16 父親

(二〇〇六年五月号)

「二〇〇四年の八月十七日、接見禁止の解除が認められ、初めて父と接見をすることができました。(中略)以来二十四回の接見を重ねてまいりましたが、コミュニケーションは一切とれておりません。(中略)今日は、痙攣が特に顕著だった二〇〇五年十月十九日の接見について、報告をさせていただこうと思います。この日は私と妹と弟の三人で面会に行きました。面会時間は一時から一時半の三十分でした。『失礼します』と挨拶しながら入室しました。父は右上を向きながら、痙攣のようにゆっくりと体を震わせていました。私は椅子に座ってから、『寒くなってきましたが、風邪などひいていませんか』と父に問いかけました」
 そこまで話してから次女は、卓の上の大学ノートに視線を落とした。コミュニケーションがまったくとれないので、何回目かの接見以降、彼女は一冊のノートを面会室に持ち込むようにした。つまりこのメモには、彼女の目の前に座る麻原彰晃の挙動や仕草が、現在進行形で記録されている。
「返事はない。苦しそうな顔をしている。顔色が赤い。両腕を深く組み、左足を上に組んで俯くように座っている。首をあちこちに向けている。口をもぐもぐ、瞼は細かく痙攣している。誰かの話を聞いている感じではなく静かだ。8分、左手であくびを抑えるような動作で軽く口を被う。髭を触っているようにも見える。8分40秒、完全に右を向き、訝しげに壁に向けて目を凝らす。子供が昆虫か何かを熱心に観察するような感じだ。9分、眉根に皺を寄せ、何かをやはり凝視する感じ。考え込むポーズにも見える。10分、左手を顎に置き、訝しげな顔をして考え込む。誰かの話を黙って聞いているような雰囲気。11分、〝くん、くん、くん〟と音を出す。喉から出しているのか、音が割れている。12分、天井を振り仰ぎ、正面に顔を向ける。組んでいた足を下ろし、銀色の台に身を乗り出し、アクリル板のすぐ向こうに父の顔がきた。私たちのほうをゆっくりと見るような感じで、徐々に顔を動かしていく。左手で頰をさすり、顔を左斜め前に向ける。私の顔をじっと見たようにも思った。顔はゆっくりとずらされていく。壁などを同じように見ている。父の顔を正面から見たのは、初めてのような気がした。しかし、やはり私たちは、壁や天井と同等のものでしかないようだった。16分、左手で髭を触り、後頭部を左手で触る。その後、両手を頭の後ろにおいて、顔を意地悪く上にやった。16分50秒、両手を下ろし、左手で顎に触る。17分、左手で左顎を押さえ、一瞬顔が歪む。18分、左手で顎を押さえた状態で、痙攣のようにびくん。顔は左向きに壁のほうを向いている。19分、びくん。髪の毛をびくん、びくん、びくん、びくん。瞼も痙攣している。20分、顎から手を下ろし足は右を上に組んでいる。20分20秒、びくん。きょうはよく眼が開いている。びくん。21分、びくん、びくびくびく。口、もぐもぐ。22分、組んでいる足が大きく震えるほど、びくんと震えが走る。眉根には深い皺。唇や顎が小刻みに痙攣している。23分、びくん、びくん、びくん。体がわずかにのけぞり手が握りしめられる。何かせわしく口はもぐもぐ、びくん、瞼の痙攣。24分、びくびくびく。細かい震えが走る。天井にびくん。震えとともに全身が強ばり、力が抜ける。25分、右手で頭をつんと触り、すぐ動く。26分、父の体調が明らかに悪そうなので、私、〝きょうは体調が悪いのですか?〟。弟、〝大丈夫ですか?〟。返事などあろうはずもない父に向けて語りかける。27分、〝大丈夫ですか?〟、妹が大きめの声で問う。大きな声ならば少しは反応がないかと思ったようだ。大きい音に反応することもあるのに、しかし今日は聞こえているかどうかすらもわからない。〝寒くありませんか?〟弟が少し大声で。しかし、何もない。28分、びくびく。また痙攣が始まる。少し小さめの痙攣だ。唇もぐもぐ。顔がせわしなくあちこちを向く。下唇を嚙む。もぐもぐもぐ。瞼痙攣。天井を振り仰ぎこちらのほうを向き、唇もぐ。下唇だけ口の中に入れる感じ。〝あぎゃん〟という感じの音を出す。顔は正面、唇もぐもぐ。眉根に皺。30分、びく、びくびく。喉の辺りに力が入っているのがわかる……」
