20 船橋

(二〇〇六年九月号)

 船橋市役所の近くにある島寿司までは、JR船橋駅から車で十分ほど。着く前には何となく小さな店を想像していたけれど、実際には料亭のような門構えの大きな店だった。
 引き戸を開ければテーブル席がいくつも並び、奥のカウンター越しに大きな調理場が見えた。職人たちが忙しそうに仕込みの真っ最中だ。昼過ぎの時間帯だから客の姿はない。仲居に二階に通される。二十畳ほどの宴会場だ。
 十分ほど待った頃、階下で「お二階です」と仲居の声がする。階段を駆け上がる足音がしたと思ったら襖が開き、店主の中島英夫が軽やかな足取りで入ってきた。二十数年前の麻原彰晃が足繁く通っていた寿司屋の店主。その年月の経過から何となく年配の男性を想像していたが、現れた中島はとても若々しい。今年(二〇〇六年)で六十五歳になるはずだが、見た目は五十代前半だ。
「彼が二十五歳のときから知っていますよ。昭和五十年代。隣のマンションに住んでいましたから」
 座ると同時に中島は言った。麻原彰晃がここに住んでいた時期については、当然ながら僕も知っている。それよりも中島が麻原を「彼」と呼んだことが、二人のあいだのかつての距離と、それからの年月を微妙に表しているようで、僕にとっては興味深かった。
 後に麻原彰晃を名乗る松本智津夫は一九五五年の三月生まれで、五六年五月生まれの僕の(学年でいえば)二つ上。彼が二十五歳ということは一九八〇年。その頃の僕は、大学を五年かけて卒業して、結局は就職を選択せずに、小さな新劇の劇団の研究生になっていた。今で言えばフリーターだ。
 その前はどうだっただろう。昭和四十年代後半。僕は高校生。長嶋茂雄が現役を引退した。韓国の大統領候補だった金大中が日本で拉致された。沖縄が返還された。札幌オリンピックがあった。日中国交が正常化されて上野動物園にパンダが来た。連合赤軍によるあさま山荘事件があった。矢吹丈がリングで真っ白に燃え尽きた。万博が開催されて三波春夫が「こんにちは こんにちは 世界のひとが……」と歌ったとき、僕は中学二年生。そして麻原の名前をまだ持っていなかった松本智津夫は高校一年生。
 もっと前に遡れば何があっただろう。吉展ちゃん誘拐事件で世間は大騒ぎ。ベトナムで北爆が始まった。怪獣映画に夢中になっていたのはこの頃だ。東海道新幹線が開通し、ビートルズが初めて来日した。時代は高度経済成長期と言われていたけれど、子供だった僕にはその実感はない。ただ、何となく周囲が騒然としていたことを覚えている。テレビ画面は白黒が当たり前だった。学校では肝油を飲まされた。給食には脱脂粉乳が出た。昨日よりも今日、そして今日よりも明日、少しずつ身の周りが豊かになってゆく。それが当たり前の時代だった。

 家は借家の平屋で、畳仕事をするための土間と、ほかに二間があるだけだった。屋根裏にも小さな部屋があったが、そこが智津夫の勉強部屋になった。
 そんな貧しい家でありながら、智津夫が三歳のとき、父親はテレビを買った。土地の言葉で新しいもの好きを、少々皮肉をこめて「わさもん」という。村でいちばん最初にテレビを買い込んだのだ。
 まだテレビ放送が白黒しかなかった時代、智津夫が好んで見たのは「エイトマン」や「あんみつ姫」だった。兄たちがチャンネルを変えようとしても、智津夫はチャンネルを握ったままけっして変えさせようとしなかった。
『麻原彰晃の誕生』髙山文彦

『あんみつ姫』の記憶はないが、『エイトマン』なら何となく覚えている。たぶん麻原もそのあとに、『あしたのジョー』や『巨人の星』に夢中になっていたはずだ。一審がまだ続いている時期に、拘置所で体操の時間に投球フォームの真似をしながら、「大リーグボール3号だ」と言ったという噂がある(おそらくは事実だろう)。裁判所の依頼で精神鑑定を行った西山詮医師は、このときの挙動を、彼に訴訟能力があることの実例のひとつに挙げている(書きながらあらためて不思議に思うのだが、なぜこの挙動が、正常な意識を保っていることの実証になるのだろう)。星飛雄馬が巨人の星を目指すあの漫画を夢中になって読んでいた子供時代の麻原は、四十数年後の自分のそんな姿を、想像すらしなかっただろう。
 盲学校卒業後に二年間の迷走の時期を経て一九七七年に再び上京した智津夫は、通い始めた渋谷の代々木ゼミナールで、千葉大教育学部を目指す受験生だった石井知子に出会っている。
 この時代の智津夫は練馬区貫井のアパートに暮らしていたが、やがて知子は妊娠し、二人は入籍する。七八年一月。智津夫は二十二歳。そして知子は二十歳だった。二人は千葉県船橋市湊町二丁目のマンションで新婚生活を始める。予備校はもうやめていた。二人の部屋のベランダには、「松本鍼灸院」と記された小さな看板がかけられていた。

