3 面会

(二〇〇五年四月号)

 二〇〇四年十一月二十九日、つまりこの連載の原稿初回分を書き終わった数日後、公判手続きの停止と身体・精神両面の鑑定を東京高裁に申請したことを、二審弁護団は記者会見で明らかにした。二人の弁護人は麻原とこれまでに三十六回接見したが、車椅子に座ったままの麻原は紙おむつをあてがわれながらほとんど身動きせず、問いかけには無反応で、時おり呻き声を発する程度だったという。弁護人によるこの描写は、二〇〇四年二月の判決公判で僕が目撃した麻原の様子とほぼ同じだ。違いは車椅子だけ。判決公判のときは、一応は自分の足で歩いていた。
 鑑定の必要性を主張する二審弁護団を僕は全面的に支持する。支持するとかしないとかのレベルではなく、きわめて当たり前のことだと思う。相当に小さな確率ではあるけれど、彼が精神の混濁を偽装している可能性はもちろんある。ならばそれを確かめればよいだけの話だ。法廷でこれほど意味不明な発言をくりかえす刑事被告人に一度も精神鑑定が実施されなかったことのほうが、明らかに異常な事態なのだ。
 しかし連載三回目(つまり今回のこの原稿)を書き終える直前、東京高裁は二審弁護団の申し立てを却下した。その理由のひとつは、被告の身体や血液、CTなどの検査を実施したが異常は認められなかったとの報告が、拘置所から高裁に上げられたからだという。
 メンタルな現象である心神喪失が、血液のチェックや身体検査などで判明できると裁判官たちは本気で考えたのだろうか。確かにCTならば脳の萎縮くらいは判明するかもしれないが、そんな症状が現れない精神障害はいくらでもある。
 高裁が申し立てを却下した理由はもうひとつある。弁護団の鑑定申請を受けてから須田賢裁判長と陪席裁判官らが被告に一度だけ面会したとき、言葉は発しなかったものの相槌を打ったりそっぽを向くなどの動作があったため、「話の内容を理解していると思われる」と判断したという。
 何かの冗談を聞いているかのようだ。動物園の動物だって金網越しに声をかければ、相槌を打ったりそっぽを向いたりするかのように見える反応くらいはする。なぜこれが「話の内容を理解している」という解釈に結びつくのだろう。
 すべては「思われる」との述語に表れている。「話の内容を理解していると思われる」という表現を文字どおり解釈すれば、判断ではなく推測だ。もちろん須田裁判長がこんな表現を実際に使ったかどうかは正確にはわからない。例えば読売新聞では、「話の内容」は「説明」という言葉になっている。しかし述語はやはり「思われる」で、他の新聞もすべて、この「思われる」については共通している。だからいずれにせよ、これに類する表現をしたことを前提として、法の番人であるはずの裁判官らに問いたい。
 なぜ「思われる」などと主語が不明瞭な述語を使うのか。あなたたちの思いなどどうでもよい。ちゃんと仕事をしてほしい。大小便は垂れ流しで会話どころか意思の疎通すらできなくなっている男を被告席に座らせて、あなたたちはいったい何を裁こうとするつもりなのか。どんな事実を明らかにするつもりなのか。そもそも刑事裁判の存在意義を、あなたたちはどのように考えているのだろうか。

