28 生殺

(二〇〇七年五月号)

 早川紀代秀からの手紙は、三枚の便箋に、近況や麻原裁判についての感想などが綴られていた。その一部を引用する。

 最新の「A3」で話題にしておられます二冊の本のうち、『黄泉の犬』は知人が貸してくれましたので私も読みました。言われてみれば、水俣病やその関連について、もっと早く気づいてもよかったはずなのですが、教団にいるときはもちろん、逮捕されてからも、まったく思いもよらないことでした。
 もちろん本人からそのようなことを聞かされたこともありません。水俣病のこともそうですが、お兄さんを教祖とすることを考えていた時期もあったと知って、これも驚きました。
 87年の富士でのエアータイトサマディのときも、ご両親は来られましたがお兄さんは来られませんでしたし、お兄さんのことはまったく話題にされたことがありませんでしたから。
 この他、私の個人的なことですが、私の名前が二カ所出てくるのですが、そのどちらも不本意なもので、その点は残念に思いました。いずれも藤原新也さんの責任ではないのですけれどね。
 ひとつは50ページの「早川ノート」というところです。これは「岐部ノート」の誤りです。警察が誤ってマスコミに流したのが原因のようですが、警察もその後、訂正をしてくれません。
 もうひとつは、75ページのお兄さんの話で「早川という男が教団に入ってきて智津夫の態度が急激に変わった」というところ。そんなことはありません。私にはそこまでの影響力はありません。

 エアータイトサマディにおけるサマディとは、サンスクリット語で「死の状態」を意味する。この場合は酸素の消費量を極端に減少させる(エアータイト)修行を示し、具体的には中に水を入れた水槽の中で長時間を過ごすパフォーマンスだ(早川はこの手紙で八七年と書いているが、富士山総本部道場が建設されたのは八八年だから、この箇所は彼の記憶違いだと思われる)。早川が名前を挙げた岐部とは、地下鉄サリン事件が発生した時点において教団防衛庁長官だった岐部哲也のことだ。サリン事件後に建造物侵入罪で逮捕された岐部は、懲役一年の実刑判決を受けた後に出所し、その後は脱会していたが、警察庁長官狙撃事件に関与していたとして二〇〇四年に再び逮捕され、結局は証拠不十分で不起訴となっている。
 地下鉄サリン事件が起きた直後の一九九五年四月に発売された『文藝春秋』五月号に、早川ノートなる極秘メモを警察筋から入手したとする白川直が、オウムは十一月に日本国を相手に大規模な戦争を仕掛ける予定だったとのスクープ記事を寄稿している。

 現在、全国各地のオウム関連施設の家宅捜索によって二千点余りの資料やフロッピーディスクが押収されているが、
「家宅捜索で発見された大量の証拠品の中でも群を抜く超一級の証拠品」
 と警視庁が重大な関心を寄せる〝宝物〟がある。
 見かけは、ごく普通の市販のノートである。しかし、警視庁最高幹部の一人が、
「オウム真理教が狙っていた究極の目的を解明するに足る証拠品だ」
 とまで語る押収品なのである。数十ページに及ぶこのノートは、警視庁首脳部のあいだでは、
「早川ノート」
 と呼ばれている。(中略)警察庁首脳部は、この「早川ノート」などを元に、オウム真理教に対する内乱予備罪適用の検討に入り、ただちに検察当局とも打ち合わせに入った。「早川ノート」の内容はそれほどに衝撃的だった。(中略)この証拠品は、オウム真理教側が繰り返し主張しているデマやデッチあげでは断じてない。紛れもなく、教団の最高幹部が記述し所持していたものである。

 と記したうえで白川は、複数の早川ノートの記述を引用しながら、

 早川ノートは、最も戦慄すべき字句で終わっている。
 〈九五年 十一月→戦争〉
 やはりオウム真理教は、日本国内でのクーデターもしくは内戦を計画していたのだろうか。しかし、無法集団の末路はすでに見えている。このカルト集団の崩壊は、ドロドロした内部抗争によって引き起こされるのかもしれない。

