21 刑事

(二〇〇六年十月号)

「だからね、無責任なことを言うわけにはいかないんです。推測で言うっちゅうのは好きじゃない。誰だって、やっぱりそれなりの何かがあったから今の姿があるわけでね、何でこういうふうになったのか、何がどうしたらこういう人間ができるのか、やっぱりね、その視点を忘れちゃダメだと私は思いますよ。私はね、取り調べのときにね、とにかく最初はじっと見つめるんです。どんな極悪人でも、どんなに凶悪な犯罪を起こした奴でも、とにかくじっと見つめるんです。この人にはこの人なりの何かがあるはずです。その何かすら世間は嫌がる。憎む。身内、兄弟はもちろん、信頼してもらいたい女房でさえね。それはそうでしょう。とんでもないことをしたと思われて当然です。誰もそれを聞いてくれるものはいない。だからね、私はまず見つめるんです。それなりの何かがあったんだなと。じゃあそれを聞くところから始めようじゃないかと。そんなつもりです。そうするとね、みんな話してくれるんです」
 東武東上線和光市駅の改札すぐ横の喫茶店。名刺の交換を終えるとほぼ同時に、白岩武雄は語り始めた。互いにまだ腰も下ろしていない。ただしその口調は性急ではない。ゆっくりと、何かを諭すかのように話すその表情は、叩き上げの刑事というよりも、田舎の小学校によくいるタイプの校長先生を思わせる。
 籍を入れたばかりの知子と船橋市に暮らし始めてから四年後の八二年、松本智津夫の名をまだ捨てていない麻原彰晃は、薬事法違反容疑で警視庁に逮捕された。この前年には、長女に続いて次女も誕生していた。保安二課の警部補だった白岩武雄はこの事件を担当し、取り調べ調書も作成した。かつてオウム報道がピークの頃、麻原の国家への反逆心が芽生えたきっかけとして、あるいは彼がそもそも反社会的な資質を持っていたことを示すエピソードとして、この薬事法違反事件はよく取り上げられた。
 白岩の自宅に電話をかけたのは二週間前だ。受話器を取ったのは、白岩の妻だった。
「あいにく外出しておりますが、何のご用件でしょうか」
「麻原彰晃について、お話をお聞きしたいのですが」
「……伝えておきます。でも、申し訳ないのですが、しゃべらないと思います」
 彼女はそう言った。僕は沈黙した。数秒の間が空いたと思う。
「時おりマスコミの方から取材の依頼はあるんです。でもすべてお断りしています」
「わかりました。でも、とにかくお伝えください。またご連絡します」
 そう言ってから僕は電話を切った。
 今回だけではない。麻原彰晃を知る(もしくは知っていた)人たちの多くは、積極的には話したがらない。この連載が始まってからも、インタビュー依頼を拒否されたことは二回や三回ではない。
 断る人の多くは電話口で、まず「今さら」という言葉を使う。つまり「もう今さらあの事件について蒸し返さなくてもいいでしょう」とのニュアンスだ。そこで僕が「今だからこそ重要なのです」などと説得すると、「……じゃあ本音を言います。もうあなた方の取材は受けたくないのです。つくづくあきれましたから」的な答えが返ってくる。つまりメディアへの不信感だ。
 彼らが怒濤のような取材攻勢を受けていた頃、僕はフジテレビのワイドショーの契約ディレクターだった。ワイドショーとはいってもこの時期は、芸能やらゴシップやらは扱わない。オウムについての話題だけを取り上げる特別番組だ。それがレギュラーとして毎日の昼間の時間帯に放送されていた。夜は夜で各局は毎晩のようにオウム特別番組を放送する。ドラマやバラエティ番組のほとんどは放送を見合わせていた。「オウムバブルだ」。知り合いのディレクターはメディアのこんな状況を、そんな言葉で形容した。その実感は僕にもあった。確かにバブルだった。
 地下鉄サリン事件以降も、上九一色村のサティアンへの強制捜査や麻原逮捕、村井刺殺事件や坂本弁護士一家殺害事件の解明、珍妙な弁護士の登場や指名手配された信者の逮捕など、事件やイベントが切れ目なく続き、役者にも不自由しなかった。新聞の一面は毎日のようにオウムだった。号外は月に何度も出た。ほとんどの週刊誌は臨時増刊号を出した。それも何度も。そんな状態が一年近く続いていた。
