11 暴走

(二〇〇五年十二月号)

 早川紀代秀からの手紙は、B5サイズのシンプルな便箋で十九枚。黒のボールペンで書かれた几帳面な文字が、そのすべての便箋にびっしりと書き込まれていた。
 その前の手紙で、僕はオウムの犯罪の根底には、「中心が希薄になったがゆえに周囲が分厚くなり、帰属する構成員のほとんどが過剰な忖度を重ねながら自覚しないままに暴走する組織共同体の負のメカニズムが働いたのでは?」と早川に質問した。これに対して早川は、「麻原被告が世間で言われているような〝俗物で野望にとりつかれた卑小な男〟とは私も思っていません」とまずは返答した。

 私は、麻原被告は、ヨーガ行者としてはかなりの程度に達した人であると思っていますし、彼が犯行を指示したのは、すべて宗教的動機からであったと思います。
 ただし森さんの言われる、組織共同体のメカニズム(中心が強権を持っていないために、周囲が中心に強権が働いていると思い込んだこと)による暴走という現象は、ナチスや日本の天皇制についてはどうか知りませんが、ことオウムに関しては、まったく当てはまらないと思います。

 早川からの返事をもらう少し前、岡崎一明の面会に行った僕は、「早川さん、ちょっと困っているようだよ」と教えられた。
「困っているって?」
「森さん、事件の実相は側近の暴走、みたいなことを手紙に書いたでしょう?」
「うん」
「それはね、やっぱり、少し違う」
 面会でのやりとりは原則として書けない。このあたりが限界だろう。もちろん岡崎と早川が拘置所で会話ができるはずはないのだから、彼らも手紙のやりとりで情報を交換している。いずれ書くつもりではいるが、地下鉄サリン事件で死刑判決を受けている林泰男と広瀬健一も、僕のこの「組織共同体の暴走原理」には、一様に違和感を表明した。早川の文面に戻る。