 千代田線綾瀬駅を降りてから東京拘置所までは徒歩で十五分ほど。片側を高い塀で覆われたこの道は、いつもほとんど人の往来がない。
 見上げれば空は一面の曇り空。ここに来るときは、いつもこんな天気だ。すっきりと晴れたことはほとんどない。
 面会を終えたらしい数人の男たちと玄関口で擦れ違う。いずれも恰幅がよくタバコを口の端にくわえながら、大きな指輪やネックレスを身につけている。明らかに堅気とは異なる雰囲気だ。玄関脇の柱の陰で、(夫への差し入れか宅下げに来たのか)幼い赤ん坊を抱いた女性が、暗い表情でじっと佇んでいる。その隣ではアラブ系の中年男が、放心したように空を眺めている。
 受付の横に奇妙な一団がいた。揃いの赤いベレー帽を被った六人の男たちが、まるで軍隊のように直立不動で整列している。ベレー帽で軍隊とくれば普通はグリーンベレーだが、この六人の男たちはタキシードを着て、蝶ネクタイまで身につけている。受付で面会の手続きを終えて彼らの前を通り過ぎるとき、口髭を生やした一人の男と目が合った。
 思わず凝視したためか、男の表情が一変した。これがもし盛り場なら、「何見てんだこら」とか何とか言ってきたかもしれない。でもそのとき、一団を統率する立場にいるらしいベレー帽の男が突然号令をかけたので、男たちは敬礼をしてから、所持品検査の部屋へと一糸乱れぬ足取りで行進していった。
 行軍の後ろ姿を見送ってからロビーに視線を送る。長椅子に座った二十人ほどの面会人が、壁に据えられたテレビをぼんやりと眺めている。長椅子に腰を下ろしかけたそのとき、すぐ隣に座る若い女性と視線が合った。誰だっけ。数秒考えてから思い出した。麻原彰晃の次女だ。思わずじっと見つめる僕からいったんは視線を外してから、「見つかっちゃった」と言いたげな表情になった次女は、俯いたまま小さく肩を震わせるように苦笑した。

 二〇〇〇年一月、茨城県旭村(現在は鉾田市)の住宅に居住していた麻原彰晃の長男(当時七歳)が姉である次女(同十九歳)と三女(同十六歳)に拉致されたとのニュースが、「お家騒動」やら「麻原長男連れ去り事件」などの見出しやフレーズとともに大きく報道された。
 結局オウムの狂暴で危険な体質はまったく変わっていなかったとして、前年の年末に施行されたばかりの団体規制法(無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律)の正当性を、この事件は強く印象づける働きをすることになった。思想信条や結社の自由を侵害する可能性、あるいは対象団体の規定がきわめて曖昧であることなどを批判されながら成立した団体規制法にとっては、まさしく強い追い風となった事件だった。
 多くのメディアは「拉致」や「誘拐」、「連れ去り」などの言葉を使ったけれど、でも姉妹への実際の容疑は「住居侵入」だ。それはそうだ。説明するまでもないことだけど、未成年である姉が実の弟を連れてゆくことを、普通は「拉致」とは呼ばない。
 この時期『A2』を撮影していた僕は、カメラを担いで旭村の現場に行った。次女と三女らが不法侵入したとされる部屋は、この時点では別の家に居住していた三女のかつての勉強部屋だった。机や参考書もそのままだ。
 ただし、次女と三女に同行していた数人の信者と、この家に居住していた信者たちが揉めたことは事実だ。軽微ながら怪我をした信者もいたようだ。でも監視のために住居の横に設置された派出所の警察官が、長男とともに家を出る彼女たちを見送っていたことからも、少なくとも新聞に載るような事件でなかったことは確かだ。
 二人が逮捕されてからは、姉妹の代理人(弁護士)にも会った。指名手配されているとの報道に驚いて出頭した二人が警察署での取り調べの際に、「殺人者の娘」や「汚らわしい」などと取調官たちから罵倒されていることを、代理人は強い調子で訴えた。
 この取材の顚末を、僕はいくつかの雑誌に書いた。最終的に次女と三女は保護観察処分となった。一緒に逮捕されたほとんどの信者たちも、結局は不起訴や処分保留となっている。
 でもメディアは事件発生や逮捕は大きく報じても、不起訴や処分保留はまず伝えない。姉妹の騒動が起きる少し前には、やはりオウム幹部だった野田成人が銀行支店幹部を脅迫したとして、暴力行為法違反容疑で逮捕されていた。スポーツ紙などはこの事件を一面大見出しで伝えたが、野田が処分保留で釈放された(つまり事件性はなかったと判断された)ときは、ほとんどのメディアはこれを記事やニュースにはしなかった。
 この時期にはこんなことは頻繁にあった。入り口はあっても出口はない。だから一般的な国民の意識レベルにおいては、狂暴で危険なオウムというイメージばかりが肥大することになる。
 結局のところ旭村のシークエンスは、『A2』本編では使わなかった。全体の尺がどうしても二時間十五分を超えてしまい、最後の最後にカットした。