 だからこそオウム報道はメディアを変えた。その典型は、今ではテレビのニュースで当たり前の手法として使われるモザイクだ。少なくともオウム事件が起きる前、モザイクはこれほど安易には使われなかった。
 理由は単純だ。画が汚れる。
 テレビ番組制作者は映像表現行為従事者だ。ならば画(映像)は何よりも重要だ。モザイクなんてつけたくない。テロップだって最小限にしたい。かつてテレビ関係者のほとんどは(僕も含めて)、誰もがそう思っていた。それが当たり前だった。だから当時のモザイクは、あくまでも窮余の一策だった。
 ところが洪水のように供給されるオウムがらみの映像には、現役信者や地域住民など、顔を隠さねばならない人たちが大勢いた。
 かつてならこの場合にはカメラを回さない。だって撮ったところで放送できないのだ。ところがオウムバブルはそれを許さない。何でもいいから放送しないことには番組に穴があく。だからといってオウム関連番組をやめれば視聴率が下がる。
 こんな事情を背景にモザイクは濫用され、やがて視聴者も馴れ始めた。つまり例外の常態化だ。その余波は今も続いている。いや正確には余波ではない。かつてなら断定できなかったようなことが、人物や場所を曖昧にするモザイクをつけることで断定しやすくなった。あるいは事実を極端に誇張したナレーションもつけやすくなった。裏取りの必要性も薄くなった。モザイクを前提としてインタビューに応じる人が多くなった。「潜入もの」などが典型だが、ときとしてはモザイクが画に臨場感を与えるようになった。
 こうしてモザイクはテレビ画面に定着した。オウムによって危機意識を刺激された社会は、単純な「わかりやすさ」をメディアに求め始め、その緊急避難的な欲望がメディアの商業主義と密通した。あとは民意とメディアとの相互作用によって、単純な善悪二元論が加速されるばかりだ。
 モザイクだけではない。特にオウム報道がピークの時期、全国に散在するオウム施設周辺の住民や、幹部信者たちが幼い頃に通っていた学校の関係者や縁戚関係の人たちは、メディアから貪欲に取材され、そして食い散らかされた。「取材など二度と受けない」と電話口で語気を強めた人は少なくない。「(取材スタッフが)写真を持って行ったきり連絡がつかなくなった」と訴えられたことも何度かある。
 そもそもが犯罪加害者の身内への取材は難しい。特に麻原の場合、かつて彼を知っていた(あるいは繫がりがあった)ことは隠しておきたいとの心情は、その周辺にとても強く働いている。だから取材拒否には馴れていた。
 でも白岩については簡単にあきらめたくなかった。会うことが無理ならば、せめて電話で話だけでも聞いてみたい。そう思った僕は、翌日にもう一度電話をかけた。白岩は在宅していた。
「昨日電話した者です。麻原について取材を続けています」
「取材ならダメです」
 あっさりとそう言って電話を切ろうとした白岩に僕は、「今のこの日本社会の変質は、オウム事件で始まったと考えています。だからこそこの取材で、麻原への新しい視点を模索できないかと考えています。そしてそのためには、白岩さんのお話は重要です。ぜひとも話をお聞きしたいんです」というようなことを、何度も早口で訴えた。言葉を挟まずにじっと聞いていた白岩は、少しだけ間を置いてから、「わかりました。こちらまで来ていただけるのならお会いしましょう」とつぶやいた。

「サリン事件の頃も、たくさんのマスコミの方が取材に見えました。とにかく毎日、夕方から夜中の一時頃まで、ハイヤーで自宅の周囲を取り囲むんですね。最低でも毎日八社以上。近所からは、あの人何か悪いことやったのかって噂が立つしね。だからまあ、マスコミはもうたくさんだっていう、そういう感じは正直なところありますけどね。おまけにどこも、ストーリー的には一緒です」
 差し出した僕の名刺を片手に眺めながら、白岩はゆっくりと嚙み締めるように言った。