 次女は顔を上げ、少しだけ肩で息をついた。会場のそこかしこからも、緊張から解放されたかのように吐息がもれた。
「……今お話しさせていただいた以外にも、痙攣はしょっちゅう起こしています。十一月二十四日にも面会に行きましたが、二度、車椅子が大きく震えるほどの痙攣を起こしていました。私たちはその都度、心配になりますが、刑務官の方は馴れた様子で、あわてるような様子はまったくありません。痙攣は日常茶飯事に起こっているのではないかと不安になります。以上、わかりにくい点もあったかと思いますが、報告を終わらせていただきます。どうもありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げてから次女は壇上から下り、入れ替わりに三女のアーチャリーが登壇した。

 この三女と次女が、自宅に侵入したことと弟である長男(当時八歳)を連れ出したことで茨城県警に逮捕されてから三カ月が過ぎた二〇〇〇年四月、茨城県旭村の自宅近くの倉庫から私物を運び出すアーチャリーを、僕はビデオカメラで撮影していた。本来ならこの春に高校生になるはずだった彼女は、逮捕騒動で入試をすべて見送った。でもこの日の彼女は(内心の葛藤はわからないけれど)、参考書や教科書が入った段ボール箱を新しい住居に運ぶために、黙々と車に積み込んでいた。
「得意な教科は何?」
 カメラのレンズを向けながらの僕のこの唐突な質問に、少しためらってから彼女は、「英語かしら」とつぶやいた。
「じゃあ今この場で、英語で自己紹介してくれる?」
「言われると思った」
 そう言ってからアーチャリーは、自己紹介の構文を、レンズに向かってつぶやいた。ただし彼女が自らの名前として選択したのは、聞き慣れたアーチャリーではなく、本名のほうだった。
「アーチャリーじゃなくていいの?」
 僕は訊いた。
「……だって自分の名前、大好きなんです。いろいろ差し障りがあるので、マスコミにはアーチャリーと呼んでもらったほうがいいけれど」
「でもアーチャリーは、お父さんにつけてもらった大事なホーリーネームだよね?」
「だって本名だって、お父さんにつけてもらった大事な名前です」
 そんな会話をしたあとに、僕たちは倉庫の周辺を散歩した。典型的な農村地帯だ。遠くに霞む山の斜面に大きな夕日が沈みかけていた。次女と三女が逮捕された事件の現場となった元住居(この時点ではもう誰も住んでいなかった)の近くまで足を延ばせば、のどかな景色は一変した。近隣住民たちが立てたものすごい量の看板で、まるで結界が張られたかのように、家はびっしりと包囲されていた。「殺人集団出て行け!」「おまえたちに人権はない」などのフレーズは他のオウム施設でもよく見かけたが、「宇宙の果てに飛んで行け!」なるフレーズが大きく書かれた看板もあった。
「……行けるものなら行きたい」
 その看板の前でしばらく佇んだアーチャリーは、口許に複雑な笑みを浮かべながら小声でつぶやいた。家のすぐ脇に、臨時に設置された派出所がある。ガラス窓から中を覗くアーチャリーに気がついた二人の警官が、大あわてで中から現れた。「こんにちは」とアーチャリーが頭を下げ、二人の警官も、「こんにちは」と挨拶を返す。
「彼女は危険ですか」
 カメラを構えながら、僕は二人に聞く。北関東訛りが残るアクセントで若い巡査が、「いやあ、危険はないんじゃないの」と他人事のようにつぶやいた。
「でも今世間では、彼らは最も危険な集団で、彼女はその中心にいると思われていますよね」
「何だかねえ。そんなことはないと思うけどねえ」
「ならばどうして、危険だとのイメージが広がるのでしょう?」
「メディアが悪いんじゃないの?」
 カメラのレンズに視線を送りながら、若い警察官は真顔でそう言った。
「警察ですよ」
「いやあ、メディアだよ」
「……どっちも悪いと思うけれど」
 若い警官と僕とのこんな漫才もどきのやりとりを、年配の警官とアーチャリーは、くすくすと笑いながら聞いていた。そろそろ日が落ちる。山の稜線が赤く染まっている。