「誰の面会に来たの?」
 僕は訊いた。もしも拘置所でばったり知り合いに会ったなら、たぶん誰もが互いに交わす質問だ。でも次女は微笑むばかりで答えない。もう一度同じ質問をする僕に次女は、「プライバシーはお答えできません」と小声でつぶやいた。釈放された直後に、姉妹とは何回か会っている。そのときに比べれば、いったいどうしちゃったのだろうと思いたくなるくらいに他人行儀だ。でもこのときは、それ以上は訊かなかった。じっと沈黙する次女から、誰に会うかは絶対に言いたくないとの強い意志を感じたからだ。
 次女が誰に会いに来たのか、このときの僕は思い至らなかった。でも今ならわかる。二審弁護団が裁判所による麻原への精神鑑定申し立てをしたことを報せる複数の記事の後半に、この時期に次女と三女が拘置所に頻繁に来ていたことが記述されていたからだ。申し立ての文章からその箇所を引用する。

 次女と三女も何回か父親に面会したが、娘たちの呼びかけにも彼は最後まで反応することなく、「きちんと心身の状態を調べ、万全の形で裁判を進めて欲しい」と二人は訴えている。

 僕は顔を上げる。掲示板の64の数字が点灯している。受付で渡された面会票に記されている番号だ。立ち上がった僕は次女に「それじゃあ」と声をかけてから、所持品検査の部屋へと向かう。部屋の壁に取り付けられたコインロッカーにバッグと携帯電話を入れ、男女二人の係官に見守られながら金属探知のゲートをくぐる。
 二分ほど回廊を歩く。壁や床が何となく白く発色しているようで、来るたびにSF映画のセットを歩いているような気分になる。突き当たりのエレベーターのスイッチを押す。ほとんどのオウムの信者たちは六階に拘置されている。扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと上昇する。僕は壁に背中を預ける。初めて来たときは二年前。そのときもやはり六階で、面会相手は岡崎一明だった。

 一九八九年十一月四日未明、横浜市磯子区のアパートに住んでいた坂本堤弁護士が、妻と幼い息子とともに忽然と姿を消した。襖などから微量の血痕が検出されたことや、布団などの寝具類は消えていたが財布などは残っていたことなどから、坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が三人を拉致した可能性について言及した。オウムに入信した子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を担っていた坂本弁護士は、失踪直前の十月三十一日に横浜法律事務所を訪ねてきた複数のオウム幹部と、激しい口論になっていたからだ。
 地下鉄サリン事件から半年後の一九九五年九月、神奈川県警に自首した岡崎の供述によって、三人の遺体が、新潟、富山、長野の山中に埋められていたことが明らかになった。さらにこの事件の共犯者である中川智正の法廷検察側冒頭陳述で、一九八九年十月二十六日にTBSを訪ねたオウム幹部たちが坂本弁護士による教団批判の収録テープを放送前に見たことが一家殺害へのきっかけになったことが明らかになり、これを長く隠蔽していたTBSの報道倫理が厳しく問われることになった。
 遺体発見のきっかけを警察に提供した岡崎だが、一審は自首を認定しながらも死刑判決を下し、二審は早々と控訴を棄却した。オウム法廷の控訴審では、初めての死刑判決ということになる。
 岡崎への面会に通うようになったそもそものきっかけは、面会の同行をジャーナリストの武田賴政から誘われたからだ。拘置所内の岡崎は、事件後に出版されたオウムに関する様々な書籍や文献に目を通しながら僕に興味を抱き、週に一度は面会に来て差し入れや宅下げをする武田に、機会があったら森を連れてきてほしいと打診したという。
 初めての面会の日、武田と並んで緊張しながら座っていた僕の目の前でアクリル板越しの扉が開き、刑務官とともに紺色の作務衣姿の岡崎が現れた。その最初の言葉は、今でもよく覚えている。
「森さん初めまして。でもお声は聞いているんです。FM東京のニュースです」
 この時期に僕は、FM東京のニュース番組でよくコメントを求められていた。テレビの視聴は許されていない拘置所内において、ラジオは(時間帯は限定されているけれど)唯一の電波メディアということになる。
 この後に彼と交わした会話を、この誌面に記述することはできない。なぜなら拘置所の規定でマスコミ関係者は、面会の際に被告人と話したことを決して口外しないようにと決められているからだ。
 口外してはいけないその理由が、僕にはどうしてもわからない。被告人の人権を守るためと説明する人がいるが、ならば被告人が公開を望んでもダメな理由を説明してほしい。裁判で係争中だからとの理由にも納得できない。近代司法における裁判は公開が原則だ。ならば、あらゆる情報を社会全般が共有しながら多角的に吟味することに、何の問題があるのだろう。
 どう考えても口外してはいけないとの理由がわからない。しかしこの規定に反発して会話の内容をこの誌面に書けば、以降の面会を制限される恐れがある。だから書きたくても書けない。今後の面会を人質にされたようなものだ。
 
