郎の手元には不要なDVDが残った。

 捨てれば良いものを、いつか見る機会があるかもしれないと、レジ袋や紙袋を取っておくみたいに惰性で取っておいてある。そういう家系なのだろう。ものが捨てられない。

 さすがに引っ越しのときに処分したかと思ったが、押し入れの段ボールを漁ると、DVDは当然のようにそこにあった。なにを焼いたのかもわからないDVDやCDも合わせると、相当な数だ。宅配160サイズの段ボールの底を、並べたディスクケースが占領している。

 マジックで直接書き込んだ撮影日の日付から、目当てのDVDを探し当てる。

 エアコンのない実家の自室で、熱暴走気味のパソコンとデッキを繋いで汗だくで作業していた記憶が甦る。そこまでして得た報酬は一万だった。高校を卒業してしばらく働いていなかった健太郎にとっては貴重な小遣いだったが、それでなにを買ったのかは覚えていない。となると少しずつコンビニのジャンクフードに消えていったのか。いずれにせよ残ったのはレジ袋くらいだ。

 報酬を受け取ったのにこうして作業成果が手元に残っているところをみると、あれは単に働かない息子に小遣いを与える口実だったのだろう。自主性を育むためだったのかもしれない。

 健太郎はレノボのノートパソコンにDVDを挿入し、四畳半の隅のローテーブルの前に、太った背中を窮屈に丸めた。

 中学の卒業式の映像が映し出される。DVDらしからぬ、不鮮明な映像。音質も悪い。特に息子をクローズアップするでもなく、母はまるで学校に雇われた記録係のように、生徒全員を隈無く保護者席から撮影していた。

 名前を思い出せない顔が多い。それどころか、初めて見たように感じる顔もいくつかあった。ああ、懐かしい、という期待していた反応は起こらず、同窓会に行かなくて正解だったなという思いだけがさらに深まった。

 やけに長く映されている少年が、口パクで校歌を歌っていることに健太郎は気づいた。後頭部でも見抜けただろう。目を伏せて口を動かしている小太りの少年は、他ならぬ健太郎本人だ。

 こんな顔だったかと、居並ぶ学生服の黒に映り込む現在の顔と見比べる。こんな凡庸な顔をしていたか。こんな冴えない、どこにでもいる、決して特別ではないモブキャラのような顔。

 鏡で確認する自分は多少ましに見えるのに、写真に切り取られた自分はいつも眠たそうで、ふてくされていて、のろまで愚鈍に見える。だから卒業アルバムは卒業したその日に捨ててしまった。ものを捨てられない性分の健太郎が捨てられるのは、見たくもない現実だけだ。

 吉岡先生は憧れの女性だった。クラスの女子では釣り合わない、自分には知的で洗練された彼女のような大人の女性が相応しいと、ひそかに妄想していた。

 凡庸な息子を映すのに飽きたのか、母がまた一人一人の顔を舐めるようにカメラを動かしていった。講堂の隅に立つ教師陣までフレームが泳ぐ。健太郎は身を乗り出した。腹がスウェットのゴムにつっかえて息が詰まる。

 憧れの先生、吉岡真奈実は、名前ほど左右対称ではないファンデーション色の顔をほころばせていた。その辺のスーパーには腐るほどいるのに、インスタやツイッターでは見かけない、ときおり自己啓発本の著者近影でしたり顔をしているような、ごく平凡な顔の小綺麗なおばさんだ。

 この日からさらに十二年。年老いた吉岡先生の死に顔を、健太郎は見ずに済んだことを幸運に思った。

 動画プレイヤーを閉じ、ディスクを取り出し、パソコンをシャットダウンする。健太郎が最も幻滅されられる顔が一瞬、閉じられるノートパソコンの暗闇の中から、愚鈍な目でこちらを睨んでいた。

 その日のうちに健太郎は、十二年と数ヶ月前の日付が書かれたDVDを処分した。

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