24 死刑

(二〇〇七年一月号)

 二〇〇六年九月二十六日、女児誘拐殺人事件で殺人やわいせつ目的誘拐など八つの罪に問われた小林薫被告に対して奈良地裁は求刑どおりの死刑を言い渡し、裁判長は「巧妙、残忍な犯行で人格の矯正はきわめて困難」と死刑の理由を説明した。
 かつて日本の刑事司法において、被害者が一人のケースで死刑判決が下されるときは、被告に殺人の前科があるか営利目的の犯行などに限られていた。なぜなら死刑を適用する際には、とりあえずのガイドラインがあったからだ。
 一九八三年七月八日、犯行当時は十九歳で、四人を射殺して「連続ピストル射殺魔」と呼称された永山則夫被告に対して、動機や犯行態様、遺族の被害感情、犯人の年齢、前科、そして被害者の人数などを検討する量刑判断を示したうえで、最高裁は二審の無期懲役を覆し、一審の死刑判決を支持する判決を下した。つまり思いきり要約してしまうと、三人以上殺したら死刑(三人以上殺さなければ死刑にはならない)との量刑基準を示したことになる。
 これ以降しばらくは、この永山基準による指標が死刑と無期判決を分ける基準とされてきたが、オウムによる地下鉄サリン事件以降、この指標は大きく揺らぎ始める。サリン事件翌年の九六年から二〇〇五年までの十年間で、一審判決で検察側から死刑が求刑された事件一七八件のうち三十七件が、被害者が一人の事例だった。そしてこのうちの四件に、地裁は求刑どおりの死刑を言い渡した。
 一審で死刑を言い渡された小林薫被告の弁護団は、「結論ありきの遺憾な判決だ」とコメントして即日控訴した。しかし判決から二週間後の十月十日、「都合により控訴を取り下げる」との直筆の書面を、小林被告は裁判所に提出した(後日に小林は裁判のやり直しを訴えて再審を請求したが、結局は棄却されている)。
 小林薫被告が控訴取り下げの書面を裁判所に提出した十月十日は、死刑廃止世界連盟(WCADP)によって定められた世界死刑廃止デーだ。ただしこの日はほとんどの日本人にとっては三連休明けの初日となるから、催しへの大きな動員は見込めない。そういった事情を背景に連休初日である七日の土曜日、都内台東区で死刑廃止を呼びかけるシンポジウムが開催された。
 席数二百ほどの区立の小さなホールは、とても閑散としていた。たぶん半分も埋まっていない。でもシンポジウムを主催した市民団体スタッフたちの顔に、とりたてて落胆や失望の色はない。
「毎年こんな感じです」
 顔なじみの一人のスタッフは言った。
「しかも会場にいるのは知った顔ばかりです。本当は死刑存置派にも来てもらいたいのだけど、存置派はまず来ません」
 小さなロビーには、確定死刑囚たちが拘置所で描いた絵や、綴った歌集などが展示されていた。その中に、かつてのオウム幹部で、最高裁で死刑が確定した岡崎一明の墨絵も飾られていた。
 墨絵は二点。ひとつは二羽の夫婦の鶴。もうひとつは山深い寺の石段をゆっくりと登る修行僧の後ろ姿。なかなかよい出来だ。
 かつて僕にも、岡崎はこの手描きの墨絵を何度か郵便で送ってくれた。拘置所内ではもちろんコピーなどできないから、文字どおりのオリジナル作品だ。大学に入学したばかりの長女がその一枚をとても気に入って、自室の机の上に貼った。それを手紙で伝えると、岡崎はとても喜んでくれた。
 そんなことを思い出しながらロビーを歩いていると、通路を歩く安田好弘の後ろ姿が目に入った。かつて麻原彰晃の主任弁護人だった安田は、現在は自らも刑事被告人であると同時に、光市母子殺害事件と和歌山カレー事件の被告の主任弁護人を引き受けて、またも世間からのバッシングの標的となっている。オウム事件以降に出現した危機管理評論家との肩書を持つ人たちからすれば、自らに対する危機管理能力が極端に欠如した弁護士ということになるのだろう。

