6 故郷

(二〇〇五年七月号)

 車から降りたけれど初めての土地だ。方向がよくわからない。まごまごしていたら運転席から降りてきた木下希世さんが、「ここです」と道の左側を指差した。家と家のあいだに、ぽっかりと更地ができている。
 通路に面した間口は六メートルくらいだが、奥行きはかなり長く、全体の面積として二〇〇坪は優にあるだろう。雑草が生い茂るその一角に、布地が裂けスプリングが露出したベッドや原形をほとんどとどめていない簞笥などが打ち捨てられて、雨風に晒されている。
 その傍らで、僕はしばらく立ち尽くしていた。簞笥の破片には、十数年前に子供たちのあいだで大人気だったテレビアニメ『ビックリマン』のシールが、ぺたぺたと何枚か貼ってある。誰の子供だろう。年代を考えれば、サリン事件が起きる前からここに両親と同居していたという長兄の子供たちかもしれない。その子供たちは、今はどこにいるのだろう。どこで何をしているのだろう。
 熊本県八代市高植本町。かつての名称は金剛村。周囲を見渡せば、日本のどこにでもある田園地帯だ。一九五五年三月二日。麻原彰晃はこの場所で松本智津夫として生誕した。僕が生まれる一年とちょっと前だ。
 場所の記憶ってきっとある。長くテレビでドキュメンタリーを作ってきたから、僕はたぶん、標準よりは少しだけ多く、いろんな場所に行ってきた。そのうえで思う。その地に立つだけで、ざわざわと胸の裡で何かが感応する瞬間がたまにある。おそらくはその土地の記憶に、何かが呼応するのだろう。
 でもこの細長い更地には、そんな記憶はまったくない。土地は乾いている。あるいは忘却されている。ならば掘り起こすことはない。重ねてゆけばよい。土地はそんな記憶と忘却とをくりかえす。幾層にも堆積する。その上に新しい営みが生まれ、また消えてゆく。
 ただしこの細長い更地は、乾いてはいるけれど堆積はされていない。何となく剝きだしなのだ。だから不安になる。新しい営みが重なる日はいつになるのだろう。
 かつて『A』を撮っていた頃、解体直前や直後のサティアンをロケのために訪ね歩いた。時期としては地下鉄サリン事件の翌年から二年後にかけて、日本中に散らばったサティアンから信者たちが退去を命じられ、流浪が始まる頃だ。どこに行っても瓦礫の山だった。施設には子供たちも多かったから、名前を書いた歯ブラシや教科書、玩具なども、ずいぶん捨てられていた。
 瓦礫は怖い。そして少しだけいとおしくて切ない。鼻の奥がつんとする。カメラを抱えながらあの頃の僕は、何を思い、何を願いながら、走り回っていたのだろう。もうずいぶん遠い昔のような気がする。愛用のカメラはケースに入れたまま、すっかり埃を被っている。考えたら『A2』以降、もう何年も手を触れていない。
 僕は周囲を見渡した。日差しはいつのまにか少しだけ傾いている。車の横で希世さんが、何となく不安げな表情で僕を眺めていた。

 戦後に朝鮮半島から引き揚げてきた麻原の父親は、今は更地となっているこの地に移り住み、畳職人の仕事を続けながら五男二女の子供を授かっている。智津夫(麻原)は四男。母親も入れて九人の大家族だ。家計は相当に苦しかったようだ。畳職人だけでは生活できず、自給自足のための三反の畑を近所から借りていたという。
 五人の兄弟のうち、長男と智津夫、そして五男は、先天的に目に障害があった。長男は学齢期に達するとほぼ同時に、熊本市内にある全寮制の熊本盲学校に入学した。智津夫は家から歩いて数分の金剛小学校にいったんは入学したが、二年生のときに、兄と同じ熊本盲学校に転校した。この段階で右目の視力は一・〇だったけれど、左目はほとんど見えていなかった。

「智津夫君は継ぎはぎの洋服を着て、着替えにも困ったの。遠足や授業参観の時はみんながきれいな格好をするから、どうしようかって寮母と相談してね。息子のお下がりをそっと差し入れた」
 熊本市郊外でひっそりと老後を暮らす元女性教師(七八)は、遠い記憶をたどるようにじっと目を閉じた。「『ご両親から送ってきたよ。よかったね、智津夫君』。そう言って…」。三十四年を経ても七歳の記憶は脳裏にある。「いつもと違う服を着たら大喜びだった。うれしそうな顔は忘れられない」
『裁かれる教祖』共同通信社社会部編