「極悪人のストーリーということですか」
「ええ。だからね、そんな取材なら興味がないわけです。ところがあなたは、麻原という人物を別な視点から見直してみたいと言った。ならば意味がある。面白おかしく彼の悪さをしゃべってくれということなら、別に言うことないよって私は答えますよ。そんな記者さんばかりでした。でもね、さっきも言ったようにね、けしからんとか許せないとか言うのは楽なんだけども、ああいう人間がなぜ生まれたのか、それを考えるということなら私は協力します」
 思わぬところで激励されたような気分になって、僕は思わず神妙に頭を下げた。麻原彰晃を別な視点から見る。それはこの連載の狙いであり、テーマでもある。でも作業はなかなかはかどらない。
 この六月、僕は裁判所に麻原への面会を申し込んだ。接見禁止はまだ解けていない。許可が下りる可能性はまずない。でも高裁が控訴趣意書の却下を決めた以上、一審の死刑判決が早々に確定することはほぼ確実だ。そうなると今後の彼は、家族以外の面会は原則的には許されない確定死刑囚となる。難しいとはわかっていたが、その前にやれることはやっておこうと考えた。しかし結果はすぐ出た。当然のように却下だった。
 本人には会えない。周辺の人たちへの取材も進展しない。そんな状況で、僕は彼に対しての別の視点を提示できるのだろうか。あるいは提示できたとして、そこに何の価値があるのだろう。何の意味があるのだろう。
 そんな思いでいたからこそ、担当刑事と容疑者という関係ではあったけれど、一時は麻原と密接な関係を保っていた白岩が、別の視点から彼を見直すということなら意味があると言ってくれたことに、僕は勇気づけられてもいた。静かな微笑を浮かべながら、白岩はこんなことも言った。
「例えばね、事件後に実は目が見えているとか、そんな報道がずいぶんありましたよね。今の彼の目の状態はわからないけれど、でもあの頃からやっぱりほとんど見えていなかったね。どっちだっけな。片方は〇・〇六だったね。もうひとつはほとんど見えていなかったよ。波はあったようです。取り調べのときも気分が高揚したりすると、目がかすんでしまうみたいでしたね」
 ……新たな視点。それはきっと無限にある。例えば彼の視力についても、大した根拠もないままに「実は見えている」などと言ったり書いたりする識者やジャーナリストはとても多い。だからこそこの社会は、「弱者を装いやがって」と憎悪を燃料にした眼差しを固定化させている。その情動で事実が歪む。歪んだ事実が屈折した光となって社会を曲げる。
 コップは横から見れば長方形になる。下から見れば円になる。視点を変えれば光景は絶対に変わる。視点とは観る角度のこと。ならば無限にあることは当たり前だ。狂暴で残虐で金の亡者で好色で天性の詐欺師。それぞれひとつの側面だ。それもあったかもしれない。でも視点を変えれば違う側面が現れる。ところが麻原については、この違う視点からの描写がほとんどなされなかった。だからこそ日本の戦後犯罪史においても圧倒的な悪の権化が出現し、その偽装的な質量で空間が歪曲した。
 開店したばかりの亜細亜堂を保険料の不正給付が発覚したことで閉めた麻原は、新たな販売展開を始めていた。自ら仕入れた朝鮮人参やみかんの皮などを材料に漢方薬を調合して瓶に詰め、三万円から六万円という高額で売り始めた。居住していた船橋だけではなく、新宿の京王プラザの一室を借りて、出張販売まで始めていた。
 この商売は当たった。大量に刷ったチラシを都心部で撒き、これを読んだ数多くの人たちが薬を求めて、京王プラザホテルにやってきた。
「京王プラザの大きい会議室を使って客を集めてね、かなり盛大にやっているとの情報が入ったんです。でも所轄では薬関係はわからないんですよね。じゃあ、俺が見に行ってくるよって足を運んだ。私は保安二課の前は麻薬課でしたから。ホテルの入り口で客のふりをして張り込んで、会議室から出てきた人に話しかけてね。おばちゃんが多かったな。買った薬を見せてもらって値段も聞いたわけ。するとこれがめちゃくちゃ高い。パンフレットも見せてもらったら、リウマチとか、とにかく万病に効くって書いてあるわけ。その後もいろいろ調べたらね、生活保護を受けながら貯めた金で買っている人なんかもいるわけです。これじゃあんまりひどいじゃないか。やっぱりこれはこのままっちゅうわけにいかない。で、捜査令状をとって、朝早くに船橋の自宅に行ったわけ」
