29 統制

(二〇〇七年六月号)

 二〇〇七年三月上旬、僕は所用があって岐阜県高山市にいた。ホテルをチェックアウトして、名古屋行きの特急に乗るために高山駅に向かう。今年は記録的な暖冬だけれど、この日の高山は、未明から激しい雪が降り続いていた。
 駅舎の待合室には大きなストーブが置かれていて、行き来する人の凍えた手足を温めていた。そのストーブから少し離れたベンチに僕は腰を下ろす。すぐ横には白い髭を生やした初老の男が、がっくりと項垂れるように座っていた。薄汚れたジャンパーを重ね着している。足元には日用品を入れているらしい黒ずんだ三つのレジ袋。ゴム長の履き口からも、レジ袋の端が見える(おそらく靴下代わりなのだろう)。上りの特急が来るまではまだ二十分ほど時間がある。僕はトイレに立った。四角い小さな窓から外が見える。雪は降り止む気配はない。風も強くなっている。
 ベンチに戻ると、先ほどの初老の男を取り囲むように、三人の駅員が立っていた。中腰になった一人が、男にしきりに話しかけている。
「ねえ、頼みますよ。みんなが困っているんです。臭いんですよ。だから、ね、このままでは私たちも困ります。営業妨害なんです」
 他の二人の駅員は、腕を組みながら険しい表情で、ベンチに座る男の頭頂部あたりに、じっと視線を落としている。僕はベンチの端に座り、駅員たちの説得をしばらく聞いていた。男は動かない。まさしく微動だにしない。俯いたまま、じっと床の一点を見つめている。
 暖を求めて男はここにいる。気まぐれで来たわけじゃない。ここは確かに駅舎だ。駅員たちはこの場所を管理する責任がある。でも男は誰にも迷惑をかけていない。そもそも臭くない。待合室には他に数人の列車待ちの客がいた。でも誰一人として苦情など言っていない。何よりも外はこの雪だ。風まで激しくなってきた。男は薄いジャンパー姿だ。外に追い出されたら凍え死ぬかもしれない。僕は足を進めた。駅員たちと男のあいだに割って入るつもりだった。
「ねえ、困ったな。あっちにもっと暖かい場所があるからさ。そっちなら気兼ねしなくて済むからさあ。頼むよ。ねえ、みんな迷惑しているんだよ」
 駅員の口調は少しずつぞんざいになってきた。でも「あっちにもっと暖かい場所がある」との言葉は、近づきかけていた僕の足を止めた。「あっち」とはどこだろう。もしかしたらこの駅舎の中に、男にとってはこの待合室よりも居心地がいい場所があるのかもしれない。ならばこの状況に介入することは、男にとっては余計なお世話になる。
 そのときふいに、男が顔を上げながら立ち上がった。意外なほどに彫りが深い。足元に置いていた三つのレジ袋をゆっくりと手に取るその表情は、まるで裁判にかけられた古代ギリシャの哲学者のように重々しく、そして哀しそうだった。三つのレジ袋を指先に下げながら、男はゆっくりと出口に歩を進めた。三人の駅員たちはやはり無言のまま、男の後ろ姿を見つめている。
 男は扉を開ける。雪が待合室に舞い込んできた。一瞬だけ身体を震わせてから、男は外へ出て行った。ゆっくりと街のほうへ歩いてゆく。ガラス窓越しに遠ざかる後ろ姿が見える。その肩や背中にあっというまに雪が降り積もる。駅員たちはやれやれというように顔を見合わせてから、「今日はしつこかったねえ」とか「寒いからなあ」とか言い合っている。
 白状しなくてはならない。男が扉を開けて外に出ようとしていたとき、僕はもう気づいていたはずだ。「あっち」などきっとない。いや仮にあったとしても、男をそこへ誘導しようとする気持ちなど、駅員たちにはまったくない。ただ男をこの場所から排除したいだけなのだ。でも何となく気づきながらも、僕は状況に介入しようとしなかった。
 汽車が来た。切符をポケットから出しながら、僕はもう一度駅舎の窓を振り返る。雪は横殴りになっている。男の姿はもうどこにもない。
 ……もちろんすべてがオウムから始まったわけではない。村落共同体的規範が強い日本社会は、昔から集団内異物に対しては、とても非寛容な側面がある。高山駅で僕が遭遇したような光景は、この社会では昔からあった。でも多くの人の危機意識を強く刺激した地下鉄サリン事件が、日本社会のこんな傾向に大きな拍車をかけたことは間違いない。
 言い換えればサリン事件は下り坂で背中を押した。それもいきなり。しかも強く。その後にどうなるかは明らかだ。
 公園や駅のベンチの多くに仕切りが入るようになったのは、ここ数年の傾向だ。あっというまに日本中に広がった。理由は明解だ。ベンチに寝転がるホームレス対策。つまり異物排除だ。