 二〇〇一年、『A2』が公開される前の試写の段階では、このシーンはエンディングへの重要な要素として、本編に残されていた。しかし翌年一月、公開された『A2』からは、このシーンは削除されている。だからこのシーンが入った『A2』を観た人は、試写会に足を運んだ一部のマスコミ関係者と、同時期に開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭に足を運んだ人たちだけだ。
 試写が始まる頃から公開までの数カ月、このシーンをめぐってはいろいろあった。この連載でも以前に触れたけれど、このシーンを削除する過程では、麻原彰晃の二審弁護人である松井武(当時は松本家の代理人)と、喧嘩腰のやりとりが続いていた。
 その経緯については以前に書いた。いろいろあって、そしていろいろ考えて、最終的にあのシーンを削除した自分自身の選択を、僕は今も悔いてはいない(決して肖像権を尊重したのではない)。でも悔しい。過去形で悔いてはいないけれど現在形で悔しい。試写が終わってからのロビーで、あるいは山形国際ドキュメンタリー映画祭の会場で上映後、僕は何人もの人に、「あのアーチャリーの場面が最も印象的だった」と声をかけられた。
 時間を置いてから再編集して再上映するという手もあるとプロデューサーの安岡は当時言っていたが、あまりに『A2』の興行が不調だったためか、最近はそんな言葉を口にしなくなった。その思いは僕も共有する。それほどに『A2』は不入りだった。民意に反した映画など誰も観に来ない。オウムへの新たな視点など誰も求めていない。観客がほとんどいない客席を扉の隙間から眺める思いはもうしたくない。
 だからこそ映画版『A3』の撮影を、僕は中途で断念した。映像から活字へと仕事の領域をシフトした。苦しかった。辛かった。今さら簡単には戻れない。

「……松本智津夫の三女です。よろしくお願いいたします。裁判所の方たちが父と面会した折に、父が裁判官の方々の話を理解して返事をしていたと聞きました。しかし私はこれまで二十三回面会していますが、一度も父とは意思の疎通がとれていません」
 アーチャリーのこの言葉を(以前にも書いているけれど)補足する。精神鑑定の申請を弁護団から受け取った須田賢裁判長は、弁護人には一言も伝えないまま、麻原に直接面会した。裁判長が控訴の意味はわかっているかなどと声をかけたとき、麻原は「うん、うん」と反応したという。これを根拠に裁判所は、「話の内容を理解していると思われる」と判断し、鑑定申請を拒絶すると同時に控訴趣意書を出せないとする弁護団を激しく非難した。「父が裁判官の方々の話を理解して返事をしていた」とのアーチャリーの説明は、このときメディアにも発表された裁判所の公式見解だ。
「私が初めて面会したのは二〇〇四年九月十四日でした。九年ぶりでしたので、それまでのことについていろいろ話しました。話し始めてから少しして、突然父が笑いました。大学の授業でいろいろな事件を扱うんですけれど、それを今はパソコンが進化していてインターネットで……といった話をしているとき、突然笑い出したのです。特に笑うような場面ではなかったので『えっ?』と一瞬思いましたが、そのまま話を続けました。
 次に父は、声か音かわからないような音を出し始めました。〝うん、うん〟という感じでした。そのときは私の話を聞いて、〝なるほど、なるほど〟という感じでうなずいているんだと信じ込もうとしました。
 父が本当に病気だと確信してしまうことが、怖かったんだと思います。その日は本当に久しぶりで、自分の伝えたいことをひたすら言い続けてしまいました。〝変だな?〟とは思ったのですが、父を観察する余裕はありませんでした。

 次に面会した二〇〇四年十月十三日、面会室に入ったら父は、手で顔を押さえるようにして寝ていました。途中で起きましたがその後は、右側に誰か人がいてその人の話を聞いているような感じで、顔を少し右に向けて〝うん、うん、うん〟と言ってるように見えました。まるで昔、みんなの話を聞いていたときのようでした」
 ここで少しだけ、話に間が空いた。壇上の横の椅子に座っていた僕の位置からは、彼女の表情はわからない。肩が少しだけ震えていた。数秒の間を置いてから、もう一度顔を上げ、何事もなかったかのように、アーチャリーは話し始めた。