 当時の麻原の住まいは、船橋市新高根の一戸建て。玄関口に現れた二十七歳の麻原は、とても落ち着いていたという。
「俺は間違ったことやってないっていうような、そんなそぶりだったよね」
「普通、早朝にいきなり警察の人が令状持ってきたら、誰だって動揺すると思うのですが?」
「動揺とか仰天するとか、そんなんじゃないね。そういう点、あいつは度胸がいいんだよね。何ていうかな、俺は間違ってないって。そんな感じはあったよ。確かに朝鮮人参とかドクダミとか、入れているものに薬効としての間違いはないわけ。実際に身体にいい場合もある。だからね、本人は自信があったんじゃないかな」
 押収した麻原特製の漢方薬は、警視庁科捜研に回されて調べられた。やはり成分に問題はない。しかし「ガンに効く」などの売り文句は薬事法に引っかかる。さらに価格もあまりに高い。だから容疑は無許可製造医薬品販売。こうして麻原は逮捕された。
「当時の麻原に、薬事法に引っかかるとの意識があったと思いますか。実は麻原の次女と三女からこのときのことについて、『広告屋さんがこの程度の宣伝なら大丈夫だと言ったからそれを信じてしまったらしい』と聞いたことがあるんです」
「確かに広告屋の口車に乗せられた可能性はあるよね。私もね、最初は、悪意はないのかなと思っていたんですよ。ただね、調べると保健所から過去に警告を受けていたことがわかったんです」
「ならば違法であることは認識していたということですか」
「微妙だけどね。警告は口頭だけかもしれないし。とにかく逮捕の前提としては違法であることの認識はあったと。まあ行政犯っていうのは秩序罰的なところがあるからね。それで、同じことを二回くりかえしたら人間バカだよと。だから薬事法は二度と犯さないということで、私はそれを約束させたんだ」

 最初に令状を持って自宅を訪ねたとき、居間に仏壇が置かれていた。曼荼羅の絵も飾ってあった。二十代の若者にしては珍しいと、浄土真宗門徒でもある白岩は感心した。
「おまえ偉いな。なかなか仏心があるじゃないか」
 白岩のこの言葉に、麻原は無言でうなずいていたという。この時期の麻原は、気学や四柱推命、仙道などを独学で学んでいた。
「彼の反応はなかったんですか」
「まだその当時は、彼も仏教に造詣が深いというほどでもなかったんじゃないかな。本来の宗教は慈悲というのが根本なんだよ。物事はすべて、事業をやるにしても、その根っこに慈悲がないとダメなんだよって、そんなことを話しましたね。黙って聞いていましたよ」
 新宿署に場所を移しての取り調べの際も麻原は、やはり堂々としていたという。
「ほぼ十日間、いろいろ話しましたよ。私はね、まずは世間話から始めるんです。で、いろいろ話すうちにね、やっぱり私はちょっとやり過ぎたんでしょうかって」
「本人がそう言ったんですか」
「言いましたね。童顔に近いからね。笑うと可愛らしい。どちらかというと陰鬱な印象です。特に最初はね、顔もブスッとしたような感じで、決して朗らかというタイプじゃない。でも笑うと可愛い」
「彼が地下鉄サリン事件で逮捕されたとき、警察の取り調べで刑事に盛んに媚びていたという情報がありました。刑事さんは石原裕次郎に似ていますねとか何とか言ったとか」
 この質問は安田好弘にも訊いた。そして白岩は安田と同じく、あっさりとこれを否定した。
「媚びはしないね。そういうタイプじゃない。どちらかといえば寡黙でしたよ」
 取り調べの際、白岩は親や兄弟に連絡をとりなさいと何度かアドバイスしたという。しかし麻原から明確な返答はなかった。どうやら疎遠らしいな、と白岩は直感した。
「親とは連絡をとりたくないって言ったんですか」