 街を歩けば、「特別警戒実施中」と記された掲示や表示を目にすることが、とても多くなった。「特別警戒」というフレーズが意味することは、日常的ではない警戒を要するということだ。ところが掲示や表示のほとんどは、昨日や今日に始まったわけではない。もう何年も前から貼り出されている場合もある。ならば非日常的な警戒をせねばならないほどの特別な状況が、なぜか常態化しているということになる。
 日常的に目にする非日常。あるいは慢性的な特別警戒。どちらにせよ明らかな論理矛盾だけど、ほとんどの人はこれに違和感を持っていない。「特別な警戒が必要な状況がずっと続いている」と、いつのまにか思い込んでいる。でもそれは事実ではない。日本における犯罪は、もう何十年も前から減少し続けている。特に殺人事件の発生件数は一九五四年をピークにして、最近は毎年のように戦後最少を更新している(二〇一一年度の殺人事件認知件数は一〇五一件で、やはり戦後最少を記録した)。
 ところが多くの人はこれを知らない。メディアが積極的には報じないからだ。なぜ報じないかといえば、危機を煽ることが視聴率や部数に直結することに、地下鉄サリン事件以降のメディアは気づいた(あるいは実感した)からだ。もちろんその傾向は以前からあった。でもメディアのこの市場原理が、オウム以降は剝きだしになった。
 実際に治安は悪化などしていないのに、メディアによって危機意識を煽られながら、多くの人は悪化していると思い込む。つまり現実と意識のあいだにギャップが生じる。このギャップを埋めるべく、捜査権力は無理をする。国策捜査は増え、かつてなら見過ごすレベルだった微罪を大きな罪に拡大し、さらには罪を作り上げる。つまり冤罪や誤認逮捕が多くなる。
 オウム事件翌年に薬害エイズ事件で東京地検特捜部に逮捕された故・安部英(元帝京大学副学長)は、HIV感染の危険性を把握できる立場にいなかった。問題にされた八五年当時、非加熱製剤によるHIV感染については世界中のエイズ研究者が予見できなかったことを、海外の多くの専門医や研究者たちが証言したが、その資料を検察は公判が始まってから何年も隠匿し続けていた。こうして安部は、非情で冷血な極悪人として日本中から指弾された。彼が検察とメディアによってどのように悪人に仕立て上げられていったかは、『安部英医師「薬害エイズ」事件の真実』(武藤春光・弘中惇一郎編著 現代人文社)など幾つかの書籍で取り上げられている。
 冤罪ではないけれど、一九九七年に神戸市で発生した児童連続殺傷(通称・酒鬼薔薇)事件や、一九九九年の光市母子殺害事件、二〇〇一年の附属池田小事件に、二〇〇四年の奈良小一女児殺害事件など、いずれも犯人のモンスター化が激しく進行した。例えば神戸児童連続殺傷事件について土井隆義筑波大学教授は、やはり同級生の頭部を切断したサレジオ学院高校事件(一九六九年)を比較の実例として挙げながら、メディアや社会の扱い方がまったく変わってしまったことを記述している。

 サレジオ学院高校事件について、当時の新聞の第一報は、「異常性は見られず、毛虫がケンカの原因?」との見出しで、「日ごろ悪ふざけをされていたことを思い出し、腹が立って持っていた登山ナイフで刺し殺した。夢中で首も切り落とした」との供述を紹介していました(朝日新聞1969年4月27日)。この事件については、その後の報道でも、加害少年を「普通の少年」と強調するものが目立っています。ところがもう一方の神戸事件を起こした少年については、(中略)ごく普通の子どもという顔の裏側に秘められた異常性を強調する新聞記事が目立っています。週刊誌でも、「先天的な脳障害の可能性」や「サイコパスの可能性」が指摘され、「未分化な性衝動」「性的サディズム」「直感像素質者」「行為障害」などといったように、彼をモンスター視する言葉が盛んに飛び交いました。
『人間失格?︱「罪」を犯した少年と社会をつなぐ』(日本図書センター)

 つまり地下鉄サリン事件以降、麻原という圧倒的な悪を目撃してしまったこの社会の悪を見つめる眼差しは、明らかに変質した。
 こうして景色が変わり法が変わり、システムが変わり人の意識が変わる。駅に行けば「不審物を見かけましたら」とのアナウンスがくどいほどにくりかえされる。地下鉄サリン事件以降は数年にわたり、日本中の駅からゴミ箱が撤去されていた。危険物を入れられる可能性があるとの理屈だった。復活したゴミ箱の多くは、中が見えるように透明になった。
 監視カメラは街のいたるところに設置され、「テロ警戒中」や「不審者を見逃すな」などの掲示がそこかしこに貼られている。二〇〇三年末に全国で約三千だった防犯ボランティア団体の数は、二〇〇九年末には約四万三千に増殖した。おそらくこれからはもっと増えるだろう。
 振り返れば気づく。一九九五年以降のこの社会の変質は、どんどん加速がついている。