 と記事を結んでいる。このときはテレビのワイドショーも含めて多くのメディアが、このメモの存在を大きく報じている。それはそうだ。もしそんな計画が本当にあったのなら、これはテロの域を超えて明らかに内乱だ。メモを書いたのが早川であるということも、メモの信憑性に大きな必然性を与えていた。
 なぜなら世代的には全共闘世代に属する早川は、逮捕された幹部の中では唯一人、グルである麻原より年長だ。学生時代には過激なセクトに所属していて、テロや武装計画などの様々なノウハウを麻原に伝授していたとの説も、この時期の多くのメディアが喧伝していた。
 八六年にオウムに入信する前の早川の経歴は、神戸大学農学部を卒業してから大阪府立大学大学院緑地計画工学コース修士課程に進み、これを修了してから大手ゼネコンである鴻池組に入社している。過激なセクトに所属してテロや武装化計画にも精通していたと想定される男のコースとしては、(絶対にありえないとまでは言わないが)少なからず無理がある。
 メディアが早川を「闇の世界に通じた危険な指南役」としたもうひとつの根拠は、九〇年二月の衆院選に大敗して麻原が教団の武装化(ヴァジラヤーナ路線)を公言するようになったとされる時期に、頻繁にロシアへの行き来をくりかえしていたからだ。実際にロシアでは他の信者とともに射撃ツアーなどに何度も参加していた早川は、軍用ライフルであるAK(カラシニコフ)を購入したこともある。九一年にロシアの首相代行を務めたオレグ・ロボフとは、何度も接触している。つまりオウムの一連の犯罪の陰にはロシアがあり、早川はその仲介役であるとの構図だ。ただし地下鉄サリン事件の際に、早川は日本にいない。その数日前にロシアに向かっている。
 一橋文哉が書いた『オウム帝国の正体』(新潮文庫)には、以下のような記述がある。

 オウム事件の真相を解明する鍵を、私は早川、村井、上祐という三人の最高幹部による権力闘争の中に見出そうと考えている。中でも地下鉄サリン事件以前の教団膨張期、即ち麻原の妄想がどんどん広がり、それに伴って教団の勢力とハルマゲドンが拡大していった時期にあって、〝最大の功労者〟は早川であった、と言っていいだろう。
 彼は当時、教団の実質ナンバー2として活躍していたし、教団と闇社会が交錯する地点には、必ずと言っていいほど顔を出している。(中略)
 早川が教団に引っ張ってきたメンバーは、不動産から殺人兵器まで資材を調達するプロをはじめ、信者の獲得や煽動、まとめ役の第一人者、闇の世界に精通し、多彩な人脈を持っている者、出所不明の多額の資金を集めて来る者……など、いずれも〝百戦錬磨〟の強者ばかりと言っていいだろう。
 この早川グループの面々は、リーダーの早川同様、地下鉄サリン事件などの現場には決して顔を見せず、松本、地下鉄両サリン事件の発生直後、二回に分かれて大量脱会している。(中略)こうした事実を見ると、早川がオウムの〝裏の司令官〟と呼ばれ、どこかの国の工作員だった、と疑われるのも無理はない。

 早川が統括する建設省に所属していた中田清秀は、一橋が「闇の世界に精通し」「〝百戦錬磨〟の強者」と形容する信者の筆頭だ。出家前は山口組系暴力団の組長だったという異色の経歴を持つ中田は、サリン事件直後のメディアで、「オウムと裏社会との接点」とか「オウム裏ワークの首謀者」などと何度も取り上げられていた。