「いや、そういうことまでは言わないけどね。だけどこの話題になると黙ってたよね」
「幼少期に盲学校に強制的に入学させられたことで、親から捨てられたような感覚を持ってしまい、それが彼の歪んだ人格形成の端緒だったとの説がありますが」
「まあ、それもひとつの原因ではあっただろうけどもね、それがすべてかというとそうでもないような気がしますね」
 ふと気がついた。白岩はほとんど断言しない。人を決めつけない。長く刑事という仕事に就き、境界線上にいるたくさんの男や女たちに会ってきたからだろうか。
「……彼に対しては、ソクインの情はありましたね」
 白岩が言った。僕は訊き返した。恥ずかしいことに言葉の意味がわからなかった。
「ソクイン……ですか」
「はい。惻隠の情。要するにね、ハンデをもって生まれて苦労して、それでもなかなか世間並みには浮かび上がれないという彼に対して、確かに私は、同情していたと思います。良いか悪いかは別にして、とにかく彼は一生懸命やっていました。そういえばね、サリン事件で逮捕されたあとに、取り調べの刑事から連絡がありましたよ。『白岩さん、麻原がアンタのことを、一生懸命誉めてたよ』って。驚いたけどね。やっぱり何か感じてくれていたのかもしれないな」
「取り調べしていて、彼と気持ちが通じたような、そんな瞬間とかはありましたか」
「ありました。それはすぐわかりますよ。話しててね。本当に納得しているときは、彼は深くうなずくんです。納得できないときにはじっと黙り込む。だからとてもわかりやすい。とにかく最後には、納得して調書に署名しました。あいつね、どちらかというと豪快な字を書きそうだけどそうじゃない。非常に女性的な字を書くんです」
 言いながら白岩は微笑んだ。思わず口から出た「あいつ」という呼称に、白岩の思いが表れていた。
 結局、麻原は二十日間の勾留で二十万円の罰金を命じられた。つまり略式起訴だ。薬事法違反については初犯であり、また強い犯意も窺えなかったのだから、きわめて妥当な対応といえるだろう。事件当時多くのメディアは、「この逮捕をきっかけに麻原の反社会性は萌芽した」的な見方をした。確かに構図としてはそのほうがわかりやすい。でも少なくとも逮捕後しばらくの期間においては、彼の反社会性を示すようなエピソードは他に見つからない。ただし罪状は重くはなくとも、この事件は麻原の顔写真入りで新聞紙面に報道されたため、家族は世間の白い目にさらされ自分と子供たちは家の外に出ることすらできなくなったと、知子は後に教団の機関誌で述べている。

 初期の警察発表をうのみにした新聞記事、そしてテレビ・ニュース。それらのために、私達は世間の白い目にさらされることになってしまったのです。(中略)日本語さえも普通に話すことができなくなってしまったほど、人を拒絶した生活を送っていたのです。
『マハーヤーナ №27』

 松本知子のこの文章を読んだとき、僕は軽い違和感を持った。少し過剰だと思ったのだ。でも夫が犯罪者として逮捕され、さらに新聞やテレビで顔写真まで報道されたと考えれば、普通ならその衝撃は大きい。一般人としての感覚ならば当たり前かもしれないと思い直した。
 つまりこの時期の松本知子は(島寿司の中島が「ぽちゃっとしていてね、本当に可愛い子って感じです」と形容していた時期から数年しか経っていない)、市井に生きる人として、妻として母として、とても当たり前の感覚を保持していた。そして妻がそんな感覚でいたということは、おそらくは夫である麻原もこの時点において、「惻隠の情を持った」と白岩が語るように、懸命に生きる一人の市民だったはずだ。
 いずれにせよ、この事件をきっかけに麻原が反社会性を獲得したと断定できるだけの根拠は、僕には見つけられない。でもこの時期に大きな変化があったことは確かだ。
