2 封印

(二〇〇五年三月号)

 フライトは羽田から一時間半。空港の外に出ると同時に熱気が顔を覆う。深く息を吸えば肺が熱い。覚悟はしていたけれど八月の熊本は、東京をはるかにしのぐ暑さだ。
「今年のこの暑さはまったくどうかしちょります」
 タクシーの扉が閉まると同時に初老の運転手は、アクセルを踏み込みながら、まるで詫びるかのような口調で言った。
「熊本日日新聞社までお願いします」
「お客さん、東京からですか」
「そうです」
「東京も暑いですか」
「暑いけれど熊本ほどじゃないです」
 ルームミラーに映る運転手の顔の上半分は真っ黒に日焼けしている。きっと休みの日には家に遊びに来た幼い孫たちと、港の岸壁で釣りを楽しんでいるのだろう。
「最近、釣りに行きましたか」
 僕は訊いた。釣りですか? と訊き返してから運転手は、「もう何年もやっちょりませんなあ」と怪訝そうにつぶやいた。
 それからしばらく、僕は後ろへ過ぎてゆく街並みをぼんやりと眺めていた。あまりに暑いためか通りを歩く人はほとんどいない。なぜいきなり釣りのイメージなど湧いたのか、そしてそれをそのまま口にしてしまったのか、その理由が自分でもよくわからない。
 やがて車はゆっくりと停止した。領収書を僕に手渡しながら運転手は、「降りるのが気の毒なごたるね」とつぶやいた。

「麻原に対しての思いを一言にすればね、かわいそうという感覚です」
 少しだけ間を置いてから、春木進はそうつぶやいた。応接のソファに腰を下ろして冷たいおしぼりを額に当てていた僕は、思わず顔を上げた。
「かわいそう……ですか?」
 反射的に確認してしまった理由は、メディアに帰属する人が麻原彰晃に対して使う形容詞として「かわいそう」は、あまりに無防備すぎると感じたからだ。しかし春木は僕の目を真っ直ぐに見つめ返してから、もう一度はっきり、「ええ、かわいそうです」とつぶやいた。