 高山駅から高山本線に乗り、名古屋で新幹線に乗り換えて品川を過ぎたときには、午後三時を僅かに過ぎていた。急がなくては。なぜなら早川紀代秀と面会の約束をしている。東京拘置所の面会受付の終了時間は午後四時。たぶんぎりぎりだ。
 新幹線を降りてからJRを乗り継いで、北千住で東武線に乗り換えて一つめの小菅で降りる。いつもなら拘置所に行くときは千代田線の綾瀬で降りる。小菅から行ったことは何度かあるけれど、致命的な方向音痴である僕は、一度や二度の往来では道を記憶できない。だからこのときも、改札脇の窓口の中の駅員に拘置所に行く道を訊いた。
「改札を出て右です。すぐ左に折れて、あとは道なりに行ってください」
「何分くらいですか」
「七、八分です」
 礼を言って僕は改札を通り抜ける。ふいに駅員が言った。
「ちょっとあんた、切符入れなさいよ」
 僕は思わず後ろを振り返った。誰か他の人に言っているのだろうと思ったのだ。でも後ろには誰もいない。
「……僕ですか」
 駅員は険しい表情でうなずいた。
「切符入れてないよね」
「入れなかったら改札を通れるわけないでしょう」
 僕は言い返した。
「わかるんだよ」
 駅員は言った。何がわかるんだバカと内心は思いながら、僕は言った。
「疑うなら機械を開けてください。北千住から買いました。いちばん上にその切符があるはずです」
 駅員は黙っている。どうやら自分の早とちりに気づいたようだ。
「あー、いいですもう」
「いいですって、何それ」
「大丈夫。行っていいです」
 この瞬間に僕は切れた。「大丈夫じゃないだろ。あなたが今口にするべきはゴメンナサイじゃないのか」。そんなことを大声で言ったはずだ。駅員は無言のままだ。僕はさらに詰め寄った。他にも駅員たちが現れた。「謝れ」。僕はもう一度言った。駅員は顔を真っ赤にしている。悔しいのだろう。でも僕はもっと悔しい。
 最終的に駅員は小声でふてくされたように詫びた。キャリーバッグを引きずりながら、僕は拘置所に向かって歩く。怒声を発したあとの気まずさが、身体中の毛穴からじわじわと滲み出してくる。駅員がなぜ突然あんな言いがかりのようなことを口にしたのか、推測できるひとつの要因は、この日の僕の服装だ。高山は雪だったけれど、東京は二〇度を超す陽気だった。ジャケットを脱いだ僕は、右翼の構成員のような上下のジャージ姿だ。おまけに片手にはキャリーバッグ。拘置所への道を訊ねるそんな風体の男が、おそらく駅員には、犯罪者の親族に会うために地方から出てきたチンピラにでも見えたのだろう。
 そして僕は、自分が一瞬とはいえ切れてしまったその理由もわかっていた。高山駅で余計なお世話になるかもしれないなどと状況に介入しない自分を正当化していたことについて、ずっとうじうじと後ろめたさを抱いていたからだ。要するに八つ当たりに近い。結局のところはその程度だ。その程度であることにまた腹が立つ。でももう八つ当たりできる人はいない。

 面会はぎりぎり間にあった。高山駅と小菅駅で遭遇した二つの出来事でなんとなくすさんだ気分のまま面会室のパイプ椅子に座った僕の目の前に、早川はにこにこと微笑みながら現れた。以前の面会時より、少し肉付きがよくなっている。
「甘いものばかり食べているから」
 そう言ってからアクリル板越しの早川は、少しきまり悪そうに頰の肉を右手で摘むような仕草をした。
 今日の面会の最大の目的は、以前の手紙で早川が「早川ノートは岐部ノートの間違い」と書いてきたことの確認だ。放置はできない。なぜならこの早川ノートの記述が起爆剤のひとつとなって、「オウムの闇」的なイメージがメディアを通じて喧伝され、様々な謀略史観的な見方に結びつき、結果として「理解不能な凶悪集団」としてのイメージを定着させる大きな要因になったからだ。
 この日の面会の数日前、早川ノートについて「あれはあなたが書いたものではないのか」と訊ねた僕の手紙に対して、当の早川は以下のような返事を送ってきた。

「11月→戦争」と記されたノートは、早川ノートではなく岐部ノートです。私はこんなことをノートに書いた覚えはありませんし、こんなふうに考えたこともありません。95年6月当時の警察の取調べのときに刑事が、「11月戦争ってどういうこと? ノートに書いてあるのだけど」と言うので、私は「そんなこと私はノートに書いていません。何ですかそれ?」と答えました。すると刑事は、「え? あれは早川のノートと違うのか。そしたら岐部のか」と言ったのです。それまでに新聞などの見出しに「早川ノート」とか「11月戦争」とか書かれているのを見たことがあるのですが、この取調べのときに初めて、岐部のノートが私のノートとして取り扱われていることを知りました。公安の見込み情報がどっとマスコミに流れていた状況が作り出した誤報です。(中略)なお「11月」ということにつきましては、私は麻原より「11月まで私が逮捕されなければ私が勝つ。これをアーナンダ(井上嘉浩)に伝えよ」とは言われた記憶がありますが、戦争などと言われたことはいっさいありません。これは95年3月末のことですが、この頃、岐部はメッセンジャーボーイとして麻原の傍にいましたから、ノートに書いたようなことを聞いたのかもしれません。(中略)「核弾頭はいくら?」との記述については、核弾頭が購入できるかどうかの検討をしかけたことはありますが、見込みがないのですぐにやめています。そのときに書いたものかもしれませんが覚えはありません。こんなこと書くかなという思いはあります。

 さらに早川は、一橋文哉が『オウム帝国の正体』で、阿含宗時代の麻原は同時期に阿含宗に入信していた早川と接点があったと記述していることについては、「そんなことは阿含宗の信者名簿を確認すればすぐにわかることだと思いますが」と書きながらあっさりと否定して、「この早川グループの面々は、リーダーの早川同様、地下鉄サリン事件などの現場には決して顔を見せず、松本、地下鉄両サリン事件の発生直後、二回に分かれて大量脱会している。(中略)こうした事実を見ると、早川がオウムの〝裏の司令官〟と呼ばれ、どこかの国の工作員だった、と疑われるのも無理はない」との一橋の記述については、

 現場に顔を見せなかったのは事件に関係なかったからで、直後二回に分かれて大量脱会しているという記述についても、そういう事実はまったくありません。何をもって一橋さんがこんなことを書かれたのか理解に苦しみます。いったい誰が脱会したというのでしょう?