「ベランダですか」
 メモを取りながら僕は言う。
「看板を出すなら、普通はマンションの外壁に付けますよね」
「私もそう思ったけどね。とにかく目立たない看板でした。通りからよく見えないんだから意味がない。でも家の隣だからね。こんなところに鍼灸院ができたのかと思っていたら、一週間くらいしてからかな、彼が寿司を食べに来た。二十何年前でしょ。このあたりに飲食店はほとんどなかったんですよ。だからね、仕事が終わるとウチへ来て寿司を食べた。いつも決まってカウンターでビール一本を飲んで、それから上寿司を一人前。毎回同じ」
「どのくらいの頻度ですか」
「ほとんど毎日。週のうち五日は来ていましたね」
 通い始めた頃の智津夫は、終始無言で食べていたという。最初に声をかけたのは中島のほうだ。すると智津夫も、それなりに闊達に受け答えをするようになった。この時期の彼は、知子との新婚生活を始めたばかりの頃のはずだ。ところが島寿司には毎夜のように、常に一人で現れていた。
「知ちゃんね、可愛い子だったよ。ぽちゃっとしていてね、本当に可愛い子って感じです」
「一緒に食べに来たりはしないんですか」
「知ちゃんは来ないんですよ」
「じゃあ彼女は、夕食はどうしていたんでしょう?」
「どうなのかなあ。たまにね、寿司を届けてくれって彼に言われて、隣まで届けたことがありましたよ。そうするとね、知ちゃんは部屋に一人でいましたよ」
「自分だけ食べに来るって不思議ですね。しかも新婚なのに」
「だからね、冷たいなと思うときもありましたね。あの頃はまだ籍は入ってなかったかもしれないけれど」
「彼はいつもビール一本ですか」
「毎回一本だけ。それもね、じっくり、本当に美味しそうに飲むんです。で、いろいろ話しているうちに、私の女房が大分の出身だって話になったら、『僕も九州なんですよ』みたいな感じで、急に親しくなりましたね。私をいつも大将って呼ぶんですよ。その頃からよくしゃべりだしてね。何ていうかな、上手いんですよ話し方が。急に言葉を速めたり、かと思うとゆっくりになったり」
「いわゆる緩急ですね」
「そう。私みたいに平坦じゃないんです。それでね、他にお客さんがいると、ちょっと気を引くような、わざと聞こえるような言い方で行政批判をするんです。今の船橋市の行政はなっていないとかね。そういうことを、他のお客さんがいるときには必ず言うんですよ。行政がこれでは、もう船橋に未来はないとかね。そういう反骨精神というのかな、それは今思うとずいぶんありましたね。真剣なんです。それはわかりました。真剣にしゃべっていましたよ」
 やがて鍼灸院に人が集まり始める。ただし営業時間ではない。営業が終わってからだ。少ないときは五、六人。多いときは十人近くの若者が、毎夜、島寿司の隣のマンションの三階に集まりだした。
「ビール一本飲んで上寿司一人前食べ終わる頃に、知ちゃんが迎えに来るんですよ。控え目な子でね。そっと入ってくるんです。いつも決まって、カウンターの、入って二番目の席に彼は座るんです。だから後ろが見えないでしょ。で私が、『先生、知ちゃん来たよ』って言うと、知ちゃんが『皆さん、集まりました』なんて。そうすると、のそのそって帰ってゆく。その頃は普通に歩いていましたね」
「普通? ああ、目のことですか」
「ええ。どっちだったかな、ちょっと視力が弱かったようだけど、でも一人でドアも開けて、階段なんかも普通に上ったり下りたりしていました」
「本人は目のことを何か言っていました?」
「聞いてませんね」
「昔話は?」
「いや、昔のこともほとんど話さなかったですね。毎晩たくさん集まって何をやっているんですかって訊いたら、『予備校時代の仲間で集まって世直しの会を作りました』って言うんです。セミナーって言い方もしたかな。今は鍼灸院をやっているけれど、将来は自分なりの夢を持っているんだって。それでね、私に『大将も来ない?』って誘うわけ。でもその時間帯はうちも営業時間だからね。そう言って断ると、『世直しの会でセミナーを受ければ、こんな苦労しなくても金儲けができますよ』って言うわけですよ。店に来るたびにですよ。かなりしつこく誘われました。そういう時期がしばらく続いたかな。突然来なくなった。で、あれ? と思ったら、鍼灸院たたんでましたね」
 そこまで話してから、中島はふっと息を継ぐ。何かを思い出しているかのように視線が宙を泳ぐ。「お時間のほうは大丈夫ですか」と訊ねれば、「いやいや、大丈夫です」との答えが返ってきた。
「それから少し経ってから、いきなりまたやってきた。運転手付きの車に乗って。それでね、以前は必ず上寿司一人前だったのに、そのときはウニとかアワビとかイクラとか、とにかく高い寿司ばかりを単品で次々に注文してね」
「ビールは?」
「ビールは昔と同じ一本だけ。それでね、会計のとき、『大将、前にも言ったけれど、人間頭を使うとこれだけ金儲けができるんだよ』って言いながら、胴巻きから帯封のついた札束を取り出して……」
「胴巻きですか」
「服装は普通のワイシャツにジャケットなんだけど、なぜか腹には胴巻き。髪はそのときは少し伸ばしていたかな。それこそ今の森さんくらい。それでね、今度は耳のツボで痩せる鍼灸院をまたこの近くで始めたって言ってましたね。それから何度か来ましたよ。来るたびにウニやアワビを単品で食べる。それがまた二年くらい。うちの女房もその鍼灸院に行きました。近所の奥さん方も行きました。ところが、女房とか奥さんたちに聞くと、要はダイエットのためには食べないことだって言うらしいですね。あとは自然食品の購入をやたらと勧めるとか」