「勉強のことを話していると、会話の内容に何の脈絡もなく、突然笑うような表情を見せ、私は沈黙しました。父が正常なのか、本当に病気なのか、確認しなければならないと思ったからです。そうすると誰も話をしてないのに、〝うん、うん〟と。突然笑うようなそぶりを見せました。それから〝ムニャムニャ、ヒムラガ〟という感じの音を吐きました。何か言ったのかもしれませんが、私にはきちんとした単語として理解することはできませんでした。寝言のような感じでした。そのあとも〝うん、うん、うん〟という音は断続的に続きました。
 面会終了時間になって、刑務官の方が先に面会室を出ました。次に私たちが面会室を出て、父だけが面会室に一人残った形になりました。背後の父しかいない部屋から〝うん、うん〟という声だけが聞こえてきました。やっぱり父はおかしいのだという確信を、このときに持ちました。
(中略)そんな状態ですので、父と意思の疎通などまったくできていません。意思の疎通はおろか、単語を聞いたことすらありません。詐病であると言われている父ですが、ならばそもそもなぜ、弁護士の先生や私たちの話には反応を示さず、裁判所の方たちに対して返事をするのか、私には理解できません。詐病を装うなら、裁判所の方たちに対してこそ、返事をするわけがないと思うからです」
 話し終えたアーチャリーが退場する。次女であるカーリーの姿も、いつのまにか会場から消えている。司会役の岩井弁護士が、十分間の休憩をとることを会場に伝えた。
 トイレに行こうと会場の外に出たら、年配の女性に廊下で、「森さん」といきなり声をかけられた。永岡弘行オウム真理教家族の会会長の妻である英子だった。
「森さんは最近、講演や雑誌などで、麻原彰晃には責任能力はないとのことをさかんに主張されているとの噂を聞きました。ならばお聞きしたいのですが、何を根拠に、そんなことをおっしゃっているのでしょうか?」
 いきなりの詰問調で少々たじろいだ。この連載を通して僕が問題視しているのは、彼の責任能力ではなくて訴訟能力だ。犯行時の彼がどんな精神状態にあったのかを知る手立ては僕にはない。でも公判の記録を読むかぎり、少なくとも逮捕直後の彼は、訴訟の当事者としては問題ない精神状態を保っていたと思う。問題はそのあとだ。法廷で、奇妙な英語を織り交ぜてしゃべりだしたり、「自分は今、空母エンタープライズのようなものの上にいる」などと口走ったり、ハナゾノヨウイチ特別陪審員なる実在しない人物が証言に登場したり、時制が混濁した発言をくりかえし始めたあの段階で、なぜ被告の言動がおかしいから鑑定をしてみてはどうかと誰も提案しなかったのだろう。
 不規則言動が始まったのは一九九七年。それから現在まで九年近く、麻原は放置された。その帰結として病状は進行した。これ以上ないほどに悪化した。ただし弁護側の依頼で鑑定に応じた三人の精神科医は、しかるべき治療を施せば回復の可能性があると言っている。ならば鑑定をして治療を施し、少なくとも自分は何もので、なぜここにいるのか、くらいの意識を取り戻させてから、裁判を再開すればよいはずだ。
 ロビーで向かい合いながらそんなことを、僕は英子に説明した。休憩時間が終わりかけていたこともあって、実際はもっと手短だったし早口だったと思う。最終的に脱会したとはいえ息子はオウムに入り、夫はVXガスで殺されかけた彼女に、非当事者の僕はどうしても饒舌になれない。後ろめたさを払拭できない。なぜなら彼ら当事者たちが味わったその痛苦を、僕は絶対に、リアルには感覚できないからだ。
 でも同時に、言葉を失う自分を、僕は肯定する。なぜなら当事者の痛苦をリアルに感覚できない非当事者の後ろめたさをこの社会が忘れたがゆえに、加害者への嫌悪や憎悪が全面的に発動し、日本社会の変質は始まったと思っているからだ。
 とりあえず英子は納得してくれたようだ。第二部が始まっている。僕はあわてて会場に戻る。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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