 隣接する家の玄関口に立った僕は、どなたかいらっしゃいますか、と奥に声をかけた。引き戸を開けたのは、怪訝そうな表情の四十代くらいの女性だった。
「隣の家について、お話をお聞きしたいのですが」
「隣って松本さんの家?」
「はい」
「マスコミの人?」
「……そうです」
「マスコミの人にはあまり話さないようにと言われているんです」
「警察から?」
「いえ、主人から。とにかく一時は凄かったんだから」
 凄かったんだからの語尾が少しだけ跳ね上がった。完全な拒絶ではない。僕は訊く。
「お隣、いつ壊しちゃったんですか」
「いつかしら、事件後しばらくしてからよ」
「畳屋さんですよね」
「それはずいぶん前。事件の頃はね、ご長男が鍼灸の店を出していたのよ」
 以下に彼女の話を要約する。松本家の長男はかなりのやり手で、自宅を改装して開いた鍼灸院は相当に繁盛して、遠方からも評判を聞きつけて多くの客が来ていたという。しかし地下鉄サリン事件の発生と同時に、松本家のささやかな幸福は無残に瓦解する。鍼灸院を閉めた長男は、妻子を連れて家を出た。残された年老いた両親は、しばらくひっそりと声を潜めるようにして暮らしていたが、やがて家からいなくなった。住む人がいなくなった家は熊本市内の不動産屋の手に渡り、家は跡形もなく取り壊された。しかし買い手がつかないらしく、土地はずっと更地のままだという。
「……松本智津夫さんの子供時代の話を聞きたいのですが」
「あたしはわからないわよ。ここに嫁にくる前の話だもの」
「どなたか当時のことがわかる方は?」
「いるけれど話さないわよ。あたしももう、これ以上はしゃべれないわ」
 そう言ってから彼女は、ふと踵を返すと、早足で家の奥へと歩き去っていく。そういえば彼女は標準語だった。他の土地から嫁いできたのだろう。玄関の扉を開け放したまま家の奥に消えた彼女は、それっきり玄関口に現れない。ずいぶん無用心で唐突な幕切れだ。
 あきらめきれずに僕は、周囲の家を一軒ずつ訪ねる。門前払いの家もあったけれど、少しだけならと話を聞かせてくれた家もある。隣の家にいた年配の主婦は、「子供が多かったからどれが四男坊だったかは正確にはわからないわねえ」と首をひねる。その斜向かいの家の前に立っていた年配の男性は、松本家の長兄が義眼を取り外した瞬間を目撃したときのことを話してくれた。それはそれで興味深い話ではあったけれど、でも訊きたいことは麻原についてだ。
「えーと、……四男坊……智津夫さんについてはどうでした?」
 訊こうとしながら思わず口ごもってしまった理由は、彼の呼称に自信がないからだ。彼が生まれ育ったこの地では、少なくとも麻原彰晃という呼称を口にすることに違和感がある。尊師やグルは論外として、松本智津夫という本名も、場所や状況によっては発音しづらいことがある。「被告」や「被告人」は便利な言葉だが、会話の中で使うことには抵抗がある。
 呼称を一定にできないその理由のひとつは、彼に対しての僕らのイメージが、まだ何も定まっていないからだろう。もちろん僕自身も、そのイメージを定められない一人だ。
 口ごもりながらの僕の質問に、年配の男性は「細かな子はいっぱいおったけどねえ、どれが四男かようわからん。小学校のグラウンドでよく野球をやっちょった」と首をひねる。
「野球ですか? 長男も一緒に?」
「長男もおった」
「目が不自由なのに?」
「目は不自由でも生活はそう変わらん。長男と四男と、もう一人も確か不自由じゃった。あんたたちはすぐに実は目が見えていたとかなんとかテレビでやるが、見えんでも歩いたり走ったりはできよる。あれは実際に目が見えん人をバカにしているごたるね」
 少しだけ気色ばみかけた男性に、僕は「ご両親のその後はわかりますか」と話題を変える。
「わからんよ。良か人たちじゃった。悪いことなど何もしとらん。でも昼も家から出てこんようになって、いつのまにか他所に移ってしもうた」
 両親については、近隣の誰もが「良か人たちだった」と口を揃える。社交辞令の気配はない。物静かで真面目で優しい人たちだったと言うその調子の裏に、二人をこの地に住めなくしたのはあんたたちマスコミじゃないかとの抗議の意が、微かに透けて見えるような気がした。
 結果として、麻原彰晃の子供時代を知る人はほとんどいない。それはそうだ。すでに半世紀近く前だ。しかも彼がこの地にいたのは、小学二年生に進級するまでと期間も短い。その時代を語れる人は年齢的にも限られる。
 連載二回目に書いたけれど、麻原の出生地についてのテレビや新聞、雑誌などの報道は(書籍も含めて)意外に少ない。もちろん「意外に」だ。住民たちがマスコミと聞けば条件反射で玄関口を閉めたくなるほどに、事件後には多数のテレビの取材クルーや新聞、雑誌の記者たちが、この地に集まっていたことは確かだ。だから記事は少なくはない。これが普通の事件なら、報道としては充分に妥当な量だ。
 しかしとにかく、オウムがらみの報道は(資料を読みながらあらためて実感したが)、突出して圧倒的な物量だ。一九九五年三月二十日からほぼ数カ月にわたり、新聞の一面にオウムが載らない日は皆無だった。週刊誌や月刊誌などは一年近くのあいだ、毎号のようにオウム関連がメインの特集記事だった。号外や臨時増刊も数えきれないほどだ。
 さらにこうしてチェックできるのは、新聞や刊行物に限られることも忘れてはならない。テレビはチェックできない。電波は宙に消える。想像するだけでも凄まじい濃度だ。気象観測衛星から見下ろせば視界が曇るほどに、当時の日本列島にはオウムの活字と電波が飽和していたはずだ。だからその意味では、あくまでも相対的にだが、麻原彰晃の出生や故郷の記事は意外なほどに少ない。
 その理由のひとつを僕は知っている。当時の僕はテレビ・ディレクターだった。ベルト(月~金の同じ時間帯で放送する番組のこと)でオウムだけの特番が、各局でオンエアされていた頃だ。とにかく右も左も上も下もオウムだったこの頃、スタッフ・ルームでよく小声で交わされる会話があった。