 七八年九月、鍼灸院を閉めたあとの智津夫は、同じ船橋市に「亜細亜堂」という名の診療室兼漢方薬店を開く。この二カ月前に長女が誕生していた。ダイエットを前面に打ち出した亜細亜堂は、中島が語るように、近隣の女性たちが客となって相当に繁盛したようだ。
 この年の十二月、智津夫は船橋市新高根に二階建ての新居を購入する。二十三歳で一戸建てを所有したということになる。『麻原彰晃の誕生』によればこの家は、智津夫と知子の実父が半分ずつ所有権を分け合い、二千万円の抵当権が設定されていたという。
 八〇年七月。保険料の不正請求が発覚し、智津夫は六七〇万円の返還を国から求められて、亜細亜堂は閉店する。しかし翌八一年二月、智津夫は船橋市高根台に「BMA薬局」をオープンする。BMAの意味は、ブッダ・メシア・アソシエーション。この頃にヨーガも本格的に始めている。
 同時期に次女も生まれていた。地元のタウン誌などに何度も広告を打ち、漢方薬販売を主業務に、かなり手広く事業を展開する。
 広告が功を奏したのか、リウマチや神経痛などに劇的な薬効があると宣伝した「BMA薬局」のオリジナル漢方薬はかなり売れた。同時期に新宿の京王プラザホテルの会議室を定期的に借りて、薬の出張販売も始めていた。
 八二年六月、智津夫は警視庁保安二課に、薬事法違反の容疑で逮捕される。このとき二十七歳。予備校を中退しての結婚に始まって、かなり濃密な青年期だ。