 とかなり強い調子で非難している。
 念を押しておかなければならないが、僕は一橋と面識はないし、もちろん私怨だってない。ただ前述したように、オウムの一連の事件が(早川ノートという存在が象徴するように)謀略史観的な文脈で捉えられたことについては、今からでも厳密に精査され、再検証されるべきだとの思いはある。もしも早川ではなく岐部が書いたのだとしても、(センセーショナルな要素は薄くなるが)重要さは変わらないはずなのだから。麻原が実際に「十一月には戦争は起きる」などと口にしたのか、あるいは岐部が軽口をメモしただけなのか、あるいはまったく違う意味なのか、本来なら麻原法廷で確認されなくてはならないはずだ。でもそういった検証はほとんどなされない。だからこそこうしてメディアを媒介に、謀略史観的な噂ばかりが肥大する。
 確かに地下鉄サリン事件や村井刺殺事件、坂本弁護士一家殺害事件や警察庁長官狙撃事件など、オウムの一連の事件や捜査については、未解明で不自然な要素がとても多い。それは僕も感じている。でも同時に、必要以上に「闇」やその背後の危険な勢力の存在などがメディアによって強調されたことで、オウムの危険性や不気味さのイメージが肥大し、その帰結として社会の潜在意識領域における不安や恐怖が大きく刺激されたことも絶対的な事実だ。司法がこれらの見極めを放棄するならば、メディアが自らの責務として再検証するべきだ。ところが市場原理に埋没したメディアは、国民の関心の低下とともにオウム取材への大義とモティベーションを急速に失った。残るのは膨大な噂によって刺激された過剰な危機意識ばかりだ。
 広瀬健一と論争したマハームドラーとタントラ・ヴァジラヤーナについては、グルである麻原彰晃における動機はマハームドラーよりもむしろタントラ・ヴァジラヤーナであるとの前提をまず置いてから、自分をも含めた弟子たちの動機については、早川は以下のように説明した。

 結論から言うと、自己の修行の完成に重点を置くものにとってはマハームドラー、他者の救済に重点を置くものにとってはタントラ・ヴァジラヤーナが、事件の駆動力として大きかったと思います。(中略)93年か94年のことですが、麻原の部屋で二人きりで話をしていたとき、「ティローパ(早川のホーリーネーム=引用者註)、神々が私に○○になれと言われるのだよ。どう思うか」と突然、麻原が言いました。○○の部分は、「ハリツケ」だったか「サラシモノ」だったかはっきりしませんが、そのような意味のことでした。私は思わず「え! ○○ですか」と絶句してしまいました。
 今思うとその後の事態は、このときの神々の意思とされる方向に動いていったわけですが、それは見方によれば、麻原がしぶしぶながらも神々の意思と見なすものに従っていったといえなくもありません。とすれば、このときの神々の声とされるものは、麻原にとってはまさしくマハームドラーであったわけです。

 「神々をヤハウェに置き換えれば、麻原のこの言葉は自らの処刑を予言したイエスを想起させますね」
 僕は言った。アクリル板越しに座る早川は、小首を傾げながら小さくうなずいた。
「確かにそうやねえ」
「ハリツケなのかサラシモノなのか、やっぱり思い出せないですか」
「うーん。どっちかであることは確かだけど……」
 そんな会話をしているうちに、十五分の面会時間はあっというまに過ぎた。ぺこりとお辞儀をすると早川は、扉の向こうに消えていった。
 帰りは小菅駅に足を向ける気になれず、拘置所の高い塀と綾瀬川に挟まれた長い舗道を歩いて千代田線の綾瀬駅に向かう。数羽のスズメがコンクリートの塀の上に並んでいる。早春の夕暮れだ。そういえば面会時に晴天はめずらしい。立ち止まって僕は塀の下に生えた雑草に触れてみる。壁も床も空気も徹底して人工的で無機質な拘置所の帰りは、いつもこうして指先で草や木に触れたくなる。
 逮捕されてから十年あまり、裁判所と拘置所とを往復する護送車の窓の景色を別にすれば、早川は外界を見ていない。彼だけではない。死刑囚たちは外気に触れることがほとんどない。死刑がすでに確定した岡崎一明とは、手紙のやりとりやアクリル板越しの面会すら最早叶わない。独房には小さな窓がひとつ。外を見ることができない高い位置にある。
 外界からは遮断され、四季の移ろいすらほとんど感じることができなくなった彼らが、生きとし生けるものへの思いを保ち続けることができるのだろうか。あるいは取り戻すことができるのだろうか。でも運動の時間は外気に触れることができるのでは? そう訊いた僕に早川は、「屋内ですから無理です。狭いし一人だから運動も……」と答えた。かつて死刑囚は戸外の敷地で、他の死刑囚たちと雑談したり、一緒に運動できた時代があった。再審によって無罪を獲得した元死刑囚である免田栄の獄中ノートには、西鉄ライオンズの故・稲尾和久と豊田泰光の両選手が拘置所に慰問に来て、免田も含めての死刑囚たちと野球をやったとの記述がある。今ではとても考えられないことだけど、でも一九六〇年代だ。そう考えれば、それほど昔ではない。
 今の確定死刑囚たちは徹底してひとりだ。他の収容者との雑談すら許されない。世界から孤絶されている。ならば運動の時間は何をしているのですか? そう訊いた僕に早川は少しだけ考えてから、「何もしていません。爪切りです」とつぶやいた。