 ①麻原は在日二世らしい
 ②麻原が生まれた地域は被差別部落らしい
 ③麻原の家族は水俣病の被害者らしい

 少なくとも僕の周囲では、この三つの噂すべてが適合しないまでも、ひとつくらいは当てはまるだろうと誰もが思っていた。そして同時にこの三つは(特にテレビにおいては)決して大きな声では言えないことだった。ただし①については例外がある。例えば『週刊現代』(一九九五年五月二十七日号)に掲載された「麻原オウム真理教と統一教会を結ぶ点と線」では、栗本慎一郎衆院議員(当時)が、麻原の父親は在日朝鮮人であると主張している。でも①に比べれば②と③は難しい。より濃密なタブーに触れかける。
 だからこそ彼の故郷への取材には、何となくの抑制が働いたという可能性はあったと思う。
 ただし、メディアがまったく触れなかったわけではない。事件直後は他のメディアと一線を画した記事を掲載し続けた『宝島30』(一九九五年十二月号)は、「麻原彰晃とオウムの犯罪には、誰も触れない大きな謎がある」と題された記事を掲載して、この時期のメディアの裏事情について以下のように記述している。

 麻原の魅力のもうひとつの源泉であるルサンチマン=被差別体験については、これまでマスコミ関係者の間で執拗に囁かれてはいたものの、表だって報じられることの一切なかったある噂(裏情報)がある。
「麻原は在日朝鮮人と被差別部落出身者の間に生まれた子供で、自分自身は目が見えない障害者である。この三重の差別が、麻原をして、自分には世界に復讐する権利があると思わしめたのだ」
(中略)ワイドショーの製作スタッフを含め、テレビ関係者でこの裏情報を知らない者はおそらくいない。オウム事件にかかわる新聞記者や雑誌記者だってみんな知っているだろう。そして彼らは、この裏情報を事実として、それもタブーに触れるため公然とは語らない。

 在日と被差別部落の情報の出所はきわめて不確かだ。『宝島30』にしても同じ号で作家の中島渉がこの噂について検証するルポを寄稿しており、「『エセ同和』『エセ朝鮮人』であった可能性がきわめて高い」と結論づけている(ただし、エセという言葉は、本人がこれを騙ったときに使う。少なくとも麻原本人は、自らを被差別部落出身とか在日朝鮮人などとは騙っていない)。
『麻原彰晃の誕生』(文春新書)を書いた髙山文彦は、地元の郷土史家や古老などに取材して麻原の父親が生まれた場所なども特定しながら(全羅北道益山郡春浦面)、「いずれにしても松本家は朝鮮半島の出自ではなく、朝鮮から引き上げてきた日本人である」と明言している。実際に在日や被差別部落については、確かな出典はほとんどない。こうした噂の常だけど、ほとんどが伝聞なのだ。ところが水俣病についてだけは、噂の確かな出典がある。この仮説を最初に唱え始めた人がいる。