 地下鉄サリン事件以降、麻原やオウムについてメディア関係者の使う語彙は、著しく限定された。オウムについて語るときは、とにかく最凶で最悪の存在であるというニュアンスを文脈のどこかで強調しないことには、なぜか収まりが悪いのだ。
 例えば一九九九年くらいから多くの自治体が信者の住民票受理を拒否し続けていることについて、これは憲法違反ではないかと疑問を呈する場合や(書きながらあらためて思うけれど、疑問のレベルではなくて明白な憲法違反だ)、別件や微罪など非合法すれすれ(というか逸脱)の逮捕をくりかえす警察の捜査手法に異議を唱える場合でも、文章や発言のどこかに「オウムが決して許されない存在であることは言うまでもないが」とか「もちろんサリン事件は絶対に正当化できない犯罪であるが」など言わずもがなの常套句を紛れ込ませないことには、語るほうも聞くほうも何となく不安なのだ。ある意味での暗黙のルールに近い。暗黙ではあってもルールなのだから、破れば制裁を受ける。実際にオウム報道が渦中の頃「事件は事件としてオウムの教義をもう少し冷静に検討すべきだ」とか「今のこの捜査のあり方はあまりに常軌を逸している」的な発言をテレビでしたことで批判され、いつのまにか姿を消したジャーナリストや識者は少なくない。
 限定された語彙によって紡がれるレトリックは当然ながら痩せ細る。つまり図式化だ。この帰結としてオウム以降は、加害と被害の二項対立ばかりが強調されるようになり、肥大した悪への対抗原理として厳罰化が促進された。
 いずれにせよオウムや麻原について公式に語るとき、まずは徹底した邪悪な存在であって絶対に許せないのだという前提を、多くの人は強調する。これはほぼ作法に近い。だからこそ熊本日日新聞社の論説委員という役職に就いている春木が、『月刊PLAYBOY』の誌面に書かれることを前提にするインタビューで、いきなり「(麻原が)かわいそう」と口にしたことは唐突だった。僕はもう一度念を押した。
「今、春木さんが口にした『かわいそう』という感覚は、自業自得とはいえ悪の権化のようにメディアから描写され、まともな裁判すら受けることができずにいる麻原の現在についての感想ですか」
「いや、事件を起こす前からね、初めて会った波野村騒動の頃から、何か無理に無理を重ねてきたんだなあという気がして僕はかわいそうだなという感覚を持っていました」
 そう答えてから春木は、視線を数秒だけ宙に漂わせた。何かを思い出しているかのような表情だった。
「……最初に会った頃ね、『オウムの信者は急激に増えているから創価学会に追いつくのは時間の問題です』と彼は僕に言ったんです。僕は内心では、いやそれは無理だろうなと思いながら聞いていたけれど、でもそうやって自分に目標を課すというか、無理な設定の仕方がね、何というか痛々しかったんですよ」
「痛々しさですか」
「うん。かわいそうというより痛々しいという感じかな。それは確かにありましたね」
「でもその後、地下鉄サリン事件が起きたり、坂本弁護士一家の遺体が発見されたりと、いろんなことが明らかになっていくわけですよね。それを知ったときも、最初に感じたその痛々しさみたいな感覚は消えなかったんですか」
「消えていません。今も法廷で彼は……それはもちろんあれだけのことをしたんだから仕方がないとはいえ、晒しものにされて訳のわからん英語なんかしゃべってる姿はね、痛々しいと言うしかないなあ。その感じは今もありますよ」
 そう言ってから春木は短く吐息をついた。熊本県内では圧倒的なシェアを誇る熊本日日新聞は、地下鉄サリン事件以降、オウムについての独自取材を基本的には封印した。この時期に紙面に掲載された記事のほとんどは、通信社からの配信記事だ。その理由を訊ねる僕に春木は、「事件以降は中央から津波のようにメディアが来ていたし、それにうちは地元紙ですから、麻原の家族のことなども考えなければいけないし……」と説明した。でも「かわいそう」とあっさりと口にした春木にしては、この質問への答えは少しだけ歯切れが悪い。
 サリン事件の前年である一九九四年、幹部信者だった青山吉伸弁護士が熊本市内に道場を建設すると発表したことで、熊本日日には市民からの抗議が殺到した。なぜなら、発表されたオウムの道場建設予定地は、熊本日日がかつて所有していた土地だったからだ。つまりこの問題について熊本日日は、報道機関でありながら当事者になってしまっていた。
 取材を封印した背景には、春木が説明した要素に加え、そんな経緯もきっと働いていたのだろうと僕は推測する。初老のタクシー運転手については思い込みの領域が大きかったけれど、これについては根拠がある。なぜならサリン事件の五年前、つまり「なぜオウムに土地を売った」と市民から抗議が殺到する四年前に起きた波野村騒動のとき、熊本日日の取材班はオウムに対して、実に意欲的な取材を敢行していたのだから。
 一九九〇年五月二十一日。熊本日日の朝刊に、こんな見出しが掲載された。

「波野に新興教団施設? 原野購入届……村は困惑」

 オウムが道場を建設した波野村(現・熊本県阿蘇市)は、阿蘇外輪山の麓にある人口約二千人の小さな山村だった。この地に一五万平方メートルもの広大な原野を取得したオウムは、約五百人の出家信者とその家族を移住させ、施設の建設作業と並行して修行生活を始めていた。
 この前年には、坂本弁護士一家が自宅から失踪していた。オウムが一家を拉致したのだとの噂が一部メディアで囁かれていたこともあって、小さな村は大騒ぎとなった。信者の転入届を不受理とすることを村議会は決定し、村の小売店のほとんどで信者への不売運動が実施され、監視小屋も作られた。水道の配管は村から拒絶され、隣接する土地の地権者が電柱建設に同意しないために電話もひけない。そんな劣悪な状況に追い込まれながらも、オウムはこの原野にとどまり続けた。
 同年十月二十二日、熊本県警は国土利用計画法違反などの容疑で波野村の教団施設を家宅捜索し、幹部信者だった早川紀代秀や青山吉伸、石井久子らを逮捕した。この翌月から熊本日日は、連載企画「揺れる山里」を開始する。このときの取材班キャップが春木進だ。