 早川に面会した翌日も上天気だった。午後二時に拘置所に着いた。以前の面会時には口髭を生やしていた林泰男は、今日は顎鬚も伸ばして面会室に現れた。ぱっと見はほとんどちょい悪オヤジだ。
『A』を撮影していた九七年当時、被写体である荒木浩と山手線の電車に乗りながら、「殺人マシン林泰男の危険な素顔!」と大きく見出しの躍る週刊誌の中吊り広告を、二人でぼんやりと眺めていたことがある。しばらくしてから荒木が言った。
「……林さんにはいろいろ思い出があるんです。まだ出家してまもない頃、母親に会ってもらったことがあります。林さんに会えば、母親も少しは安心してくれるかなと思ったんです」
「そういう人物なんですか」
「ええ、とにかく穏やかで常識のある方で、母親もオウムにはああいう人もいるんだねえと、多少は安心してくれたようでした」
 そのときはもちろん、林の人となりは僕には実感がなかった。何しろ指名手配中の凶悪な「殺人マシン」なのだ。でも今ならわかる。確かに穏やかで常識もあり、そして何となく頼もしい兄貴分的な雰囲気を持つ男だ。
 その林からの手紙はいつも長い。書きたいことがいくらでもあるという雰囲気だ。麻原について、こんな記述をしてきたことがある。

 麻原は偏狭さと懐の深さとを同時に持っていて、そんな二元性がたくさんあったように思います。男性的(父)でもあり女性的(母)でもあるような。
 逮捕されたサマナたちが法廷で証言するように、ワンマンで絶対者的なときもありましたが、その逆のことも多かったです。弟子の意見をそのまま鵜呑みにして採用し、つまり弟子の言いなりになっているようなときもありました。

 この記述のあとに林は、自分がそう思った実例を二つあげた。そのひとつは、かつて彼が麻原から、サリンプラントで使用する防毒スーツ(実体はただのスイミングスーツでしたと林は書いている)の製造を命じられたときのエピソードだ。製造を命じた後に麻原は、「どうせ(サリンなんか)できないだろうけれど、マンジュ(シュリー=故・村井秀夫)が欲しいと言っているから急ぎで作ってやってくれ」と小声でつぶやいた。このときには林がおや? と思ったほどに気弱な声で、まるで悩める中間管理職のような雰囲気だったという。
 もうひとつのエピソードは、地下鉄サリン事件が起きる数日前の話だ。林は村井と二人で上九の第六サティアンのすぐ近くを歩いていた。微かな音にふと顔を上げれば、はるか遠くの空を飛んでいるヘリコプターが見えた。「報道のヘリかな。それにしては遠すぎる」などと思いながら上空を眺める林の横で、あわてて携帯電話を取り出した村井は、「大変です。いま米軍のヘリコプターがサリンを撒きに来ています」と早口で報告した。もちろん相手は麻原だ。この様子を傍で眺めながら林は、「何であれが米軍のヘリと断言できるのだ」と内心はあきれたという。
 窓を開けて空を見れば誰だって、村井のこの報告が事実かどうかを即座に確認できる。ところが麻原は目が見えない。ならば近くにいる誰かに確認させればいい。でもそれもできない。なぜなら麻原は最終解脱者を宣言している。目など見えなくともすべてを見通しているはずなのだ(となると、そもそも村井が報告するということも矛盾なのだが)。
 このときの林は村井を制することができなかった。なぜなら正大師である村井のステージは、師長(この直後に正悟師に昇格)である林よりはるかに高い。つまり状況に介入できなかった。
 手紙をもらってから数日後の面会時にも、この話になった。アクリル板越しに林は、「……あのときに一言村井に言っておけば、その後の状況も少しは変わっていたかもしれないと時おり思うよ」と悔しそうにつぶやいた。
「変わったかなあ」
 僕は言った。林は記憶を辿るように少しだけ視線を宙に漂わせた。
「……まあ、他にもそんな側近は大勢いたからな。大した効果はなかったかもしれない」
 こうした過剰な(あるいは虚偽の)報告をしていた幹部は、村井だけに限らない。米軍が攻撃してきたとか警察のスパイが潜入しているとか自衛隊が攻めてきそうだとかの報告を、九四年くらいから幹部信者たちは、競うように麻原に伝えていたという。
 毒ガス攻撃やスパイ疑惑などの危機意識を高揚させていた麻原は、○○が攻撃してきました的な報告に、やはりそうかと強く反応したのだろう。そんなことは知っていたよというニュアンスを強調したいがために、よく気がついたと誉めたかもしれない。いずれにせよ否定はしない。否定できるだけの根拠を麻原は持ちえていない。危機を煽るばかりの側近たちは、視力を失った麻原にとっては唯一のメディアだ。そしてメディア(側近たち)にとっての唯一のマーケットである麻原は、危機が現実化しつつあるという情報にとても強く反応した。だから側近たちの報告は、少しずつエスカレートしていった。
 こうして九四年くらいから麻原の意識は、まさしく「特別警戒実施中」になっていた。
 遠くにヘリコプターを見ただけで米軍がサリンを散布していると麻原に報告した村井にしても、ウソをついているという明確な意識はなかったはずだ。もしもその場にいた林が「ウソをつくな」と諫めたら、きょとんとした表情で「ウソなどついていない」と言い返しただろうと僕は想像する。そういえば『朝まで生テレビ!』に出演した村井と会ったときの感想を田原総一朗は、「あんなに目がきれいな男は初めて会ったよ」と僕に言ったことがある。もちろん目がきれいだから心もきれいなどと乙女チックな短絡をするつもりはないが、きわめて邪気の薄い男だったことは確かだろう。
 だから何度でも書く。邪悪で狂暴な人ばかりが人を殺すわけではない。無邪気で善良で純粋だからこそ、人は人を殺す場合がある。しかもこの場合は、後ろめたさという摩擦が働かない。だからより多くの人を殺す。
 麻原に危機を訴える村井の意識にあったのは、世界の人々を救済するという崇高な使命を任されている尊師や自分たちを、あらゆる権力からの迫害や弾圧から守らねばならないとする大義だ。邪悪な力に対抗する正義だ。
 その大義や正義が、尊師に気に入られたいとの意識と繫がり、その意向を慮るという過剰な忖度と同化して燃焼した。このときに最も有効な燃料になったのは、外部の世界との流通を遮断された宗教組織が時おり陥る危機意識の過剰な高揚だ。麻原一審法廷の判決で裁判所は教団武装化の背景を、