 死刑について、かつて僕も、あまり深くは考えない大多数の一人だった。社会にはいろんなシステムや制度がある。死刑はそのひとつでしかなかった。でも『A』を撮り、結果的にはオウムについていろいろ考察するうちに、この制度について考えざるをえなくなった。
 二〇〇六年のこの時期で、すでに十三人の上告が棄却され、死刑確定囚は九十三人になっていた。一審で死刑が確定した麻原彰晃と小林薫を入れれば九十五人だ。五年前までは五十四人だった。五年でほぼ倍増した。量刑基準は急激に変わりつつある。これからも死刑判決は増え続けるだろう。
 ただし僕は、「三人殺したら死刑で二人なら無期が相場」との量刑基準を支持するつもりはない。情緒に流されることに対しては最も警戒せねばならない司法が判例主義をとることは必然であるとしても、人の営みというとても曖昧な領域を考察しながら罪を罰に数量化しなければいけない法廷で、型どおりのマニュアルへの過剰な依拠にはやはり同意しかねる。だから司法の原則が揺れることそれ自体を、頭ごなしに否定するつもりはない。
 ただし良い悪いはともかくとして、世相が激しく変化しつつあることに対しては、絶対に無自覚でありたくない。
 この時点において安田好弘が弁護人を務めていた光市母子殺害事件は、最高裁から差し戻し判決を受けていた。つまり無期を決めた広島高裁の判決に対して最高裁は、「死刑を求めない理由はない」として審理をやり直すことを命じ、これを受けた広島高裁は二〇〇八年四月に死刑判決を言い渡した。
 かつても今も死刑を決めた判決文の多くには、「死刑を求めざるをえない」との常套句が、とても頻繁に使われている。つまり死刑は「突出した刑罰である」との前提が存在していた。実際に他の刑罰のすべてが教育刑であることを考えれば、死刑はきわめて例外的な刑罰だ。でも光市母子殺害事件において最高裁が出した「死刑を求めない理由はない」との二重否定が意味することは、まずは「死刑ありき」という前提だ。例外が例外ではなくなった。
 もう一度書くが、変化を一概に否定するつもりはない。変化は必然だ。でも変化していることは知るべきだ。以前とはずいぶん離れた場所に来ていることくらいは自覚するべきだ。そのうえで考えたい。この距離と方向で本当にいいのかと。
 変化の大きなきっかけはオウムだ。そしてその後に起きた拉致問題や附属池田小事件、光市母子殺害事件などが、この変化に大きな加速をつけた。ただし光市母子殺害事件については、事件そのものが要因ではない。事件発生時の報道は、裁判が始まってからに比べれば、実のところ圧倒的に小さい。つまり大きくは注目されていなかった。でも(安田が弁護人についた)最高裁判決前後から、この社会はまさしく熱狂的な状態になった。
 このシンポジウムから遡ること半年の二〇〇六年三月十四日、最高裁で開かれるはずだった口頭弁論を、安田は足立修一弁護士とともに欠席した。多くのメディアはこの事態を「ドタキャン」なる言葉で表現し、安田、足立両弁護士を激しく罵倒した。非難ではない。あえて罵倒という言葉を使う。
 その典型を以下に引用する。タイトルは「人権派の正体見たり三百代言」。筆者は鈴森髑髏〈すずもりされこうべ〉なる人物だ。

 最高裁と言う名称は伊達や酔狂で付けられたものではあるまいに、この弁護士さん地裁も高裁も最高裁もみな同じ裁判所だろうということで欠席なんか屁とも思っていないらしい。それどころか最高裁無視ということで死刑反対の人権派弁護士の名声いよいよ高かるべしという計算見え見えで、相手にするのも馬鹿らしい。
『新潮45』二〇〇六年六月号