 麻原被告が強権を持っていなかったということはありません。オウムにおける麻原被告は、グルでありブッダであり、ただ一人、本当の智慧を持っている方として、修行方法はもとより、教団運営や弟子のワークの細かい部分にまで直接、具体的に指示命令を下していました。
 密教におけるグルは、そうでないと務まりません。
 弟子はグルから言われたことを行って、初めて修行になるのであり、修行をして解脱・悟りに達しようとして出家をしているわけですから、自分の行うべきことを具体的にグル麻原に指示をしてもらわない限り、何もできないのです。
 確かに、グルの意思からハズれたことをしてしまうこともありますが、そんな場合は、こっぴどく怒られますし、「魔境」というレッテルを張られたり、ひどいときにはステージを下げられたりします。
 もし何度もグルの意思からズレたりすると、まず側近としての位置はなくなります。側近であるためには、常にグルの意思からズレないことが第一条件なのです。
 サマナ(出家信者=引用者註)たちも、グル麻原の意思とズレたことを言ったり指示したりする人には、たとえ正大師や正悟師といえども従いません。側近や正大師、正悟師の指示に従うのは、ひとえに、彼らはグルの意思をハズしていないという前提があるからなのです。
 つまりトラの威を借るキツネです。麻原被告はただ一人トラであり、弟子は一番弟子であっても、キツネなのです。
 これは普通の近代的組織では見られない構造です。オウムは宗教団体であり、その信仰はグル麻原への信仰であり、グルからの具体的な指導を求めて、サマナは出家しているということを見落とさないでください。
 日常的なささいなことに対しても、常にグルの意思に反していないか気をつけている側近たちが、殺害という大悪業となるようなことを、グルの意思を確認もせずに慮って行うというようなことはありえません。もし万が一、そのようなことが行われたならば、その側近は、即グルより罰を受け、たぶん長期間(何年間)もの独房入りをくらうのが、最も軽い対応でしょう。もちろん側近からは外されます。
 村井がずっと側近ナンバーワンでいられたのは、彼は専門的なことでもなんでも、事細かに麻原被告に、いちいちお伺いをして事にあたるからでした。例えばサリンプラントで、タンク内のコーキングがうまくいかない場合どうしたらよいかというようなことも、グル麻原の指示を受けて、その通りに実行していました。
 ですから村井は失敗しても、それはグル麻原からやれと言われたやり方で行って失敗していますから、その責任をとらされたことがないのです。また村井は、事細かにグル麻原の指示を得ているということを他のサマナ達は知っていますから、彼の言うことはグルの言うこととして、従うのにやぶさかでないわけです。
 もしも村井が、グル麻原の意思に反したことを思い込みで行ったり、サマナにさせたりしていたならば、その信用は、グルに対してはもちろんサマナの間においても、著しく落ちることとなります。このことは村井に限らず、側近、幹部、すべてに言えることなのです。
 今の麻原被告からは想像できないかもしれませんが、彼は宗教的なことはもちろん、世俗的なワーク(例えば私の場合は建設であるとか)についても、的確な指導のできる人で、また具体的に細かいことまで、的確な指導をしていました。
 ただしグル麻原のこのような側面は、実際に直接の指示を受けていた側近幹部でなければ実感できないことであり、その側近幹部のほとんどは、現在はグル麻原と同様に獄中にあるか、または村井のように死亡していますので、裁判の場以外では、このようなことはあまり外に出ないと思います。また、グルを守るという意味からも、「側近暴走説」に肩入れする元側近もいますので、この点は見誤ってほしくない点です。
 何よりも、ポアできるのはグル麻原以外にはおらず、オウムの殺人事件はすべて「ポアによる救済」として行われているのですから、グル麻原の意に反して行われるということはありえないのです。弟子にとっても人殺しになることは非常にいやなことですから、慮っただけで行う人はいないと思います。
 グルから言われて、弟子の義務としてグルの指示に従うしかないという気持ちで行われたものが、オウム事件として明らかになっているものです。
 ちなみに、私が関与した田口事件(一九八九年二月、脱会を試みた田口修二さんを絞殺した事件=引用者註)、坂本弁護士一家事件に関して言えば、麻原被告の意思を直接何度も確認しており、殺害方法も具体的に指示された上で行っています。そして犯行後は「よくやった」とねぎらいの言葉をもらっています。もちろん殺害した方々の魂をポアする(高い世界へ導く)ということも、麻原被告は試みています。これが、弟子が思い込んで行ったことといえるでしょうか。
「あのすばらしいグルが、あんな大それたことをされるはずがない。あれは側近のバカものどもがグルをそういう方向に引っぱっていったからだ」という思いは、犯罪を直接指示されなかった弟子であれば、誰しも思いたくなることです。もし本当にそうであれば、私にとっても自分のグルの宗教性を評価するうえで、ひとつの救いとなるものです。しかし事実はそうではないのです。
 確かに村井は、側近中の側近として、常にグルの言うことに対しては「YES」と言い、できもしないことでも「YES」と言い続けてきたことに対する(サマナからの)不満や批判を、かなり早い時期から受けていました。他でもない私も、その批判者の一人でした。しかし村井の態度は、心の状態が現象化するとの教義に従えば、グルの言うことをすべて肯定することによって否定的な心の動きを封じるという意味があるため、弟子としては正しい態度であることを認めてもいました。
 村井に限らず側近は、私も含めて大なり小なり、YESマンORウーマンであることを免れません。グルへの絶対的帰依をめざした密教のグルと弟子の関係の宿命です。しかしこれは、側近の暴走とは違います。まるっきり反対の現象です。もし側近の暴走を許すほどグルに強権がなかったならば、私は逆に、オウムによる殺害事件は起こっていなかったと思います。側近が責められるべきは、暴走してでも事件を止め得なかった点にこそあると思います。

 長々と引用した。書き写しながら「中略」できるところを探したが、結局は見つからなかった。接見時もそうだが、自らが犯した罪の深さについて、今さらの言い訳や自己弁護を早川は一切しない。面会や手紙のやりとりを続けている岡崎一明や林泰男、広瀬健一にも、これは共通している。