 岡崎一明との会話はおよそ二十分ほど。逮捕後は禅宗に救いを求め、今は毎日、自分の犯した過ちについて考える日々だという。
 ……こんな表層的な描写しか書けない自分が腹だたしい。苦肉の策で、最初の面会以降に彼とやりとりした手紙の内容から、麻原一審判決傍聴後に僕が週刊誌や新聞に書いた記事についての岡崎の感想を、要約しながら引用する。なぜか被告人から送られてきた手紙の内容については、口外してはいけないとの規則はないからだ(これはこれでとても不徹底で中途半端だとは思うけれど)。

 彼にはもう普通人としての意識が失われているとするあなたの見立てには、かつて麻原彰晃の法廷に証人として呼ばれたときの印象も含めて、自分も全面的に同意する。ただし、麻原がここまで無残に壊れた理由をあなたは、「イメージの世界にいたからこそ、現実の事件との大きすぎるギャップと罪の意識に耐えかねたのでは」と書いていたが、自分の見解は少し違う。

 この後に記された岡崎の見解は、ある意味で実に単純明快だ。拘置所内で投与された向精神薬が、麻原の人格崩壊の原因ではないかと彼は推測している。彼自身が接見した司法関係者からの情報だという。
 拘置所内で看守たちが薬物を頻繁に使うとの噂は、確かによく耳にする。特に入所したばかりの時期の麻原はとにかく反抗的で、看守たちにとっては厄介な存在だったらしく、常識をはるかに超えた量の薬物が投与されたということらしい。これに対して麻原は、一時は絶食や尿療法などで何とか薬に対抗しようとしたが(確かに当時はそんな報道もあった)、生身の身体が薬物の効果に耐えきれるはずもなく、最後には無残に崩壊したという。
 岡崎一明が入手したというこの情報の真偽については、今のところ僕にはわからない。かつては信者たちだけではなく麻原自身も、LSDなどの薬物をキリストのイニシエーションなどと称して、自らに投与していた。そのフラッシュバックが放置されたために慢性化したとの見方もある。確かに薬物を原因と仮定するならば、これほどに急激に症状が進行したことについて、ある程度の説明はつく。