 八代の駅を出てから、広大な人工のイグサ畑の中を通り、二時間ののちに松本智津夫の生家の前に来ていた。赤い屋根。ピンクと青のツートンカラーの壁。付近の家とは一線を画して派手なのは鍼灸院を営んでいるせいかもしれない。看板に『中国漢方薬局・内臓・肩こり・むちうち・腰痛センター・松本鍼灸院』とある。長兄が営む鍼灸院である。ここに麻原がその初期に就いた職業の原点がある。農村という土地柄、七人兄弟の長兄である満弘氏(以下、敬称略)は家族の重鎮として名実ともに兄弟や一家を差配していた。人望が厚く、この地方では名治療師として知られている。家屋の倉庫には何千冊という医療に関する書籍、膨大な量の貴重な漢方薬があると伝え聞く。麻原はこの兄の教えを受けたのである。麻原をまだ目の見えるうちから盲学校に入れたのも、いずれ目が見えなくなるときのために手に職をつけさせようという満弘の配慮だった。
「そこはもうやってはおらんよ。最近はとんとお客さんがこなくなったもんで休業しなさったんじゃろう。満弘さんももう八代にはおられんようで」
 体を診てもらうべくドアをノックしていると通りがかりの婦人が近づいてきて秘密事でも話すように小声でそう言った。
「世紀末航海録」第五回 藤原新也『週刊プレイボーイ』(一九九五年八月十五日号)

 麻原の長兄に会うことをあきらめた藤原は、その足で不知火海に行く。防波堤の上で横になっていたとき、通りかかった地元の老人から、「この海の魚介物には昔は水銀が入っておった」との一言を聞く。

 そしてふとあることに思いが到ったとき頭が熱を帯びた。熱が全身に広がって行く。
 私は防波堤の上に飛び起きて、バッグを急いでまさぐった。空港で買った地図を取り出す。まじまじと眺める。やはりそうだ、と思った。なぜこれに気づかなかったのかと思った。八代のすぐそばにあのメチル水銀公害の水俣があるではないか。(中略)
 かりに水俣の怨念の亡霊のごとく立ち上がったひとりの宗教者がまるで報復のように化学物質によって国家機能を止めようと夢想したとするなら、つまり水俣病である麻原彰晃が、この国全体にサリン噴霧を試みようとしたとするなら、歴史はめくるめく因果の応報というべきか、あたかもこの歴史的循環はまるで麻原の唱えるカルマ落としのごとくである。

 この原稿が『週刊プレイボーイ』に掲載された直後、藤原は連載を休載する。一回置いた次の号の冒頭で、「のっぴきならない個人的理由から」と休載の理由を説明しているが、休載前の原稿では、国策会社であるチッソは雅子妃との関連で皇室とも深い関係があることに触れながら(彼女の母方の祖父である江頭豊は、水俣病問題が発覚したときのチッソ株式会社の社長を務めていた)、麻原彰晃が抱いていたとされる天皇家に対するルサンチマンを傍証する仮説を展開していたために、記事に対する抗議があったのではと(僕も含めて)多くの人が推測した。
 ここまでを整理する。麻原の父親は朝鮮半島からの引き揚げ者であり、在日云々は根拠のないデマと推定できる。八代には確かに被差別部落は存在するが、高植本町はこれには該当しない。つまりこの二つの噂はほぼ否定できる。
 さらに水俣病についても、少なくとも麻原の生家近隣では、一人残らずこの噂を否定した。一笑に付されるという感じだった。「地図をよう見んしゃい。水俣とこことは離れておる」と怒ったように言った人もいる。水俣と八代との直線距離は三〇キロ。不知火海における有機水銀の汚染地域からは確かに外れている。しかし(これは藤原も指摘しているが)回遊魚は、三〇キロくらいの距離なら自在に往復する。その意味では微妙な地域でもある。
「世紀末航海録」連載終了後、『宝島30』(一九九六年三月号)で藤原は、「麻原と水俣病についてもういちど語ろう」と題されたインタビューに応じている。