 グルは絶対的な独裁者であり、あらゆることを決定していた。だからこそ側近の暴走などありえないと早川は主張している。その言葉にウソはない。自らの死刑を覚悟している早川が、今さらウソを言う必要もない。あらゆることを麻原は決めていたと早川は感じていた。そして今も感じている。
 しかし、最大時は出家・在家信者合わせて一万五千人の大所帯の組織で、「修行方法はもとより、教団運営や弟子のワークの細かい部分にまで直接、具体的に」あらゆることをひとりの人間が決定するなど、現実には不可能だ。サリンプラントのコーキングのやり方など、専門外の麻原が的確な指示をできたとは思えない。
 側近たちは彼がすべてを管理していると思い込む。自分たちはすべてを管理されていると思い込む。その瞬間に、一人称単数の主語を失った過剰な忖度が駆動する。
 その意味では僕は、自説を大きく曲げるつもりはない。ただし微調整はしなければならない。一審弁護団が使った「側近の暴走」という言葉の解釈が、もしも「麻原彰晃の意図とは別に、側近たちが勝手に〝良かれ〟と思い込み、麻原の知らぬあいだに様々な事件を起こした」とのことであるならば、早川が言うように、やはりそれは違うのだろう。麻原は知っていた。あるいは容認した。肯定した。追随した。その程度の加担は間違いなくあった。
 とても微妙だ。でも微妙だからこそ重要なのだ。安易に四捨五入してはならない。
 マクドナルド店舗における椅子は座り心地が悪い。だから誰も長居はしない。でも席を立つほとんどの人は、自分の自由意思で店を出たと思い込んでいる。長居をしたいという自分の自由意思が店によって侵害されたと思う人はいない。アメリカの社会学者であるジョージ・リッツアは、その著書『マクドナルド化する社会』でこんな事例を挙げながら、人の自由意思の危うさに警鐘を鳴らす。
 二〇〇四年、僕はナチスドイツの負の遺産であるアウシュヴィッツやザクセンハウゼンなどの収容所跡を訪れた。特に印象深かったのは、ユダヤ人への最終計画(ホロコースト)が立案され、同時に決定されたとされるヴァンゼー会議におけるエピソードだ。
 一九四二年一月二十日、ドイツのヴァンゼーに、ナチスの国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒを議長として、各省官僚やSS(親衛隊=Schutzstaffel)の次官クラス十四人が集まった会議が開催された。ヨーロッパに居住するユダヤ人を東方へ移送して殺戮(ハイドリヒ・メモには、「最終的解決」との言葉が使われている)する計画を討議したとされるヴァンゼー会議だ。
 ところが、ナチスにおける最重要事項を決めるはずのこの会議に、なぜかヒトラーは出席していない。ゲーリング、ヘス、ヒムラーやゲッベルスなどの側近も誰一人いない。つまりナチスの最大の蛮行であるホロコーストは、(ヒトラーを含めて)中枢不在の場で、最終的に決定されたということになる。
 ヴァンゼー会議はヒトラーの指示のもとに開催されたのだとの説もあるが、これを証明する文書は発見されていないし、そもそも「最終的解決」を意味するヒトラーの文書も今に至るまで見つかっていない。敗戦国ドイツを裁くニュルンベルク裁判で連合国側は必死にその証拠を探したが、結局は発見できなかった。
 だからといってヒトラーがホロコーストに関与していないなどと主張するつもりは(もちろん)ない。ヒトラーの意向は、間接的にせよ確かに働いている。ナチスが権力を掌握する前に書かれた『マイン・カンプ(我が闘争)』でヒトラーはすでに、ユダヤ人の脅威について触れている。第二次世界大戦が始まった一九三九年九月一日にはドイツ国議会で、「ユダヤ民族がヨーロッパのアーリア民族の絶滅戦争を企てるなら、絶滅させられるのはアーリア民族ではなくユダヤ民族である」と演説している(ただしこの場合の「絶滅(Ausrottung der arischen Völker)」は、ドイツ語によく見受けられる過剰な比喩であり、「ユダヤ人による経済的な支配に対して、ドイツは市民権停止や財産・権利の剝奪などで応じる」と考えるほうが一般的だとの説もある)。
 ユダヤ民族を根絶しなければやがてゲルマン民族は滅ぶとの過剰な自衛意識は、ナチスだけでなくドイツ国民のほとんどが共有していた。そしてアンチ・セミティズム(反ユダヤ主義)は、ドイツだけではなくヨーロッパ全土に広く蔓延していた。だからこそ西側世界はホロコーストの実相が明らかになったとき、自分たちもユダヤ人を迫害してきたとの後ろめたさで萎縮して、イスラエル建国とパレスチナ迫害を結果として追認した。ホロコーストによって膨大な被害者遺族の国となったイスラエルは、刺激された危機意識とシオニズムとを融合させながら、周辺諸国との衝突をくりかえした。こうしてイスラエルとアラブ諸国とのあいだに幾たびかの中東戦争が起こり、イスラエルを支援するアメリカに対してのテロ攻撃(九・一一)が起こり、イラク戦争が勃発した。つまりホロコーストは終わっていない。捩じれながら現在に連鎖している。
 歴史学者のラウル・ヒルバーグは、そもそも完成されたユダヤ人絶滅計画など存在していなかったと主張している。特定の機関や特定の予算など存在しないまま、軍や官僚などいくつかの権力機構が刺激や抑制を相互に作用し続けた帰結として、最悪の惨劇が始まったとする説だ。