「……その頃のオウムは、取材に積極的に応じていましたね」
 二十分ほど遅れて応接室に現れた松尾正一は、春木の隣に腰を下ろしてからそう言った。「麻原に最も気に入られた記者ですよ」と春木が少しだけ笑う。この紹介にやや困惑したような表情を浮かべながらも、松尾は小さくうなずいた。
「波野村に彼らが来てしばらくしたら、いつのまにか私が担当のような感じになっていて、麻原とか青山とか上祐とか、それからケイマ大師(石井久子)とか、いろいろ顔見知りになりました」
「なぜ松尾さんは気に入られたのですか」
「連載を始めてすぐに、オウムと地元とのいさかいの前例を調べるために、富士山総本部まで行って取材しました。そのときの記事が、……まあ、彼らの意向に結果的には沿っていたというか、今思うと非常に忸怩たるものがあるんですが、住民票を受理しないという波野村の対応はやはり違うのではないかと思いましたから、そんな趣旨の記事を書いたんです。……それが結果的には麻原に気に入られたような形になってしまって、よく名指しで呼ばれましたね」
「初めて会ったときは、どんな印象を持ちましたか」
「会う前はね、とにかくこれだけ多くの信者を魅了しているんだから、どれほどすごい人なんだろうと思っていました。でも実際に会ってみれば、カリスマ性なんて全然感じられないただの人だったので、少しだけがっかりしたことを覚えています。でもね、ニコッと笑うときの庶民的な雰囲気というか、とにかく笑顔が魅力的な人でした」
「そういえば写真があったよな」
 そう言いながら立ち上がった春木は、数分後に一枚の大判の写真を手にして戻ってきた。渡されてじっくりと眺める。まさしく満面の笑顔だ。頭の上に上げた右手がおどけたような雰囲気を強調して、これが漫画なら「なんちゃって」と吹き出しをつけたくなる。それほどに愛嬌に溢れた破顔一笑の表情だ。
「このときは、何かを彼がごまかしていることがわかって、それを追及したんです。そうしたら、私だってウソくらいつきますよとか言いながら、ニコッと笑ったんですよ。その瞬間です。現像したら本当にいい笑顔でね」
「これは紙面では使いましたか」
 当時を思い出していたのかにこにこと笑いながら語っていた春木の顔が、僕の質問に少しだけ硬くなる。
「紙面では使っていません。……私は使ってもいいと思ったんですけどね」
「この時期のオウムに対しての社会の反応については、どんな感覚をお持ちでしたか」
「……やはり異例であったことは否定できないです」
 僕の質問に一瞬だけ逡巡するような表情を浮かべてから、松尾は小さな声でつぶやいた。春木が静かにうなずいた。
「住民票の不受理だけではなく、国土法違反の容疑で熊本県警が施設を家宅捜索したときも、普通ならばこれは行政指導のケースだと思っていたことは確かです」
 熊本日日が紙面で連載した「揺れる山里」は、その後葦書房から『オウム真理教とムラの論理』とのタイトルで刊行された(現在は朝日文庫)。そこには村民たちの過剰な防衛意識が、以下のように描写されている。