「話を戻します。隣のマンションに彼が鍼灸院を開いていた頃、どんな人物だと中島さんは思っていましたか」
「金儲けの話はよくしましたね」
「多くの若者たちが毎夜のように彼のところに集まってきた。その理由は何でしょう」
「実際に話が上手いんです。もそもそって低い声でしゃべるのだけれど、何となく引き込まれるというかね、そんな天性の魅力は確かにありましたね。それでね、バカじゃないです。話に説得力があるんです。何となくね、変わった男だなあって思っていましたけれど」
「変わった男という印象を、もう少し具体的に説明してもらえますか」
 僕のこの質問に、それまで闊達にしゃべっていた中島は一瞬だけ沈黙した。言葉を探すように首をひねる。少ししてから、「その頃はあまり深く考えなかったですねえ。でも今振り返ると……」と言ってから一拍を置き、「やっぱりねえ、魔力というか、引き込まれそうなものがありましたねえ」とつぶやいた。
「とにかく何度もその世直しのセミナーに参加しないかって誘われましてね。ちょうど店の営業時間だから店を放り出しては行けないし。でもそんな事情がなければ、ちょっと覗いていたかもしれないですね」
「宗教的な話は?」
「しなかったですね。最初に私が無宗教だし信仰って嫌いなんだよなんて話をしましたからね。とにかくここでは宗教じゃなくて金儲けの話が多かったなあ。それと他の客がいるときには行政批判」
「冗談や軽口などはどうですか」
「そんなに言わなかったね。でも嫌な印象を受けるとか、そういうあれはないですね。とにかく話は上手い。あんな顔してるのに」
「あんな顔だからかな。ニコッと笑うとそれが魅力的だったと言う人がいますけれど」
「そうなんですよ。前はもっと痩せていましたね。それこそ、ちょうど今の森さんの感じ」
「体格がですか」
「そうです。鍼灸院をやめてから五、六年後に来たときには、ちょうど森さんみたいな髪形で」
「身長は?」
「身長もちょうど森さんくらい」
 思わず隣に座る編集担当の佐藤信夫に視線を送る。目が合えば参ったなあと笑いかけるつもりだったが、でも生真面目な表情のまま佐藤は、一心にメモを取っている。僕は中島に視線を戻す。
「……地下鉄サリン事件が起きたとき、あの麻原彰晃が隣の鍼灸院にいた松本智津夫だってすぐにわかりましたか」
「その前に選挙に出ましたよね。テレビか何かで観て、そのときにわかりました。ずいぶんあれだな、偉くなったんだな……という感じで。世直しの会とかセミナーとか、そんなことはやっていましたからね。やっぱりなあという感じもありましたけれど。サリン事件のときはね、やっぱり何というか、……そんな、世の中を転覆させるようなことをしなければ、教祖様でハーレムみたいな感じで、楽に生活できたのにねえ。やっぱり錯覚を起こしちゃったのかなという、そういう印象を持ちましたね。でもねえ、坂本弁護士事件とかね、何であんなひどいことをやっちゃうのかなって。それは思いました。どうしてこんなに変わってしまうのかなって」
 ほぼ聞くことは聞いた。僕はメモ帳を閉じる。「当時はマスコミがずいぶん来たでしょうね」と場つなぎのつもりで言うと、「来ましたねえ」と中島はにっこりと笑う。
「でもまあ、言うことはいつも同じです」
 佐藤が卓の上のレコーダーに手を伸ばす。スイッチを切るためだ。その様子をぼんやりと眺めながら、「……何であんなに変わっちゃったんだろうな」と、中島はもう一度、小声で独り言のようにつぶやいた。
「隣にいたときはね、そんな殺人を犯すような、国家を転覆させるような、そんなことをするような印象はなかったんですよ、はっきり言って。やっぱり周りでしょうね。いろんな人たちが集まってきて、自分の人生に錯覚を起こしちゃったんでしょうね。でもそういう要素はあったのかな。普通は札束なんて見せないでしょう。わざわざ店まで来てね。見方を変えたら子供っぽいというか、サリン事件にしてもね、何だかとても子供っぽいんですよね。……だから、知ちゃんのことを思うとね、本当にかわいそうで、すごくいい子だったんです。本当に可愛かった。あどけないというか。彼女と子供たちも被害者ですよね」
 中島の最後のこのつぶやきは、かつてマスコミが差し出したマイクの前では、決して語られなかった言葉だろう。あるいはもし中島が語っていたとしても、(特に最後の一言は)電波に乗ったり活字になったりすることは絶対になかったはずだ。だって加害と被害を明確に二分できなくなる。メディアはこれを嫌う。あるいはもっと正確に書けば、社会はこれを嫌う。だからメディアは四捨五入して整理整頓する。これはこっち。これはあっち。決して間には置かない。
 立ち上がる中島に、僕は上寿司を二つ作ってくれないかとお願いした。「当時と同じやつだね」と、中島はうなずいた。一階のテーブル席で、僕と佐藤は、二十数年前に麻原が毎夜のように食べていたという上寿司を食べた。
 同じ寿司を食べれば何らかの感傷がわくかもしれないとの思いがあった。でも(当たり前だけど)寿司は寿司だ。感傷や感慨なんてわくはずがない。
 二十数年前、今よりも十五キロは痩せていた僕は、池袋の四畳半一間のアパートに住んでいた。麻原が薬の出張販売のために通っていたという新宿西口で、劇団の仲間とよく飲み歩いていた。食べ終えて熱いお茶をすすりながら、その頃に西新宿の猥雑な裏通りで、彼と擦れ違うことがあったかもしれないな、と考える。
 会計を済ませて店の外に出る。その足で隣のマンションに向かう。エレベーターはない。狭くて薄暗い階段を三階まで上がる。各階に部屋は二つだけ。三〇一号室。金属製の扉が目の前にある。かつてここに彼は住んでいた。籍を入れたばかりの身重の妻がいた。この階段を何度も往復しながら、彼は何を思い、何を目指し、そして何を願っていたのだろう。僕は扉の前でしばらく立ち尽くす。今は別の誰かがここに住んでいる。別の生活がここにある。チャイムを押しても意味がない。階段を降りる。佐藤はずっと無言だった。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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