8 記憶

(二〇〇五年九月号)

「あの頃はとてつもない数の新聞や週刊誌、テレビの方が、おいでになりました。お宅さまはあの頃は、ここにはいらっしゃらなかったのですか」
 簡単な自己紹介を済ませたあとに、植田忠司はそう言った。
「いいえ。植田さんにお会いするのは今日が初めてです」
 そう答えながら、なぜ植田が、こんな話題でいきなり口火を切ったのかを、僕は考えていた。何となくではあるけれど、思い当たることはある。
 この連載が始まる少し前の二〇〇四年八月、熊本日日新聞社などの取材のために熊本を訪れたとき、麻原彰晃の出身校である熊本県立盲学校の教諭だった石淵定次郎に話を聞いた。石淵によれば、事件直後からしばらくは、学校は朝から夜までメディアに包囲されていたという。校舎だけではない。メディアの監視は教師の自宅や生徒が起居する寮にまで及んだ。つまり教師と生徒にとっては、ほぼ二十四時間カメラの放列に凝視されているような状況だった。それも一週間や二週間ではない。数カ月も続いた。当然ながら授業どころではない。教育委員会と対策を協議した学校は、臨時の広報担当として石淵を指名した。テレビや新聞、雑誌など、ありとあらゆるメディアの窓口となった石淵は、自分の顔は露出しないことを条件に、すべての取材に応じていた。
 しかし後日、テレビを見ていた家族が、「顔が映っているよ」と声をあげた。あれほどに約束したのにと思いながら学校に行けば、今度は同僚が、写真週刊誌に顔が大きく掲載されているよと教えてくれたという。
 ここまでの記述でもう察している読者もいるかもしれないが、石淵は全盲だ。だから自分では確認できない。約束を守らないメディアの体質など今に始まったことではない。ただし通常ならハンディキャップのある人に対しては常日頃の行状への贖罪のように発揮されるメディアの擬似的優しさすらも機能しなかったことを知って、このときの僕は少しだけ驚いた。
 麻原の生家周辺に対しては、家族は犯罪とは無関係であるとの良識が多少は働いたことに加え、被差別部落や在日朝鮮人、さらには水俣病などの噂が輻輳して、メディアにおける微妙なタブー的領域が形成され、取材のエア・ポケットのような状況に落ち込んだと僕は推測している。しかし犯罪報道における容疑者の出自や成育環境は、視聴者や読者が最も強い興味を示す要素のひとつであり、これを調べることはとりあえずの取材の基本でもある。だからこそ多少の萎縮が働いたその反動として、麻原の出身校である熊本県立盲学校に対しての取材攻勢は、通常にも増して常軌を逸したという可能性もある。
 麻原が二年生と三年生のときのクラス担任であり、さらに麻原が所属していた柔道部の顧問でもあった植田忠司に対しても、当然ながらメディアの取材は集中した。「お宅さまはあの頃は、ここにはいらっしゃらなかったのですか」といきなり訊ねる植田の意識に、当時の記憶が微妙にフラッシュバックしていることは間違いないだろう。
 明治四十四年、熊本市内坪井町一五八番地の民家を借りて校舎として、熊本県立盲学校(当時は私立盲亜技芸学校)は開校した。大正十五年、県立に移管されて熊本県立盲亜学校と改称し、昭和十二年にはヘレン・ケラーが来校するなど、歴史と伝統のある盲学校として知られている。創立から取材時のこの時点までの卒業者数は一五一三人。そのうちの一人が、麻原彰晃こと松本智津夫だ。
 一九六一年四月、自宅から徒歩で一分の距離にある金剛小学校に、松本智津夫は新一年生としていったんは入学するが、すぐに熊本県立盲学校に転校した。このとき彼の左目は強度の弱視だが(ほとんど見えなかったとの説もある)右目の視力は一・〇近くあったらしく、無理をすれば普通の小学校に通うことはまだ可能だった。
 この強引で唐突な盲学校への転校について多くのメディアは、経費が免除されるうえに就学奨励金などが支給されるという盲学校のシステムが背景にあったと報道した。幼少時に親のエゴで家庭から引き離され、その結果として歪んだ精神形成がなされたとの論旨だ。
 メディアは納得できる理由を探す。ただしほとんどの場合、納得するその主体は自分たちではなく、情報を提供される視聴者や読者だ。つまりわかりやすさが何よりも優先される。
 麻原が異常な人格を保持しているとの前提がまずはある。だからその理由を探す。その際にこの前提を補強する事実は強調されるし、この前提を打ち消すかのような事実は扱われない。もちろん僕だって例外ではない。取材した事実を(自分の視点で)再構成する。インタビューした際には、使うコメントと使わないコメントを(自分の視点で)選択している。だからこそ提示された記事やニュースには、取材した人の思想や感情や主張が滲む。これは回避できない。完全に客観的な取材や報道などありえない。
 事象や現象は限りなく多面的だ(イメージとしては巨大なミラーボールを想定してくれればいい)。どの視点に立つかによって見える面(光景)は無限に変わる。これら無限の視点のうちマスメディアは、市場原理に従いながら、最もわかりやすくて刺激的な視点を強調する。その意味ではウソではない。ウソではないけれどワンオブゼムだ。ところが見たり聞いたり読んだりする側は、与えられたこのワンオブゼムがすべてであるかのように思い込んでしまう。