 一九九五年四月十三日、生放送のワイドショー出演後に、脱会信者に対する恐喝容疑で中田は逮捕される。このときは結局のところ不起訴となるが、そのすぐあとに今度は詐欺未遂容疑という微罪で再び逮捕された中田は、懲役一年執行猶予三年の判決を受ける。警察としては、オウムと闇世界との橋渡し役などとメディアで大きく報道された中田を、とにかく逮捕しないわけにはゆかなかったというところだろう。
 詐欺未遂はともかくとして、オウムの起こした一連の凶悪事件に、中田はほとんど関与していない。釈放後に脱会した中田は、岐阜で民宿を経営しようとしたが激しい住民運動に遭ってこれをあきらめて、その後は地元の名古屋で洋服リフォームの店を経営したりしている。
 その中田と名古屋で会ったのは、『A2』撮影時の二〇〇〇年だった。一緒に出家していた妻と二人の息子たち(彼らも中田とともに脱会した)と会食をした。中田が経営していた洋服リフォーム店のすぐ傍にある和風割烹だった。オウムの施設の中で子供時代を過ごした二人の息子は口数が少なく(この時点でどちらも成人していた)、日本酒をぐいぐいと水のように飲んでいた。僕も少し酔いながら(体調を悪くしていた中田は一滴も飲まなかった)、「中田さんは早川さんの側近として、オウムの裏ワークや謀議などを任されていたとの説もありますね」と質問した。
「側近? 早川さんの? とんでもない。わしは下っ端です。確かに組にいたから、事情に通じている場合には使われたが、謀議の中心などとんでもない」
 あっさりと僕の疑問を否定した中田は、虚空を仰ぐようにしばらく沈黙してから、ふと視線を向けてきた。
「……森さんにお訊きしたいのだが」
「はい」
「どうして事件が起きたと考えていますか」
 訊かれて僕は絶句した。その質問に答えられるのなら、たぶん僕はこの場にいない。だから「中田さんはどうお考えですか」と訊き返した。
「……わからんのです」
 もう一度長い間を置いてから、中田は低くつぶやいた。まさしく絞りだすような呻き声だった。妻と二人の息子は押し黙ったまま、じっと下を向いて箸を進めている。
「……事件後にわしは別件でパクられました」
 中田は言った。
「でもすぐに釈放された。マスコミではいろいろオウムの実力者のように言われたけれど、さっきも言ったように実は末端の信者です。事件のことなど何もわからない。最初は何かの間違いだと思っていました。オウムが大量殺人などありえない。ずっとそう思っていました。それから今日まで、知っているサマナはもちろん、答えてくれそうな人には皆訊きました。なぜこんな事件を起こしたのかと。家族ともども一生を捧げようと思った教団が、どうしてこんな事件を起こしてしまったのか、その理由をどうしても知りたかった。しかし誰も答えられない。隠しているわけじゃない。みな、本当にわからんのです。確かに今思うと、わしの上司だった早川さんは、しょっちゅうロシアに行ったりして、いろいろ奇妙な動きをしていた。でもそれだって、組織の中ではそんなこともあるだろうなというレベルです。サリンを作って無差別大量殺人を計画するなんて、わしが知っている教団とはどうしても結びつかんのです」
 言ってから中田は激しく咳き込んだ。慢性的に体調が悪い彼は、この日も昼は病院で点滴を打ってもらってきたという。僕は無言だった。何も言えなかった。何を言えばよいのかわからなかった。中田の妻と二人の息子も、じっと沈黙し続けていた。

「オウムが、国家転覆を狙うような団体に変貌した陰に、早川の存在がある」(公安当局)ことは間違いない。彼が国家権力への反感と、教団発展のための利権獲得、ひいては自分の理想とか夢、さらには野望の達成に意欲を燃やしたことが教団の暴走に拍車をかけたのではないか。
 こんな早川が麻原と初めて会ったのは、阿含宗の信者時代であった、とされる。
 麻原が、八四年にオウムの前身組織「オウム神仙の会」を設立する前に阿含宗にいたことは、捜査当局も確認している。(中略)ところが、麻原が阿含宗を辞めると、早川も後を追うように退会。麻原が「神仙の会」を結成すると早川も入会し、八七年に同会が「オウム」と改称した時に、早川も妻と共に出家し、麻原の側近になっている。
 二人をよく知る元信者は、こう語る。
「麻原が宗教ビジネスを思いつく天才なら、早川はそれを具体的にきちんと実行する名参謀。二人がオウムを作ったんです」
『オウム帝国の正体』一橋文哉