宝島 「しかし、ほとんどの人が麻原こそ凶悪犯罪の首謀者であると考えている状況下で『麻原=水俣病』説を展開するということは、『水俣病の人間はそういうことをするのか』という誤解を世間一般に生みかねない、そういう危惧はお持ちではありませんでしたか」
藤原 「それは短絡でしょ。その論法に巻き込まれていったら、何も書けなくなります」(中略)
宝島 「すると麻原彰晃という人物は日本近代が生み出した被差別者であり、だからこそ、そのルサンチマンによって引き起こされた彼の犯罪には文明論的なものがあるという立場になるわけですか」
藤原 「立場というより、その可能性を捨ててはいけないということです」(後略)

 オウムの危険性を煽るばかりの他のメディアとは一線を画していた当時の『宝島30』にして、このときの藤原に対しては詰問調になる。つまり正義をまとっている。ここには当時(そして以降)、メディアと社会とがオウムによって嵌り込んだ隘路の深さが、くっきりと示されている。仮に麻原が水俣病だからといって、「水俣病の人間はそういうことをするのか」などと思う人はまずいない。麻原の視力に先天的な異常があったからといって、「目が不自由な人は犯罪を起こしやすい」などとは誰も発想しない。もしもいるならばバカと言えばよい。その演繹は明らかに間違っている。
 個別の人格や環境に、これらの要素や因子が影響を与えることは確かだ。だからこそ事件や現象を解明する際には、あらゆる要素や因子を(その可能性も含めて)考察することは重要だ。ならばなぜ麻原と水俣病との関連は、その可能性を口にすることすら憚られるほどにタブー視されたのか。
 結論から書く。被害者への過剰な配慮だ。二〇〇四年四月の段階で、それまでに県が水俣病と認定してチッソが補償金を支払った患者総数は二二六五人。そのうち一四五六人がすでに命を失っている。
 二〇一〇年五月一日、水俣市で開かれた犠牲者慰霊式に歴代総理として初めて出席した鳩山首相は、被害者や遺族たちへの謝罪の言葉を述べた。また同日に政府は国などを相手取って係争中の未認定患者たちへの一時金を支給する和解案を提示し、新たな申請者の受け付けも開始した。申請者は三万人を超えると予想されるが、朝日新聞(五月二日付)には、「自分が水俣病と気づいていない『潜在患者』の数はわかっておらず」との記述もある。
 水俣の患者たちは、これ以上ないほどに苛酷な状況に置かれていた。特に初期の頃は、行政もチッソもその責任を回避し、患者たちは伝染病じゃないかとの差別とも闘わねばならなかった。
 ただしその被害者への配慮が、(藤原が言及したように皇室というもうひとつのタブーと抵触しながら)萎縮や封殺に繫がるのならば、これに従属するつもりは僕にもない。なぜなら地下鉄サリン事件以降、主語を被害者に置き換えることで自由にものが言えなくなるこの傾向は、北朝鮮拉致問題などでさらに加速して、結果としてこの国の現状とこれからの方向に、とても歪で大きな影響を与えているからだ。
 地下鉄サリン事件の大きな特徴は、不特定多数を標的にした無差別殺戮であるということだ。被害者にすれば因果も必然もない。一九九五年三月二十日の朝、もしも東京の地下鉄に乗車していたならば、誰もが被害に遭う可能性があった。だからこそ怒濤のような報道を媒介にしながら、まるでパンデミック(世界的流行病)そのままに、被害者や遺族が抱く不安と恐怖、さらに憎悪や応報感情が、一気に日本中に広がった(その意味では、その後の厳罰化は当然の帰結だった)。
 水俣病と麻原彰晃との関係は、今のところは証明されていない。僕自身は、地域や周辺住民たちの様子から、可能性としてはきわめて低いと考えている。でも低いからといって考察すべきではないとは思わない。可能性はあるのだ。もしも麻原が水俣病の未認定患者であるならば、それは裁判にだって影響する(続いていれば)。事件の概要や麻原の人間性へのパースペクティブに、新たな補助線を加えることができる。

 麻原の生家があった高植本町を訪ねた後は、案内役をかって出てくれた希世さんの実家である勝明寺に向かった。浄土真宗本願寺派の熱心な門徒だった麻原の両親が通った寺だ。住職である木下慶心がメディアの取材に応じるのは、これが初めてと聞いている。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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