 当時の松本家の経済状態は楽ではなかった。それは事実だ。子供を盲学校に入れることで、確かに金銭的な負担は減っただろう。自分は親に捨てられたと麻原が時おり口にしていたことも事実だ。何よりも彼が親を恨んでいたとの設定は、その異常な性格や社会への憎悪を説明するうえで腑に落ちる。
 でも(これは後述するが)教祖になってからの麻原は、実のところ実家とよく行き来していた。両親をサティアンに呼んだこともあるし、弟子たちを引き連れて実家に里帰りしたことすらある。ならば親を恨み、そして憎んでいたとの設定は揺らぐ。さらに勝明寺の住職である木下慶心は、麻原の老いた両親が子供に対してはいかに情愛深い夫婦だったかを、いくつかのエピソードを交えながら話してくれた。その二人が金銭的な理由だけで、年端もゆかない我が子を自分たちから遠ざけたとは思えない。
 兄弟の総数は五男二女。そのうち四男である麻原を含めて三人が盲学校に入学した松本家の家系に、何らかの遺伝的疾患があったという可能性は相当に高い。ならば幼少時から弱視だった四男がやがて全盲になることを、麻原の両親が予見していたという仮説も成立する(ただしこの仮説は水俣病説を否定する)。ならば今のうちに盲学校に通わせて手に職をつけさせようと考えることは、親心としては当たり前だとの見方もできる。
 薄倖な生い立ちを麻原が演出したとの可能性もあるし、逆恨みしたとの見方も不可能ではない。
 念を押すが、これらの見方もワンオブゼムだ。確かに両親は学校にほとんど来なかった。幼い頃の麻原は、昼休みはいつも校長室にいたという。校長は女性だった。事件後の彼女の証言から、母性に飢えていたとの推測はできる。

「『校長先生』と呼ぶので『どうしたの智津夫くん』と声を掛けると、もじもじして何も言わない。休み時間が終わるまで私のそばに立っていた」
『裁かれる教祖』共同通信社社会部編

「クラスは十名ぐらいですよ。女子は二、三名。松本くんについていえば、いわゆる普通の高校生で、ちょっと体格はいいほうでしたね、筋肉質の。性格的には、ちょっとばかり元気もんかなっていう感じですね。成績もよかったです。ハキハキものを言うほうだったですね」
 十代後半の時期の麻原の担任だった植田忠司はそう言い終えてから、お茶を静かに口元に運ぶ。テーブルの上に置かれた小さなレコーダーのスイッチが入っていることを横目で確認してから、僕は少しだけ膝を乗りだした。
「元気もんというのは……」
「スポーツが好きで、声も大きいですしね。人とも積極的に話し合おうとするし、ともかく陰日なたのない、明るい活発な子じゃったということです」
 盲学校卒業後は熊本大学の医学部に進みたいと考えていた麻原は、何度か職員室にいる植田に相談に来たという。医学部を志望するその理由を訊ねる植田に、自分自身が目の治療を受けているからこそ病気で困っている人たちを救う仕事をしてみたいのだと麻原は説明した。額面どおりに捉えることもできるし、医師という特権階級をこの頃から志向していたとの見方もできる。どちらが正しいかは本人にしかわからないし、もしかしたら本人にだって濃度の差などわからないのかもしれない。しかし成績はともかく、左目がほとんど見えず右目も弱視で、さらに色弱でもあった麻原にとって、医学部への進学は相当に高いハードルだった。
「そう言って説得はしましたが、それでもやっぱり、先生どうにかならんのかっちゅう話は、それからもしょっちゅうしておりましたですね」
 高等科を卒業した麻原は、さらに二年間の職業課程の専攻科を修了して(この時点で二十歳になっている)、半年ほど東京で暮らしてから実家に戻り、しばらく長兄が経営する漢方薬店を手伝い、その後に連載二回目で書いた熊本市内の鍼灸院でしばらく働き、再び実家に戻る。このときに小さな傷害事件を起こしている。それから再び上京して、渋谷の代々木ゼミナールに入学する。