 被告人は、平成二年の衆議院議員総選挙に真理党として教団幹部ら二十四名と共に立候補したが惨敗したことから、同年四月ころ、教団幹部ら二十数名を集め、「今の世の中はマハーヤーナでは救済できないことが分かったので、これからはヴァジラヤーナでいく。現代人は生きながらにして悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポアする。救済の計画のために私は君たちを選んだ」などと言って無差別大量殺人の実行を宣言して以来、ボツリヌス菌の培養、ホスゲン爆弾の製造、プラズマ兵器の製造、核兵器の開発、炭疽菌の培養等を教団幹部らに指示して教団の武装化を強力に推進し、その一環として、サリンをプラントで大量に生成するとともに、多数の自動小銃を製造しようと考えた。

 と説明している。オウムが無差別殺戮を計画した原点には、一九九〇年二月に行われた衆議院議員総選挙があったとの見方は、検察が論告において主張した「平成二年二月十八日施行の衆議院議員総選挙に教団幹部二十四名とともに立候補したが(中略)同選挙の惨敗を受け入れることを頑なに拒むとともに(中略)社会全体を激しく憎悪し、敵対視するようになった。(中略)社会全体に対する報復のため自らハルマゲドンを引き起こし、国民の大半を抹殺した上、自己が絶対者として君臨する専制国家を建設することを企てるようになり」をほぼ踏襲している。
 要するに総選挙敗北によって、(麻原の)専制国家建設という野望が加速推進され、武装計画と無差別殺人を正当化したとの論理だ。確かに構図としてはわかりやすい。腑に落ちる。まるで子供向けヒーローもの特撮ドラマにおける「悪の結社ができるまで」の説明のように。
 さらに検察は一九九六年五月二十三日の麻原法廷で、

 選挙敗北によって信者のあいだに生まれた動揺を鎮めるため、麻原は「国家権力が票をすり替えて真理党の当選を妨害したのだ」と説明し、さらに「合法的な救済はもう不可能であり、悪業を積み重ねた現代の人々をポアすることで救済する」として、無差別大量殺人を決意した。

 と述べている。当時の幹部信者だった野田成人が書いた『革命か戦争か』(サイゾー)によれば、麻原は自身が出馬した東京第四区で開票に不正がないことを確かめるために、信者三人にわざと本名の松本智津夫と記載させて投票させたという。ところが開票時の立ち会いの際に、松本の名前を記載した投票用紙は見つからなかった。だから麻原は開票の過程で何らかの不正があったと判断したという。つまり麻原は本気で不正があったと思い込んでいたということになる。
 ところが第二二六回公判で、側近の一人だった杉浦茂は、総選挙敗北後の麻原の様子について、以下のように証言している。

 まず、選挙の開票が出たその夜ですけれども、富士山総本部に集まって慰労会みたいなものがありまして、(麻原は)そこでまず、惨敗で、それは自分の力が足りなかったからで申し訳ないという感じの話がありました。(中略)……本当に申し訳ないという感じで言っていまして、……