 麻原と早川は阿含宗時代に会っていると一橋は書いているが、二〇〇五年三月に上梓された『私にとってオウムとは何だったのか』で早川自身は、麻原との初めての出会いについて、以下のように記述している。

 精神世界に興味を持ち、本屋のメディテーションコーナーへ行っては、瞑想やヨーガの本を読みあさっていた私は、八六年二月ごろ、麻原彰晃の『超能力「秘密の開発法」』(大和出版)という本に出会いました。(中略)
 このセミナー(八六年六月に丹沢で行われたセミナー=引用者註)で初めて麻原に会いました。会ったときの印象は、質素ななかにも立派で品があり、「この人ならいいな」と思いました。

 このときのセミナーで、早川は麻原にシャクティパットを与えられる。早川の頭部に触れた麻原は、「ウム、これは菩薩タイプだな、苦労するぞ」と言ったとのエピソードが記述されている。

 シャクティパット中は特に著しい神秘体験はありませんでしたが、身体が熱くなり、エネルギーが額から入ってくるのがわかりました。終わってから、「スワジスターナチャクラが開いていますね。クンダリニーがスワジまで来ていました。女性にモテルでしょう」と言われました。

 ヨーガや仏教に興味を示す者にとって、「菩薩タイプだな」との言葉が最高の殺し文句だろうとは僕にも想像がつく。「女性にモテルでしょう」はまた別な意味で古典的な殺し文句だ。要するに「何か悩みごとがおありのようですね」と声をかける街の辻占いレベル。いずれにせよ、もしもこの記述が正しいのなら、阿含宗時代に二人は会っていたとする一橋の主張の根拠は何だろう。
 地下鉄サリン事件が起きた一九九五年に発売された『宝島30』(十二月号)で、岩上安身も「早川ノート」については言及している。この記事の中で岩上は、九六年の三月までに警視庁は捜査を打ち切る方針であるとの情報を前提に、「オウムのやろうとしていたことの全容を解明しようとすると、政界や、他の宗教団体や、闇社会や、第三国との関わりにまで踏み込まざるをえなくなる。現場の捜査にたずさわる者とすれば、そうしたタブーには触れたくない。できるならば、見なかった、聞かなかった、知らなかったことにしてしまいたい」と捜査関係者が語ったと記述している。

「95 11月→戦争」――。
 この言葉は、押収された早川紀代秀の手帳・ノート(いわゆる「早川ノート」あるいは「早川メモ」)に書きつけられていた言葉である。この言葉をふくめ、『文藝春秋』5月号の白川直氏のスクープによって明らかにされた「早川ノート」の断片は、一大センセーションを巻き起こし、一時期、マスメディアはこの「早川ノート」をめぐって狂奔することとなった。しかし、5月16日に麻原が、さらに引き続いて主要幹部がのきなみ逮捕されてしまうと、彼らの供述と裁判の行方に関心が移ってしまった。いつのまにか「早川ノート」とそこに書かれていた内容については、置き去りにされ、今ではすっかり忘れ去られたかのような感がある。
 しかし、いま再び、この「早川ノート」に書かれていた「11月↓戦争」について、私たちは思い起こす必要がある。もし、オウムへの強制捜査が半年でも遅れたとしたならば、まさに今月、私たちは、頭上からサリンをバラまかれ、皆殺しの憂き目にあっていたかもしれないのだから――。