 もう何度目かのこの日の面会も、岡崎はいつものように作務衣姿だった。そしていつものように快活だった。ただし面会を終える直前に「死刑は怖くないですか」と訊ねたときは、数秒間沈黙した。無言のまま指先を見つめながら岡崎は、「犯した罪を考えれば当たり前のことです」と小さくつぶやいた。
 面会を終えてから、拘置所玄関前の差し入れ屋で数種類のチョコレートを買った。早川紀代秀に差し入れをするためだ。彼にも面会したいのだけどと相談した僕に、「それならチョコレート差し入れしてやってください。早川さんの好物です。義理堅い人だから、きっと礼状が届きますよ」と岡崎からアドバイスされたのだ。
 規定の用紙に住所氏名を書いて会計を済ませてから、高い塀に四方を囲まれた拘置所をもう一度振り返る。この建物のどこかに処刑場がある。今も二十人を超す確定死刑囚が、この中で日々を送っている。最高裁で岡崎一明の死刑が確定する確率は、現況ではかなり高い。ほぼ間違いない。もちろん確定がそのまま執行を意味するわけではない。判決確定後六カ月以内に法務大臣は刑の執行を命令し、さらに拘置所は五日以内にその執行をしなければならないと刑事訴訟法では定められているが、でも現実には、確定から執行までは何年もの期間がある。二十三歳で逮捕されて死刑が確定しながら五十七歳で無罪を獲得した免田栄や、帝銀事件の犯人として死刑が確定してから拘置所に三十二年間にわたって収監され続け、九十五歳で病死した平沢貞通などの例もある。
 ところが最近では、確定後一年を経過せずに執行された宅間守の例が示すように、この暗黙のルールが崩れ始めている。
 もちろん原則は六カ月以内だ。だからルールを逸脱していたこれまでのほうがイレギュラーだったとの見方は間違ってはいない。でもルールが守られていなかったことについては、それなりの理由があるはずだ。そしてルールを厳格に遂行しようとする動きや気分がもしも今強くなっているならば、やはりそこにはそれなりの理由があるはずだ。
 いずれにせよ、麻原彰晃への死刑がいつかは執行される確率は間違いなく高い。国民世論として死刑を必要不可欠な制度とする意識が形成されているならば、そして麻原彰晃が確かにオウムによるほとんどの事件の首謀者としての役割を果たしたことが証明されるならば、彼への死刑が執行されることは現システム下では当然だ。でも時おり思う。制度としての死刑を当たり前とする人たちのどの程度が、実際にどのように刑が執行されるのかを知っているのだろうか。

 死刑囚が執行の報せを受けるのは当日の朝。看守たちが本人に通告し、そのまま処刑場に連行する。多くの死刑囚はこの時点で観念しているが、錯乱して泣き叫ぶものも少なくはない。
 処刑場に隣接する小部屋で簡単な宗教的儀式が執り行われ(一応は仏教と神道とキリスト教に対応するようになっている)、希望者には遺言状を書く時間を与え、茶菓子や最後のタバコなども供与される。教誨師や刑務官たちとの別れの挨拶を終えた死刑囚に目隠しが施されて、小部屋の奥のアコーディオンカーテンが開く。隣接する処刑場の床の中央には一一〇センチ四方の四角い枠があり、油圧式で動く鉄の踏み板が設置されている。天井から下りてきたロープの輪を、刑務官が踏み板の上に立った死刑囚の首にかけ、さらに両膝と両手を縛る。
 別室の壁には踏み板に連動する複数(三~五つ)のスイッチが設置されていて(刑場によってスイッチの数は違う)、スイッチと同じ数の刑務官が合図を待っている。死刑囚が立つ踏み板をどのスイッチが外すのかは、合図を待つ彼らにもわからない。人を殺したという罪の意識を軽減するためのシステムだ。
 合図とともに踏み板が外れ、死刑囚は床下の空間に落下する。
 落下の衝撃により首の筋肉は断裂し、軟骨は折れ、気管はつぶれ、舌が血や泡とともに口腔から飛び出す(このときに首が切断される場合もある)。激しい痙攣はしばらく続き、呼吸が停止してからも心臓は鼓動を続ける。
 頸椎骨折や脱臼によって数秒で意識を失う場合もあることを、法務省は絞首刑を採用する理由としている。死刑囚に余計な苦しみを与えないということらしい。でも現場に立ち会った刑務官の証言によれば、いつも必ず頸椎が損傷を受けるわけではない。その場合は、ロープで首が絞まることによっての窒息死だ。立ち会いの医師が心音によって死亡を確認するまでの平均時間は約十四分。これまでの最短記録は四分で、最長記録は三十七分。当然ながらこの場合は苦しみながら死ぬ。ただしこれは推測だ。実際に絞首刑がどの程度の苦痛を与えているのか、それは誰にもわからない。なぜならこれを体験してから語った人はいまだいない。

 ちなみに二〇〇八年に絞首刑を実施した国は、イランとイラク、パキスタンとバングラデシュ、エジプトにマレーシアとスーダン、ボツワナとセントクリストファー・ネーヴィスと日本だけだ。他にはない。そもそも死刑存置国は少数だけど、最後の最後に死刑囚に耐え難い苦痛を与えているとの見方が強い絞首刑を採用する国はさらに少ない。