 スタートと同時にうろうろと迷走しているかのような印象がある。まるで身悶えしながら地団太を踏み続けているかのような軌跡だ。もしも自分はいずれ失明すると知っていたのなら、その焦燥と絶望の色は、相当に濃いものであっただろうと想像できる。
 麻原が高等科を卒業する同年に他校へと転任した植田は、この十七年後である一九九〇年、熊本を舞台に波野村騒動が起きたとき、かつて医者になることを夢見ていた教え子が騒動の渦中にいることを知ることになる。
「本当にびっくりしましたね。教祖になっていたということも、その宗教団体がいろんな事件を引き起こしているということも、高校時代の松本くんの記憶からすれば、私にはとても信じられなかったですね」
「……盲学校時代の彼は、多少は見えていましたよね。それをいいことに全盲の生徒を従えて、暴君のように振る舞っていたという報道もありましたけれど?」
「そのへんは私には感じられなかったですね。先ほども言いましたが、そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかったということです」
 同じ言葉をくりかえす植田の声に、微かな苛立ちが滲んでいた。おそらくこれまで何人もの記者たちに、同じ質問をされてきたのだろう。
「確かに松本くんは見えちょるほうでした。しかし私が知っている範囲内では、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりとか、よくそんなことをやっちょりました。柔道部でも下級生に対して、とても熱心に指導しておりました」
「当時の麻原が、生徒会長や寮長などの選挙に立候補しては、脅しや買収などの裏工作に励んでいたとのエピソードがあります。高校時代からすでに権力欲にとらわれていたことを示す傍証として、メディアではよく使われました」
「その話は記者さんからよく確認されました。しかし私の知る範囲では、彼は正々堂々と選挙に臨んでいたんじゃないかと思いますが」
「彼の目の疾患についてですが、具体的にどんな病名だったかは、先生はご記憶ですか」
「はっきりは覚えておりませんが、色素変性症じゃないですかね。年齢差や個人差が随分あるんですが、年をとるにつれて視力がどんどん弱ってきて失明するという病気です。視力障害者の中ではいちばん多い症状です。眼球の色素がどんどん変質するんです」
 色素変性症の正式な名称は網膜色素変性症。網膜に異常な色素沈着が起こる症状だ。ある程度の遺伝要素があることは明らかになっているが、治療法は確立されていない。
「彼のお兄さんが義眼だったという話を地元で聞きましたけれど」
「義眼ですか? ならば牛眼の可能性はありますね」
「ギュウガン?」
 その禍々しい語感と響きに一瞬ぎょっとしたけれど、牛眼は先天性緑内障の別称だ。何らかの原因で眼圧が上昇し、視神経が圧迫されることで視野が狭くなり、重度の場合は激しい痛みを伴い、眼球を摘出せねばならない。
「松本くんの場合は、色素変性症はあっても牛眼はないと思います。ただしテレビに彼が映るたびに、あの瞼の閉じ具合からすると、病状はだいぶ進行したようだなと思いながら見ちょりました」
「彼はよく、声がする方向に顔を向けるそうなんです。それが見えている証拠だって言う人が多い。あと、法廷で普通にサインをしたとか」
「逆ですね。見えない人ほど、声のするほうに顔を向けるんですよ。一生懸命聞こうとしますから。サインは全盲の人だってできますよ」
 植田の言葉にうなずきながら、少しだけ情けなくなった。そんな基本的なことをなぜこの男は調べてこないのだと思われても仕方がない。目の不自由な人はいくらでもいる。調べる気にさえなれば誰にでもわかることのはずだ。ところが麻原については、そんな最低限の取材や確認すらなされない。彼の悪辣さを強調する情報ならば簡単に流布するが、これを否定したり一抹の懐疑を匂わせるような言説は、なかなか表面には表れない。つまり濾過されてしまう。だからこそ考える。この場合の濾過のフィルターの材質は何だろうと。
「……私がいちばんマスコミに不信を感じた理由ですが、こういうふうに取材に来られた人はみな、記事ができたら送りますっておっしゃるんですが、実際に送ってきたのは、結局は一社だけでした。新聞も、雑誌も、ほとんど全部、取材に見えましたが、約束どおり送ってきたのは、後にも先にも一社だけです。約束って守るためにすると私は思うちょりましたが、記者さんという方たちは、どうも違うようですな」
 黙ってうなずきながら、返す言葉のない僕は茶をすする。メディアを庇うつもりはないが、普通ならここまでひどくはない。要するに取材はしたけれど、かつての麻原を擁護するニュアンスが強い植田のコメントは、結局は「使えなかった」ということなのだろう。つまり濾過された。だから記事を送らなかった。おそらくはそんな事情だろう。不誠実に変わりはないけれど。
「最近はもう、メディアは来ませんか」
「しばらく見えませんでしたが、去年一社だけ見えました。松本くんの判決に合わせての取材だったようです。新聞社の方でしたが」
「記事は送ってきましたか」
「いや、送ってはこられませんでした」
「でも社名がわかっているなら、読むことはできますよね」
「胸が痛うなるけんですね。もう、なるべく見ません。何を言うても、よか記事にならんからですね。事件の頃は、テレビもよう見れませんでした。松本くんについては、普通の高校生、元気な高校生という思いしかないですからね。とにかく笑顔が印象に残る子でした」
「ご家族にお会いしたことはありますか」
「それも記者さんによく聞かれる質問ですが、お父さんとお会いしたことはなかです。保護者会には、一番上のお兄さんが来ておりました」
「……植田さんにとっては、やっぱり今も松本くんですか」
「そうですね。在学中は松本と呼び捨てにしちょりましたけど、卒業したら他の子もみんな、〝くん〟づけです」
 時計を見れば、すでに二時間あまりが過ぎている。暇を告げる僕に、植田は「お役に立ちましたでしょうか」とつぶやいた。掲載誌は絶対に送ります。そう言うと、少しだけ困ったように微笑んだ。二時間で初めての笑みだったかもしれない。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
2つ のマガジンに含まれています
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