 一九八六年に出版された『超能力「秘密の開発法」』(大和出版)で麻原は、鍼灸の仕事をしながら気学や四柱推命、気門遁甲などを独学で学び、仙道の修行によってクンダリニーの覚醒に成功したと自ら記述している。この時期にGLAの創設者である宗教家高橋信次の著作を読み耽っていた麻原は、亜細亜堂を閉めた一カ月後に、桐山靖雄が七八年に創設した阿含宗に入信している。『超能力「秘密の開発法」』には、阿含宗には三年間在籍して、千日間で解脱できるという千座行を終えたけれど、お布施や供養のためのお金があまりにかかり過ぎることを理由にやめたとの記述がある。
 薬事法違反で逮捕されてから五カ月後、このときは師弟関係にあった社団法人社会総合解析協会会長だった西山祥雲から「彰晃」の名前をもらった智津夫は、麻原彰晃としてヨーガの道場である「鳳凰慶林館」を主宰するようになる。
 逮捕から八年が過ぎた一九九〇年、代々木署に異動になっていた白岩は、街で奇妙な集団を見かけた。どうやら衆議院選挙の運動のつもりらしいが、頭に象のような奇妙な帽子を被った運動員たちが、街宣車の横で歌ったり踊ったりしている。
「選挙が終わって落選が決まってから、代表の麻原彰晃という男の本名が松本智津夫だってわかってね。それでね、とにかく話さなければと思ってオウムに電話したんです。世間知らずにもほどがあると言いたかった。でもそのときはいなかった。だから白岩から電話があったと伝えてくれって言ったんだけどね」
「世間知らずというのは……」
「だってどう考えても、あんな集団が当選するなんて誰も思わんでしょう。ところがそれに気づいていない。だからね、もう少し社会体験や実績を積み重ねて、それで世間から認められるようになったら、選挙もいいかもしれない。だからもう少し考えろと言いたかった。……結局電話は来なかったけどね」
 一九九三年、停年を迎えた白岩は退職する。地下鉄サリン事件が起きたのはその二年後だ。
「やっぱりなという感じかな。実はその後、マスコミから裁判を傍聴してくれって依頼が来たことがあるんです。でも断っちゃった。今は会いたくない。ただ、彼がね、もしもいまわの際になったら会ってみたいなという気はあるよ。何か人とは違うものを持っていた。それを知りたい。頭のいい男だったよ。でもそれだけじゃない。人を惹きつける何かがあったんだよね」
「取り調べ中に人を惹きつけるようなことは言いましたか」
「自分のアピールはしない男だったな」
 意外だった。白岩が取り調べをしたほぼ同じ時期に、毎晩のように店に来た麻原と話していたという中島は、胴巻きから札束を取り出して経済的な成功をひけらかす麻原のエピソードを話してくれた。
「アピールしないんですか」
「しない、しない。全然しない。謙虚です。私の言うことをね、一生懸命聞こうとはしていました」
 そう言ってから白岩は、しばらく何かを考えるかのように黙り込んだ。そしてポツリとつぶやいた。
「……あれ、絞首刑ですよね」
「量刑的にはそうなるでしょうね。何よりも一審の判決が今、確定しようとしていますから」
「世間は怖いね。何でもかんでも極刑、極刑の世の中だけど」
「彼はなぜ、あんなふうになってしまったのでしょう?」
「まあ、孤独だったということですよ」
「なぜそう思うのですか」
「家族とも縁が薄い。友人もいない。本当に理解してくれる人がいない。結局は自分なりに生きていかなきゃいけない。それがだんだんだんだん、しまいにはああいう化けものになっちゃった」
 そこまで言って、白岩は大きく吐息をついた。僕は腕の時計に視線を送る。最初に「インタビューは長くても二時間まで」と言われていたからだ。でもとっくに二時間は過ぎている。
「時間だね」
 そう言ってから立ち上がりかけた白岩は、僕の顔を正面から見つめた。
「……断罪するばかりじゃ事は済まないと私は思うんです。だって断罪して終わりじゃ、同じことがまた、別な姿で出てくるだけじゃないのって」
 言ってから、財布の中から自分のジュース代を取り出そうとする白岩を、あわてて僕は押しとどめた。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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