 岩上は「早川ノート」に記された一つひとつの言葉を丹念に精査しながら、「核弾頭いくらか」のメモは、「機動班いくらか」の誤読であると推測している。たとえ核弾頭ではないにせよ、機動班(ロシアの機動部隊の一部を傭兵として動員することと岩上は記述している)の文字は穏やかじゃない。補足するが、麻原の指示で早川たちがウラン鉱を探していたことは事実だ。
 いずれにせよ、「早川ノート」をめぐる真偽については、当人である早川紀代秀に会って確認しなくてはならない。それについては次号にする。今回は、前号で僕が書いた麻原と水俣病の記述を読んだ林泰男からの最新の手紙についても触れておきたい。その一部を以下に要約する。

 水俣病の話がとても衝撃的でした。
「やっぱりそんなことがあったんだなあ」と納得する面もあります。……変に思われるかもしれませんが、無性に胸が痛みます。……哀しいですね。
 一度、松本氏と弟子十数人と共に、松本氏の実家に行ったことがあるのですが、そのときにみんなの食事用にハマグリが用意されていたんです。バケツに半分くらいあったように思います。
 それを知った彼は、ハマグリだけは料理させずに、そのまま(生きたまま)貰い受け、帰りの道すがらに、近くの海にばら撒きました(実際にばら撒いたのは私たち弟子ですが)。
 そのときは、「生殺をさせないためにそうしたのだろう」と思っていました。しかし(「A3」にも毎日寿司を食べに行っていた船橋時代のエピソードが載っていましたが)寿司を食べに行くと、彼は目の前で生殺させることになる赤貝や帆立貝などの貝類も注文することがありました。
 ……そんなことが、走馬灯のように次々と思い浮かびました。

 生と死。人間の根源。そして宗教の実相。これについての麻原彰晃の挙動はとても矛盾に満ちている。例えば早川の『私にとってオウムとは何だったのか』には、次のような記述がある。

 九三年の初めごろから、グル麻原は核兵器を開発する目的からウラン鉱が入手できないか検討を始め、ガイガーカウンターを持って、ウラン鉱脈があるかもしれない白馬周辺を探索したりしていました。
 そんな折、井上がオーストラリアには高濃度のウランがあるらしいという情報をグル麻原に入れたところ、九三年四月、私と井上がオーストラリアでウラン鉱脈をもつ土地を探しに行くことになりました。

 こうして早川は井上らとともに、パース近郊の牧場にウラン鉱脈があるらしいことを突き止め、そこを買収する。この牧場は結局また手放すことになるのだが、購入したこの年は雨が少なくて牧草が充分に育たないため羊が全滅する可能性があるとの判断で、行政府が年老いた羊一〇〇〇頭ばかりを殺すようにと命じてきた。ところが麻原はこれに反駁した。

「それはダメだ。羊を殺す必要はない。そんなことはできない。何の悪業も犯していないものをどうして殺すことができようか。雨は降るよ」と言われました。このグルの言葉に私は面くらうとともに、「人間の大量ポアを意図されたグルであっても、悪業を積んでいないものは羊でもポアされないのだ」と知って妙に感心したのを覚えています。
 その後も役所から再三羊を殺すようにと言ってきましたが、グルは頑として受けつけませんでした。

 念を押しておかなければならないが、九三年のこの時期にはすでに、坂本弁護士一家はポアの名のもとに殺害されている。信者の田口修二もやはり教団内で殺害されている。早川はこの二つの事件に関与している。このままでは悪業を為す魂をよりよい世界に転生させるためとの説明を受けながらも、当然ながら人を殺めたとの葛藤や煩悶は凄まじかった。だからこそ、「何の悪業も犯していない」羊を頑として殺そうとしない麻原の姿に、「やはり思いつきで命を奪うような人ではない」と安堵したであろうことは想像できる。

 赤貝や帆立貝の寿司を食べる。
 ハマグリは海に放す。
 羊は殺さない。
 教団にとって障害となる人は殺す。

 ……死と生をめぐるこの脈絡のないエピソードの羅列を眺めながら、僕も激しく混乱する。どう考えても座標の軸がまったくない。行き当たりばったりにしても度が過ぎる。普通なら人はこれほどに、矛盾を抱きかかえることはできない。その意味では確かに規格外だ。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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