 全作業を担った官庁はなかった。ある特定の機関が特定の措置の実行過程における指導的役割を果たしたとしても、全過程を方向づけ調整した機関は存在しなかった。絶滅のエンジンは、まとまりのない、分岐した、とりわけ分散的な機構であった。
『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』ラウル・ヒルバーグ(柏書房)

 ヴァンゼー会議のコーディネーターとして出席していたSSのアドルフ・アイヒマンは、後にユダヤ人移送の最高責任者となって、ホロコーストに大きく関与した。敗戦後はアルゼンチンに逃亡したがモサド(イスラエルの特殊工作機関)により逮捕され、裁判を経て絞首刑となった(事実上の死刑廃止国であるイスラエルでは、最初で最後の死刑執行だ)。その法廷の様子が、ドキュメンタリー映画『スペシャリスト』で明らかにされた。長い逃亡生活のあいだ、最後のナチス高官として悪鬼のように語られてきたアイヒマンは、少しだけ貧相で実直そうな中間管理職の官吏そのままの雰囲気で、「自分は指示に従っただけだ」とくりかえすばかりだった。
 言い逃れや詭弁を弄しているつもりはないのだろう。アイヒマンにとっては実際に、指示や命令に従っただけという感覚なのだ。ならばその指示は誰が出したのか。 

 ヴァンゼー会議の議長は国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリヒが務め、彼の指示によってアドルフ・アイヒマンはプロトコール(議事録)を作成した。そのハイドリヒはヴァンゼー会議から四カ月後に暗殺されたが、もしも彼がニュルンベルク裁判の被告席に座っていたのなら、「ユダヤ人問題の最終的解決」を自分に命じた上官として、国家元帥でヒトラーの後継者に一時は指名されていたヘルマン・ゲーリングの名前を挙げるだろう。そしてそのゲーリングはニュルンベルク裁判で、有名な以下の陳述を残している。

「もちろん一般の国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じです。政策を決めるのはその国の指導者です。そして国民は常に指導者の言いなりになるように仕向けられます。難しいことではない。われわれは他国から攻撃されかかっているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。そして国を更なる危険に曝す。このやり方はどんな国でも有効です」
一九四六年八月三十一日のニュルンベルク国際軍事法廷(NMT) 最終陳述より