 これが書き出し。これ以降も「安田は名うての死刑反対主義ビジネス従業者で」とか、「(人権派は)サリン事件の犠牲者はもう死んでいないのだから遺族の恨み辛みなんか糞食らえと考え」とか(それにしても遺族を傷つけるという意味合いなら、この記述のほうがはるかにその要素は強いと思うのだけど)、延々と罵倒が続く。これはあくまでもひとつの例。他の雑誌も同じようなものだった。テレビはもっとひどい。多くのコメンテーターや識者が激しく安田を罵倒した。でも事実はまったく違う。
 二〇〇五年十一月末、光市母子殺害事件における上告審の弁護人に対して、最高裁は口頭弁論を開くことを通告した。つまり二審判決が覆る可能性がとても濃厚になった。そこで上告審弁護人は安田好弘に、自分を引き継いで弁護人に就任することを依頼した。

 弁論期日が近づいてきた二月末、上告審弁護人に伴われて安田と足立修一は、被告人と初めて接見し、被告人の思いと明らかにされていなかった新たな事実関係を知って、依頼を受諾することを決意した。この時点で上告審弁護人は自らの力不足を理由に辞任して、安田と足立は後任を引き継いだ。
 しかしこの段階で、最高裁が通告していた弁論期日までは一カ月もない。しかも安田にはこの日、日弁連が開催する公式行事(裁判員裁判リハーサルのための模擬裁判)に出席することが決まっていた。そこで安田と足立は、被告人と接見した際に事実認定について新たな申し立てがあったので、それを精査するためには三カ月が必要であることと、弁護人が替わったために期日を再調整してほしいとの要項を記載した延期申請を提出した。
 複数の依頼を引き受ける弁護人と検察官と裁判所が法廷の日程をすりあわせることは、仕事の進め方としては当たり前のことだ。ところが最高裁は安田のこの申請を、なぜか却下した(普通なら却下はありえない)。一連の騒動はここから始まる。
 このままではまともな弁論などできないと考えた安田と足立は、開廷前日に欠席届けを提出する。ぎりぎりの前日に欠席を報せた理由は、もしも前もって届けを提出していたら、その段階で国選弁護人に替えられてしまう事態が想定されたからだ。
 裁判所が延期申請を受理しなかった理由はわからない。でも推測はできる。この少し前から、遺族である本村洋の切実な言動がメディアによって大きく報じられ始め、世相は被告を死刑に処すべきとの本村の主張に強く共鳴し始めていた。安田と足立が欠席することを知りながら弁論を開いた最高裁と検察官は、「弁護人の欠席は裁判遅延の目的によるもの」と激しく非難し、一カ月後の弁論期日を再び一方的に決めて、出廷命令と在廷命令を出した。このときは弁護団に対する本村洋の激昂をマスメディアは大きく取り上げて、安田と足立が弁論を欠席するまでの過程を取材しないままに、ドタキャン弁護士などと激しく批判した。この経緯を正確に報道したのは、僕の知る範囲では東京新聞一紙だけだった。
 うがった見方はしたくない。でも経緯を振り返れば、こうして被告に死刑判決を与えるための環境が少しずつ整備されたとの見方はできる。メディアは安田が死刑廃止運動のリーダー的役割を担っていることを何度も報道した。先に引用した鈴森髑髏なる人物の文章が典型だが、光市母子殺害事件の裁判にも安田はその思想を持ち込もうとしているとの視点はこうして強調され、結果として日本の死刑廃止運動は、この裁判の経過とともに大きなダメージを受けた。
 ただし最高裁や検察が、この帰結を明確に予測していたと僕には思えない。民意に迎合しようとのポピュリズムが自同律のように駆動した結果として、この状況が現出したと考えるべきだろう。
 安田は麻原彰晃の一審弁護団の主任弁護人でもあった。そう考えると不思議だ。その麻原が率いたオウムによって喚起された不安や恐怖を燃料に、「悪い奴」は排除せよとの治安を求める意識が高揚する。「悪い奴」を探し出そうとする善悪二元論が加速して、警察や検察など捜査機関は暴走し、マスメディアは市場原理に従いながら読者や視聴者の不安や恐怖を煽る。煽りながら悪を叩く。こうして安全への希求はスパイラル構造に嵌りながら加速を続け、その帰結のひとつとしてポピュリズムに陥った司法は、自ら重罰化を促進する。
 そのきっかけとなった男は、今も東京拘置所の独房で、大小便を垂れ流しながら、声にならない呻きを洩らし続けている。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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