 この証言からは、開票に不正があったと怒る雰囲気はないし、不正があったことにしようとの隠蔽の気配もない。
 いずれにせよ、選挙惨敗は何らかのきっかけではあったかもしれないが、でもこれによって麻原が「社会全体を激しく憎悪し、敵対視するようになった」「自己が絶対者として君臨する専制国家を建設することを企てるようになり」との断定は、やはりあまりに短絡すぎる。変化はもっと前から始まっている。
 富士山総本部道場ができてから半年後である一九八九年二月、オウムは初めての殺人事件を教団内で起こしている。そして三月、東京都に宗教法人認証を申請し、八月に受理されている。十月には『サンデー毎日』でオウム批判の連載が始まり、さらに坂本弁護士がオウム真理教被害対策弁護団を結成し、ラジオ番組でオウムを批判する。
 かつて信仰集団「イエスの方舟」がメディアと社会から激しい批判を受けていた時期に、信者たちが強制的に拉致されたなどの報道はでっちあげと告発した『サンデー毎日』は、他のメディアから「イエスの方舟」のPR誌などと批判されながらも、最後までその姿勢を貫いた。
 その『サンデー毎日』が一九八九年十月十五日号で、「オウム真理教の狂気」と題された短期集中連載を始め、子供たちをオウムに奪われた親たちの悲痛な訴えをベースにしながら、教祖の血を高額で売りつけて信者に飲ませる「血のイニシエーション」などを取り上げて激しく批判した。マスメディアではほぼ初めてのオウム批判だ。
 これに対するオウムの反撃は早かった。十月二十五日に『サンデー毎日』を東京地検に刑事告発すると同時に、一九九〇年一月には『サンデー毎日の狂気』とのタイトルの本をオウム出版から刊行する。かなり露骨な対決姿勢だ。
 同時期に坂本弁護士からもメディアを使った批判が始まる。受理されたばかりの宗教法人認証がこのままでは取り消されると麻原が考えた可能性はある。あるいは一九九〇年の衆院選に出馬することはもう決めていたから(政治団体「真理党」の登録を東京都選管に届けたのは一九八九年の八月だ)、選挙の妨害になると予想した可能性もある。
 思想や信条を予防として取り締まる治安維持法が端的に示すように、いったん着火された危機意識は、すでに始まっている危機だけではなく、これから予測される危機を予防しなくてはとの意識に結びつきやすい。つまり止まらなくなる。今も北朝鮮がミサイル発射実験をやるたびに、自民党保守派の政治家たちが主張する「敵基地攻撃論」も同様だ。やられる前に叩く。そんな意識が高揚する。さらにこの時期は、麻原の視力が衰える過程と並行する。島田裕巳は九〇年に麻原に会ったとき、以前は多少は見えていたはずの視力がほとんど失われていたとの実感を持ったと発言している。幼い頃から不自由だったとはいえ、やがて完全に失明するとの恐怖は凄まじかっただろうと僕は想像する。その不安や恐怖もまた、危機意識をさらに煽ったのかもしれない。
 以下に引用するのは、九六年十二月五日に開廷された端本悟の第二〇回公判に証人として呼ばれた早川紀代秀の証言だ。

――麻原からどういう話があったのか。
(当時オウム批判をしていた)『サンデー毎日』の牧太郎(編集長)はけしからんという話でした。その後、もうポアによる救済しかないという説法じみた話がありました。
――それでどう思ったか。
「ああ、いよいよ牧太郎のポアを指示されるのかな」という気持ちが起こりました。ところがそうではなくて、(麻原は)「今問題なのは坂本弁護士だ。ポアしなければならないのは坂本弁護士だ」と言い、急に坂本弁護士の話になりました。
――なぜか。
 いきなり弁護士さんの名前が出たので、私が「弁護士を、ですか」と聞き返しました。すると麻原被告が、「弁護士といっても、彼は被害者の会の実質的なリーダーだ。彼は将来、教団にとって大きな障げとなる」と。
『「オウム真理教」裁判傍聴記②』江川紹子

 検察は冒頭陳述で、選挙惨敗によって無差別大量殺戮計画を企てた麻原は、ボツリヌス菌培養と散布などを指示し、四月に石垣島セミナーを実施したと主張している。確かにボツリヌス菌培養と散布計画は、選挙戦敗北直後から着手されている。麻原に計画を指示された遠藤誠一は、早川紀代秀、新実智光とともに北海道の十勝川流域に行って土を採取し、中川智正とともに分離作業を行い、村井秀夫が作製した培養タンクでプラント化を試みている。そして四月にはセミナー開催を理由に信者たちを石垣島に避難させ、その間に東京にボツリヌス菌を散布するという計画だった。しかしその採取と培養計画は、杜撰極まりないものだった。そもそも十勝川流域で採取した土に、本当にボツリヌス菌が含まれていたかどうかすら、裁判では明らかにされていない。
 石垣島セミナーの主目的は、信者をボツリヌス菌から避難させるためではなく、選挙の敗北で没収された多額の供託金や選挙活動に使った費用の穴埋めではないかと、島田裕巳は『オウム』で推測している。ならば選挙敗北によって無差別大量殺戮計画の実践を始めたとする検察側の主張は、相当に軌道を修正しなくてはならなくなる。
 検察のこの主張に僕が違和感を持つもうひとつの理由は、むしろ選挙惨敗後に、麻原に対してのメディアからの注目度が急激に高まっているからだ。いわゆるブレイク。その意味で選挙活動は、オウムのPRとしては大成功を収めたとの見方もできる。
 選挙後の麻原は、荒俣宏や中沢新一、ビートたけしや山折哲雄、田原総一朗らと、雑誌で対談している。思想家の吉本隆明は、選挙後に麻原の著作『生死を超える』を取り上げながら、宗教家としての麻原を大きく評価した。『朝まで生テレビ!』や『ビートたけしのTVタックル』などに麻原が出演したのもこの時期だ。『朝まで生テレビ!』の際には「幸福の科学」の信者たちが唱える宗教観を論破し、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』に出演したときは「麻原彰晃の青春人生相談」というコーナーで、スタジオに集まった若者たちから「好きな女優は誰か」とか「リンスはするのか」などと質問され、にこにこと笑いながら「秋吉久美子さんです」とか「リンスはしないけれどベビーシャンプーを使っています」などと答えている。司会役のとんねるずの対応も含めて、まさしく大物宗教家としての扱いだ。衆生に教えを説くという大乗的な観点からは絶頂期であるこの時期に、無差別殺戮計画を準備していたとは思いがたい。でも選挙惨敗のもっと前から、変化が始まっていたとするならば、まだ説明はつく。
『A』撮影時、オウムの機関誌である『ヴァジラヤーナ・サッチャ』を全巻購入したことは前述した。一冊の値段は六八〇円。購入した相手は、『A』における青山本部内のシークエンスで、一瞬だけ後ろ姿が映る初老の女性信者だった。彼女にはインタビューを試みた。夫や子供たちと一緒に出家したが、地下鉄サリン事件以降、彼女以外の家族は脱会したらしいなどの話を聞いた(二時間近くのインタビューだったけれど、結局は本編でこのシーンは使わなかった)。
 インタビュー終了後、「よかったらお布施のつもりで(『ヴァジラヤーナ・サッチャ』を)買ってちょうだい」と言われ、「お布施をするつもりはないけれど資料としてなら」などとつまらない言い訳をしながら、その場で購入した。
 創刊号の特集タイトルは、「破局の時代~狙われているのはあなただ! 近未来・日米決戦の構図」。その後のタイトルは、以下のようになる。