「オウムは道場に来た村民を、ナタや木刀、ピストルで追い回す」。教団の進出直後、こんな噂が阿蘇郡内で広まった。ほかにも、「信者が子供を誘拐した」などの物騒な話が郡内全域を駆け巡った。取材班は幾つかの噂を検証した。まず「ナタ、木刀」説。信者たちが持っていたのは草刈りガマと木製の棒。カマは敷地内での作業のため、棒は自分の足をたたいて修行するため。見ようでは武器だが、「村民を追い掛け回した」という事実はない。
(中略)阿蘇は温泉地。ふろにまつわる話も登場した。「夜中に信者十数人が入浴。浴槽をさんざん汚した揚げ句、料金を払わず逃げた」噂の「泉源」となった阿蘇郡白水村の村営温泉センターの証言。
「六月ごろ信者たちが数回来ました。でも料金は払ったし、浴槽には入らなかった。ただ、帰りも汚れた服を着るんで、ほかのお客さんは驚いていました」

 連載におけるこんな記述が、一部の読者から「オウム寄り」と糾弾され、「不買運動をするぞ」などの強い抗議も寄せられた。念を押すまでもないと思うが、記事はオウム擁護などではない。取材の結果を提示しているだけだ。でも地下鉄サリン事件が起きる前とはいえ熊本日日のこの冷静さは、当時のメディアとしてはやはり異色だったのだろう。
 サリン事件以降、「捜査や取材のアプローチが進まなかった理由はオウムが宗教法人法に守られていたからだ」との言説がメディアに流通し、サリン事件の翌年である一九九六年に宗教法人法が改正された。同時期に少年犯罪や触法精神障害者などへの厳罰化が叫ばれ、少年法や精神保健福祉法の改正もこれに続いた。
 でも僕には、事件以前の警察やメディアや行政が、宗教法人であることを理由にオウムに対して過剰に萎縮していたとは思えない。もっとはっきり書けば、適正な捜査や報道をサボタージュしていたことへの言い訳にしか聞こえない。
 確かに宗教法人に対する萎縮は部分的にあったかもしれない。でも部分的であり一面だ。オウム以前のイエスの方舟騒動や統一教会などを例に挙げるまでもなく、カルト的な宗教集団だからとの理由で風当たりが強くなるという側面だって間違いなくあった。波野村のオウム施設に対する熊本県警の例外的な捜査も(実際にこの容疑でいきなりの家宅捜索は普通ならありえない)、その一例として挙げることができる。プラスの一面もあればマイナスの側面もあった。強いて書くならばプラスマイナスゼロだ。
 波野村や同時期の上九一色村における行政の対応、あるいは警察による行き過ぎの捜査が、自分たちは社会から攻撃されているとの被害妄想をオウムに過剰に抱かせたことは否定できない。もちろんこの時点で、オウムは坂本弁護士一家を殺めていたのだから、いずれ馬脚を現していたとの見方もできる。
 でもそれは結果論だ。想定される結果から逆算して起因を規定するならば、予防や監視、思想の統制などは、すべて正当化されてしまう。オウム以降、サリン事件によって喚起された恐怖や不安から発芽した危機意識を背景に、日本社会は事件や現象への多面的な視点を急速に失いながら、まさしくこの状況に陥った。この傾向は以前からあった。でも明らかに加速した。