 そろそろ紙幅がない。でも最後に、どうしても書いておかねばならないことがある。もう少し正確に書けば、どうしても書かねばならない事態が起きた。
「現在の麻原は訴訟能力を失っている可能性がある」との僕の主張を、ジャーナリストの青沼陽一郎が、『諸君!』(文藝春秋)二〇〇五年三月号で「思考停止しているのは世界ではなくあなたの方だ」とのタイトルで、四ページにわたって批判している。
 そもそもはこの連載一回目で、僕は彼を名指しで批判した。だから今回はその返礼というところだろう。その意味では予期しない批判ではない。むしろ待っていた。特に青沼は、麻原法廷も含めて多くの信者たちの法廷に精力的に通い、そのルポを雑誌媒体や書籍などで発表してきた。いわばオウムを包囲する世相形成に大きな役割を果たしたジャーナリストの一人だ。だから建設的に論争したい。この連載にとっても重要なポイントだ。
 ただし論争ならば論理的であることが前提だ。感情的な論争はしたくない。青沼の批判文には、「恐れ入る」や「論理の出鱈目さに鳥肌が立った」「それこそ卑怯だ」など、主観的な常套句があまりに多い。「おまえの母ちゃんでべそ」と言い返したくなる。このレベルで論争はしたくないし、すべきではない。
 前提を互いに共有することは、論争を建設的に進めるためには重要だ。でも「思考停止しているのは世界ではなくあなたの方だ」において青沼は、「刑事裁判における精神鑑定とは、被告人の責任能力を争点として、犯行時の精神状況を鑑定するものをいう。あくまで、犯行時の精神状況もしくは心理状態が問題なのだ。ところが、彼(森=引用者註)によると、判決時に法廷で見た被告人の様子が『壊れている』から、精神鑑定を施すべきとする。その時点で、まず事実誤認があり、彼の論旨は壊れている」と書いている。ここから明らかになることは、刑法における責任能力と刑事訴訟法における訴訟能力とを、どうやら青沼は混同しているということだ。

 刑法第三九条(心神喪失及び心神耗弱)
 心神喪失者の行為は、罰しない。
 2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

 刑事訴訟法第三一四条の1
 被告人が心神喪失の状態に在るときは、検察官及び弁護人の意見を聴き、決定で、その状態の続いている間公判手続を停止しなければならない。(後略)

 僕が問題にしている訴訟能力は、裁判で問題となっている重要な事柄の利害を認識・判断し、それをふまえて弁護人と意思疎通できる能力だ。犯罪の処罰の対象とできる責任能力や、刑罰を執行する条件である受刑能力とは違う。刑事訴訟法三一四条であって、刑法三九条ではない。麻原には犯行時における責任能力がなかった可能性があるなど、僕はまったく思ってもいないし書いてもいない。判決傍聴後に朝日新聞に書いたコラムでは、「犯行時の責任能力の有無ではなく、公判が維持できるかどうかの判断くらいはすべきだった」と書いている。このセンテンスは青沼も引用している。引用したうえで、「これまた先程の精神鑑定の論旨と食い違って、どこにスタンスがあるのか見えない」と書いている。青沼が明らかに僕の「先程の精神鑑定の論旨」の解釈を間違えているのだから、食い違うことは当たり前だ。
 この批判文で青沼は、判決公判の際に麻原が椅子からすぐに立たなかった状況を描写して、「事態の展開を把握できていたことを示してしまったのである」と書いている。つまり麻原の今の状態は、精神疾患を装った詐病であると断定している。
 ならば僕も断定する。麻原の現在の精神状態は絶対に普通ではないと。
 とにかく論戦をするのなら、同じ誌上ですることが筋だ。そう考えた僕は、『諸君!』編集部に連絡したが、返答は「原稿を掲載するとの確約はできない。(原稿を)吟味してから決定する」とのことだった。それはそれである意味でもっともかもしれないが、『諸君!』編集部から指定された次号の締め切りまでに時間の余裕がない。こちらに書くかあちらに書くか、結論は保留のまま、今回は時間切れだ。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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