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ナデシコクエスチョン

 幸子は怖いと思った。岩をつなぎ合わせたような堅い手に、自分の華奢な手は握りつぶされてしまうのだろうと思った。千と千尋の神隠しの大きな赤ちゃんの台詞が甦る。

 こんな手すぐ折っちゃうぞ。

 門馬さんは巨躯を可能な限り縮めて、隣を歩いている。それでも顔は幸子の遙か上空の雲の上、左手はギロチンのようにゆったりと目線のすぐ真横で揺れている。少し誇張しすぎたかも。

 怖いのは、惹かれているからだ。美しいバラにはトゲがある、という例えをバラとは似ても似つかない無骨な成人男性に当てはめるのはいかがなものかと思うが、要するにそういうことだ。

「あ」

 ビクッと肩をすくめ、幸子は顔を上げた。立ち止まり、斜め上を指さす門馬さんのごつい指の先をたどる。

「鳥の巣」

 公園脇の街路樹の上に、一見すると引っかかった枯れ枝の塊のように思える物体から、親鳥が飛び立った。ゆっくりと歩きながら、視線を外さず据えていると、雛鳥が顔を出した。

「まあ」

「かわいいですね」

 同感だ。なんと小さく愛らしいのだろう。懸命に口を開けて、きっといま餌をもらったばかりなのに、ピィピィと親鳥を呼んでいる。その声は車の音や、ともすれば風の音にすらかき消されてしまいそうで、こうして見上げていなければ聞き逃してしまうところだった。

 門馬さんの外見に似合わず繊細なところに、幸子は好感を抱いている。ギャップというやつだ。花はコントラストをうまく利用し、虫を誘う。はっと目につく鮮やかな色で気を引き、地中にじわじわと根を張り待ちわびている。

 興味関心の対象を指さし、相手の視線を誘う。そんな恋愛テクニックを聞いたことがある。

 バードクエスチョンだ。気になる異性が自分に興味があるかどうかを図る目安になるアクション。鳥を指さし、相手がすぐに目を向けたら脈あり。目で追わなければ脈なし。

 まんまと指さした先を探してしまった。それもほぼ反射的に。バードクエスチョンのことは知っていたのに、うかつだった。

 幸子は路肩に顔を伏せて反らした。

 門馬さんがそんなテクニックを弄するタイプには思えないが、そうでもなければこんなに惹かれてしまう理由がわからない。

 店先でしゃがんで花を選んでいる門馬さんを見たときは、冬眠明けの熊が山を降りてきたのかと思った。お客さんなので声をかけるべきだと思いつつも二の足を踏んでいた幸子に、彼は困り果てた顔で訊ねてきた。

 ――マユちゃんが喜ぶ花はどれでしょうか。

 思い出してもおかしい。幸子と彼は初対面なのに、マユちゃんのことなど、ましてや彼女がどんな花を喜ぶのかなんて知る由もない。

 マユちゃん喜んでましたよと、いまどき珍しく現像したアルバムの写真を、わざわざ後日見せに来てくれた。門馬さんとマユちゃんが、幸子が見繕ったピンク色のチューリップを間に挟んで微笑んでいた。姪っ子は花を見て喜び、門馬さんはその喜ぶ顔を見て喜んでいた。

 小さい子や動物に慕われる男性は好感を得やすい。その写真を見た瞬間の幸子で実証済みだ。顔を上げると写真と同じ笑顔があった。そしていまも、隣には同じ笑顔の門馬さんがいる。

「あ」

 またバードクエスチョン。そう思っても幸子は大きく分厚い指先を目で追わずにはいられなかった。

 歩道脇の鉄パイプのガードレール下に、アスファルトの隙間から、緑の中に一カ所だけ赤紫の小さな花が咲いている場所があった。

 ほんの数本。車道側を歩いているとはいえ、その背の高さでよく気づくものだと感心する。

「かわいい花ですね、なんて名前ですか」

「シレネ、です」

 和名はムシトリナデシコ。花の真下の膨らみ、茎の粘液に虫がつくことなどから、食虫植物でもないのにその名がついてる。シネレは属名で、ギリシア神話の酒飲みの神、シーレーノスにちなんでいる。なのでこの種は茎がベタベタしている。

 そして花言葉は、罠。

 赤紫の花弁の下の、細長い袋に捕らえられた自分の姿を想像する。溶かされることもなく、こぼれたビールのように粘つく中で、ただじっと耐えている。

 肘の高さで揺れる門馬の手に、幸子は伸ばそうとした手を引っ込めた。

 赤いムシトリナデシコの、もうひとつの花言葉がなんだったのか思い出せず、花屋失格ねと幸子は天を仰いだ。なにか飛んでいるのかなと、純朴そうな横顔が視界の隅で空を探していた。

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