二号 宗教にだまされるな! ~現世利益にアブナイ迷信、ウソつき宗教をぶった斬る!
三号 わたしが死ぬとき ~怖い、恐ろしい、……でも知りたい!
四号 甦る伝説の理想郷 ~秘められたシャンバラ王国の封印を解く
五号 戦慄の世紀末大予言 ~三年後、あなたはなぶり殺される!?
六号 恐怖のマニュアル ~完全世界征服! ユダヤの野望
七号 悪魔のマインド・コントロール ~人類洗脳計画の全貌を暴く
八号 世紀末サバイバル ~迫りくる殺戮に満ちた大破局――あなたは生き残れるのか!?

「だまされるな!」「アブナイ」「怖い」「恐ろしい」「なぶり殺される!?」「生き残れるのか!?」
 この時期のオウム信者が抱えていた被害妄想的な危機意識が、一連のタイトルにとても端的に表れている。どうやら一線を引いていたらしく、麻原彰晃自身の寄稿は一度も載っていない。でも当然ながら、彼の意向は大きく働いているはずだ。
 七号「悪魔のマインド・コントロール」が発刊された後に、地下鉄サリン事件は勃発した。そしてサリン事件が起こったあとの『ヴァジラヤーナ・サッチャ』の九号には、「あの日の現場に記者が潜入! 他社には書けない衝撃の一部始終 ~実録! オウム真理教強制捜査」とのタイトルで、百五十ページにわたって、警察とメディアがいかに虚偽の情報を流しているかが特集されている。以下にその一部を引用する。

 高度に情報化された現代。「マスメディアが発達した」=「正しい情報が得られる」という錯覚を国民が抱いてしまい、真偽を確かめなくなってしまった。情報化社会では、かえって誤報が大手を振ってまかり通るのだ。(中略)かつて関東大震災のとき、朝鮮人が井戸に毒を入れているという流言が広まり、多くの朝鮮人が虐殺されたが、状況はそれに近いものが形成されつつある。(中略)これらの一連のことは、マスメディアの役割というものが、国民に真実を報道し利益を与えるというものではなく、いたずらに社会不安を煽り、国民を煽動するためのものになり下がったことの大きな証明である。

 論旨に大きな破綻はない。いや破綻どころか、このままメディア・リテラシーの副読本にでも使えそうな文章だ。
 ただしこの論旨を正当なものと見なすためには、この文章の主体であるオウム真理教が、違法行為など何も犯していないという前提が必要だ。事件直後、多くの信者はそう思っていた。でもさすがに今は、オウムは潔白であるなどと主張する信者はほとんどいない(すべてと書かない理由は、すべての信者に会ってはいないからだ)。関東大震災のあとに虐殺された朝鮮人は井戸に毒など投げ入れていないが、オウムは確かに地下鉄にサリンを撒いた。その後の社会のあり方に一定の共通性はあったとしても、きっかけはまったく違う。一緒にすべきではない。
 マハームドラーとタントラ・ヴァジラヤーナのどちらが事件の駆動力になったかについて、林は以下のように手紙に書いてきた。

 私の場合は、マハームドラーが先行していたと思います。つまりマハームドラーの手段の一つとして、ヴァジラヤーナのワークがあったと考えています。これは当時も今も変わりません。

 そのうえで林は、広瀬が「事件の根底にはタントラ・ヴァジラヤーナがあった」と主張する点については、

 科学技術省は特別なんです。彼らは特別にヴァジラヤーナの教えを説かれているんです。他の部署の者たちは、科学技術省の活動をあまりまともなものと考えていませんでした。

 と説明する。警察庁長官狙撃事件の有力な容疑者と噂されながら目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件などで現在も特別手配中の平田信(二〇一一年に出頭)、あるいは端本悟(地下鉄サリン事件と坂本弁護士一家殺害事件に関与。二〇〇七年に死刑確定)や富田隆(松本サリン事件とサリンプラント建設に関与。懲役十七年が二〇〇一年に確定)など林にとっては気の置けない信者たちと、地下鉄サリン事件前にはよく「科学技術省はこんな調子で大丈夫なのか」と雑談していたという。
 この手紙をもらってから数日後に林と面会したとき、オウムが北朝鮮やロシアと闇でつながっていたとの見方について、僕は林に「どう思う?」と質問した。中学三年時に日本に帰化した林は、「北朝鮮とオウムは闇でつながっていた」的な情報がメディアに流通するとき、ほぼ必ずのように接点にいるキーパーソンとされていた。つまりロシアコネクションにおける早川の北朝鮮バージョンだ。だからこそ林の意見を聞いておきたかった。
 このときは、質問するとほぼ同時に刑務官が面会時間の終わりを告げ、林から返答を聞けなかった。でも面会から数日後、林から長い手紙が届いた。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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