 オウムの教義である「カルマの法則」は、彼らが一連の犯罪に加担しながらこれを正当化するうえで、きわめて重要な要素のひとつとなった概念だ。彼らがよく使う「カルマを落とす」とのフレーズは、内側に蓄積されてきた悪なるものの放散を意味する。かつて『A』撮影時、普段はとても寡黙な信者が、カメラを回す僕の横で、ふとこんなことをつぶやいた。
「……この施設の窓から社会を見ていると、尊師は日本全体にカルマ落としをかけたのかなあと時おり思うんです」
 そんな言葉遊びのようなレベルで人を殺めるべきではないことは当たり前だ。でもこのとき、窓から外を眺めながら信者がつぶやいたその言葉に対して、僕は反論しなかった。正確に書けばできなかった。確かにあの時期、オウムの側から施設を包囲するメディアや警察や市民たちの表情を撮りながらこの社会を眺めたとき、オウムへの憎悪を媒介にするかのように、彼らが急激に劣化しようとしていくように見えたことは事実だ。
「一度ね、出家の意味を麻原に聞いたとき、山手線と京浜東北線の話をされたことがあります」
 春木がふいに言う。意味がとっさにはわからず、「え?」と僕は訊き返す。
「東京に山手線と京浜東北線が並んで走る区間があるでしょう?」
「ええ、ありますね」
「麻原がね、東京に行ったとき、そのどちらかに乗ったそうなんです。この二つの路線は、並んで走るとほとんど同じ速度なので、互いに止まって見える。でも駅でホームに降りれば、それぞれの電車の速度をやっと実感することができます。つまり、本当の速度は電車から降りないとわからない。それが出家なのだということですね。うまいこと言うなあと感心したことを覚えています。まあ屁理屈と言えばそうだけどね。何かね、宗教者というよりも芸人に近いというか、そういう才覚は確かにありましたね。波野村で水害があったとき、カルマが落ちたとか返ったとか、そんな言い方を麻原がしたことがありました。あれはないだろうって言ったら、言い過ぎましたってあっさり認めてね。あれは拍子抜けというか、こっちも驚きましたね」
 確かに麻原には、意表を突くような言動をよくする傾向があったようだ。八九年に『SPA!』で麻原と対談した中沢新一は、そのときの麻原の印象について、地下鉄サリン事件後に次のように語っている。

 対談のはじめに、「麻原さん、ほんとは弁護士一家を誘拐してんじゃないですか」って聞いたんです。そしたら、「自分ではやってないと思う」って言うんですね(笑)。(中略)僕がまた畳み掛けるように、「でも麻原さんがコントロール効かないところで、若いやつがはね上がりでやっちゃったんじゃないですか」って言ったら、「そういう可能性はないとはいえない」って言ったんですよ。
「オウムという悪夢―同世代が語る『オウム真理教』論」『別冊宝島』

 実際に一家殺害を指示していたのなら、普通ならこの台詞は言えない。言えないどころか中沢にいきなり質問された瞬間に、顔面蒼白になって絶句しても不思議はない。でも実際には指示をしながら、麻原はこの台詞をあっさりと口にした。その意味では確かに、相当に常人離れはしている。(ある程度までなら)精神障害を装うくらいはやるかもしれない。それは意識に置いておかねば。
「……最後にもう一度だけ確認します」
 僕は言った。春木は顔を上げた。
「この取材は『月刊PLAYBOY』への掲載が前提です。麻原について春木さんが口にした『かわいそう』や『痛々しい』などの言葉を、僕はそのまま載せるつもりです。問題はないですね」
 あらためて訊いた理由は、掲載後のトラブルを恐れたわけではない。おそらくというか間違いなく、春木はそのレベルの抗議などしない。今ここで念を押されたときに春木はどんな反応をするのか、それを確認したかったのだ。
 数秒だけ沈黙した春木は、自分はそれほどに問題になるような発言をしたのだろうかというような表情で僕を見つめてから、ゆっくりとうなずいた。
「まったく問題ありません」