 ゲーリングが仄めかした指導者とは、もちろんヒトラーその人だ。ならばもしもニュルンベルク法廷の被告席にヒトラーが立ったのなら、彼は何と抗弁したのだろう。何を反省したのだろう。どれほどにホロコーストの実態について把握していたのだろう。でもこの設問は意味を為さない。本当はユダヤ人を嫌っていなかったとかホロコースト計画を主導していなかったなどの噂もあるヒトラーの内面を想像することはできても、実際にはわからない。
 なぜなら彼は法廷に立たなかった。
 一九四五年四月三十日、ベルリン陥落を目前にしたアドルフ・ヒトラーは、愛犬ブロンディをまずは毒殺し、この前日に結婚式を挙げたばかりのエヴァ・ブラウンを射殺してから自害した。
 こうして謎は謎のまま残される。ヒトラー不在のままナチスを総括せざるをえなかった戦後ドイツは、ナチスとヒトラーを絶対的な悪に設定する反ナチ法に、国家としてのアイデンティティを投影した。つまりナチス的なものを徹底的に排除して封殺した。ドイツでは伝統的な名前だったアドルフは現在に至るまでほとんど使われなくなり、ヒトラーの著作『マイン・カンプ』の出版はバイエルン州政府によって禁止され、公共の場所でハーケンクロイツの図柄を描くだけで逮捕されるという問答無用の状況が、戦後ずっと続いている(つい最近では、携帯の着信音にヒトラーの演説を使っていた男性が逮捕されている)。ある意味では仕方がない。戦後ドイツとしては、こうでもしないことには国際社会に受け入れられないとの思いがあったのだろう。
 なぜあれほどに残虐なことができたのか。その回答を戦後ドイツは、ヒトラーが不在のままで模索するしかなかった。法廷で得られる証言の多くが「自分は指示に従っただけ」ならば、その指示の中枢にあった意思や思想や信条を確かめねばならない。彼らが何をどう間違え、何がどう食い違ったのかを知らねばならない。
 そうでなければ進めない。
 だからこそ麻原に語らせねばならない。事件の背景には何があったのか。どんな言葉で弟子たちに犯罪を命じたのか。そのときはどんな思いでいたのか。語る言葉を彼が持ち合わせていない可能性ももちろんある。それはそれでよい。それを知るだけでも、現状からすれば大きな進展だ。
 ヒトラーは自殺した。だから戦後世界は、彼の言葉がないままにナチスを解析せねばならなかった。麻原は不在ではない。法廷で語らせることができる。ところが今、まさしくその法廷(裁判所)が、彼の言葉を封じようとしている。彼を放置してさらに壊そうとしている。でもこの国の多くの人は、これを異常なこととして捉えない。

「これまでの接見の回数は合計で一四五回。今も週に二回から三回は拘置所に通っています。ただし初めて接見に行ったのは去年の四月五日ですが、実際に会えたのは、それからおよそ三カ月後の七月です。それまでの四十回近くは、ずっと接見を拒否されていました」
「麻原が自分の意思で拒否したということですか」
「それはわからない。まあ個人的には、彼にはもうそんな意思などないとは思いますよ。でも正確にはわからない。確かな事実としては、通いだしてから三十七回目か三十八回目、東京拘置所に行って、どうせまたいつものように会えないだろうなと思いながら申請したら、いきなり〝どうぞ〟って。それで接見室に行ったら、彼がいた。……いたというか、現れたという感覚のほうが強いですね。まさしく僕の目の前に現れた」
 松井武弁護士は、そこまで言ってから短く息を継いだ。日時は九月三日。二審を開始するために必要な控訴趣意書の締め切り日は、この三日前(つまり八月末日)に過ぎている。しかし松井と松下明夫の二人で構成される二審弁護団は、今も控訴趣意書を提出していない。締め切り直前に、裁判所が期限を再延長することに応じたからだ。とりあえず最悪の事態は回避できた。でも鑑定の結果として訴訟能力があると診断されれば、事態はまた急激に進展するだろう。
「初めて会ったときの麻原はどんな様子でした?」
 押し黙っていた松井は、ゆっくりと顔を上げた。
「……驚いたのだけれど、車椅子なんです。職員が当たり前のように押してきた」

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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