あのうぐいすの剥製も、きっと同じ声だったから

春先に北海道の山中を散歩していたときのこと。私はクマに怯えながら、指をパチンパチン鳴らして周囲を警戒していました。クマよけの鈴なんて持っていないのでね。いま思うとあれ、挑発にしかならないな。逆にヘイカモンって誘ってるようにも取れる。

山中と言っても私が歩いていたのはコンクリートで舗装された歩道。次のバスが来るまで一時間かかるから、ならば歩くかと思い立っただけ。バスを待っても歩いて行っても、結局到着時間は同じか、むしろバスのほうが早いくらいなんですけど、まあ歩いてみたかったのです。

クマが出るかもなー、と気づいたのは道を半分ほど過ぎてから。私はマサカリ担いだ金太郎じゃありませんし、白い貝殻の小さなイヤリングも所持していないので、戦うことも交渉することもできません。指を鳴らすのが精一杯。


そんなネイチャーラッパーの行く手を阻む謎の物体。結構遠くからも視認できたので、私は恐る恐るYO-YOと近づいていきました。

山には小動物も多く、車道に飛び出したタヌキやウサギの痛ましい死体がよく落ちています。できる限りそんなものは見たくない。運転中なら注視しなければスルーできるのですが、いまは徒歩なう。クマも警戒しなきゃいけないし、その謎の物体の正体も見極めず目をつむって駆け抜けるのも怖い。

だんだん近づいてきて見えてきたのはなんとメーン。小鳥の死体でした。ヮッハプン?


鳥が死んでるのもまあ、珍しくはない。この世は死に満ち溢れてる、とかそんな啓示的な話ではなく、まあ普通に地元でもたまに見かける光景です。

不思議だったのはその小鳥にほとんど外傷が見受けられないこと。最初は作りものかと思いました。羽を閉じた状態で、コロンと横向きに転がっている。苦しんだ様子もない。

木の上で冬の間に凍りついて、そのまま落下して春になって解凍されたのか。そう思ってしまうほど見事に整っていました。死んでると言うより、作られた当初からこのポーズでしたよと言わんばかりに。

あまり鳥に詳しくないので断定はできませんが、おそらくうぐいす。その緑がかったボディ。和菓子を思わせる雰囲気。鳴いてくれれば確信できたのですが、それはもはや叶わぬ願い。


っていうか、ほんとに死んでいるのか。夏の終わりのセミ爆弾みたいに、そっと通りすぎようとした途端に、ブブブブブブと暴れだすのではないか。もうクマよりすでに、このうぐいすのほうが怖い。私は指を鳴らすのをやめていました。

凍った鳥が溶けずに落ちたなんてワルツなこと起こるはずもないし、となると寿命か。しかしこんな健康そうなうぐいすが、トコトコ歩いてる最中に、急にパタリと死んだりするのか。

もしかしたら蛇に噛まれたのかもしれない。食べられる前になんとか逃げおおせたけど、やれやれ助かったぜと落ち着いたところで毒が全身にまわり、ネジの切れたおもちゃのようにぷっつりと息絶えてしまったのかもしれない。

私は蛇説で自らを納得させました。


まあ、ほかにも様々な理由が考えられますけどね。実際に剥製だったとか。コナンくんの腕時計型麻酔銃で眠らされてるだけとか。

あの場にいたら犯人にされていたかもしれません。ネクストコナンズヒーント、うぐいす。次回は少年探偵団が大活躍。元太「絶対見ろよな」


いまは開け放った窓から、小鳥たちの鳴き声が聞こえてきます。もしあのうぐいすが実は生きていて、ここで元気に飛び回っているのだとしても、私には知る由もありません。

北海道で見つけた死体も、子供の頃に追いかけた鳥も、もう鳴くことはない。けどこうして聴こえてくる鳴き声に普遍性があってあの頃と変わらないように感じるのは、少し不思議です。全員違う小鳥さんのはずなのに。

場所も時間も隔たっていても、私たちは共通する認識のもとに小鳥の鳴き声を聴き、想起することができます。

小説や詩から小鳥のさえずりを聴き取れるこの統合の失調、つまり想像力こそが、特定の鳴き声を持たない私たちにとっての種の共通シンボルなのかもしれませんね。


鴬の 鳴き散らすらむ 春の花 いつしか君と 手折りかざさむ


あのうぐいすも、きっと綺麗な声で鳴いていたんだろうな。

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