 熊本日日新聞社での取材を終えてから一時間後、僕は市内のマッサージ店の二階にいた。床に敷かれた薄い布団に横になって中年男性のマッサージを受けながら、「以前ここに麻原が働いていたらしいですね」と世間話のように話しかけたが、「何かそうらしいねえ」と軽く受け流された。この話題についてそれ以上は触れてほしくないという気配があった。
 終わってから一階の帳場で、経営者らしい初老の女性に、実は麻原の取材で来たんですと身元を明かした。一瞬だけ彼女はたじろぐような表情になったが、質問を拒絶するような雰囲気ではない。どんな人でした? と訊ねれば、仕事は熱心でしたよ、少し変わっていたけれど、との答えが返ってきた。
「どんなふうに変わっていたんですか」
「いきなり来なくなったと思ったら、一カ月くらいしてからまたひょっこり現れて、中国に修行に行っていたと言うんですよ。中国服みたいなのをさっそく着込んでいてね。本場の鍼灸は凄いですみたいなことを、一生懸命あたしたちにしゃべるんです」
「いきなりいなくなったのに、また雇ったんですか」
「主人がね、何だか気に入っちゃったみたいで、可愛がっていてね……」
 そう言ってから女将は、部屋の隅の仏壇に置かれた遺影にちらりと視線を送る。モノクロの画像の中で、柔和そうな老人が静かに微笑んでいる。
 このマッサージ店で麻原が仕事をしていた時期はそれほど長くない。彼女の記憶では、トータルで一年はいなかったという。目の具合はどうでしたと訊ねれば、「悪いことは悪かったけれど、でも自転車で通ってましたよ」との答えが返ってきた。
 外に出れば、日は沈みかけているのに、灼熱の余韻はまだ続いている。麻原の出生地である八代までは、熊本市内から車ならほぼ一時間。そのイメージは一面のイグサ畑だ。
 連載を始めるにあたり、麻原の評伝などが書かれた資料や書籍をできるだけは取り寄せた。でもそれほど多くない。書籍としては(オウムが出版した麻原自身の著作は別にして)髙山文彦が書いた『麻原彰晃の誕生』(文春新書)と『裁かれる教祖』(共同通信社社会部編)くらいだ。考えたら不思議だ。日本中があれほどにオウムに狂奔して関連書籍は何十冊も出版されているのに、その首謀者である麻原については、拍子抜けするほどに資料が少ないのだ。メロンが好きだったとか精力絶倫だったとか盲学校時代は乱暴者だったとか、そんなゴシップめいた週刊誌や新聞の記事ならいくらでもある。でも読みものとして厚みのある一貫した評伝は、例に挙げた二冊以外はほとんどない。
 そんな乏しい資料から想起される麻原の生家の周囲は、一面に広がるイグサ畑だ。八代は当時も今も、畳に使われる国産イグサの九割近くが栽培されている。父親が畳職人だったことも含めて、イグサは幼少時の麻原にとって、とても身近な存在であったはずだ。
 くりかえし資料を読むうちに、いつのまにかイグサと麻原のイメージが重なってきた。イグサそのものではない。イグサが生える湿田だ。だからもし八代に行くことがあるならば、イグサが生い茂る湿田の横にある畦道を、ぼんやりと歩いてみたいと考えていた。もちろん歩いたところで何かがわかるわけではない。ほとんどセンチメンタリズムだ。でも歩きたかった。うろうろと意味もなく。ただし今回は無理だ。暑さには比較的強いつもりだったけれど、この炎天下を歩き回ることは、さすがに想像するだけで気が重い。いずれにせよ今回は時間的にも余裕がない。八代散策は次回にしよう。
 予約していたホテルに向かう途中、熊本市内に在住する麻原の弟の家に電話をかけた(電話番号は前もって調べていた)。住所もわかっていたのでいきなり訪ねるという選択肢もあったけれど、いろいろ考えてそれはやめた。
 五回目のベルの音が鳴り終わる直前、年配の女性が電話を取った。細君だろうかと思いながら名乗った。同時に切られた。もう一度かけた。話だけでも聞いてもらえないかと僕は言った。
「話すことはありません」
「了解なしで誌面に書くことはありません。それはお約束します。会っていただけるだけでも無理でしょうか」
「無理です」
「お願いします」
 再び電話は切れた。もう一度かけようかどうしようか、数秒考えてから僕はあきらめた。おそらく何度くりかえしても結果は同じだろう。
 その夜は市内の繁華街で馬刺しを食べながら焼酎を少しだけ飲んで、早めに投宿した。ホテルのベッドに横になってから、屈託など欠片もない麻原の笑顔を、もう一度思い出した。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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