9 拒否

(二〇〇五年十月号)

 結果として麻原は大学進学をあきらめたが、学業を修了することはできた。少なくともここには不合理や不正義はない。しかし彼の子供たちは教育を受ける権利を、この社会から現在進行形で奪われ続けている。
 二〇〇四年春、麻原の三女が、和光大学に合格しながら入学を拒否されたことが朝日新聞などで報じられた。その少しあとに三女は、和光大学と(同時期に入学拒否を通達してきた)文教大学に対して、損害賠償を求める民事訴訟を提訴した。
 二〇〇五年三月二十八日、原告である三女が出廷して、初めて自分の思いを言葉にした。この裁判における弁護士とのやりとりを、月刊誌『創』六月号から一部引用する。

――あなたが和光大学を志望した理由を聞かせてください。
 きっかけは森達也さん(映画監督)が『A』という映画を和光大学で上映した時に、教授たちと話をしたら、もし合格したら入ってきたらいいよと言っていたというので、いい大学だなと思い、パンフレットを見たことでした。

 唐突に僕の名前が出てきたその経緯を以下に記す。リベラルな教員たちが多いことでも知られる和光大学は、『A』や『A2』の学内上映会を、これまでに何度か企画している。上映会終了後の打ち上げの席で、通信制の高校に通っていた麻原の三女が「自分を受け入れてくれる大学などあるのだろうか」と悩んでいることを話した僕に、その場にいた教員たちは「ならばウチに来ればいい」と口を揃えた。僕は教員たちのその言葉を彼女に伝えた。それが二〇〇三年だ。この前年に彼女は、すでに武蔵野大学から入学を拒絶されていた。
 ここから事態が少しだけ複雑になる。ほぼ同じ時期に僕は、和光大から非常勤講師の誘いを受けていた。ところがその直後、和光大を受験して合格した三女のもとに入学拒否の知らせがあったとの情報を朝日新聞の記者から聞かされて、僕はすぐに教員たちに連絡をとった。事態の説明を彼らから聞いたあとに、講師の件は白紙にするつもりだった。
 結論から書けば、彼らと二時間ほど話し合い、僕は講師を引き受けることにした。理由はいくつかあるが、大きくは彼女が麻原の三女であるからとの短絡的な条件反射で入学拒否をしたわけではないという言葉を信じたことと、今後は内部からこの問題を提起し続けるつもりであるという彼らの憤りと決意を確認できたからだ。

 教員たちと別れての帰り道、三女はどんな思いでいるのだろうと考えた。『A2』撮影時の二〇〇〇年、彼女は間近に迫った高校入試の勉学に懸命だった。しかし入試直前、自宅の自室に侵入して実の弟を誘拐したとの奇妙な容疑(そう書かざるをえない)で、彼女は埼玉県警に逮捕された。
 当時の僕は『A2』を撮影していた。事件発生から数日後に、カメラを手にして彼女の家に行った。一度も学校に通ったことがない彼女の勉強部屋には、名前の欄に架空のクラス名が記された学習帳や参考書が置かれていた。
 結局はこの逮捕騒動で、その年の高校受験を三女は見送ることになった。その翌年、応募したすべての高校から入学を拒絶された彼女は、やむなく通信制を選択した。こんな調子では大学進学など夢物語だ。そんな彼女の苦悩を聞いていたからこそ、僕は和光大を彼女に勧め、そして彼女は、藁をもつかむ思いでこれにすがり、結果としてはあっさりと拒絶された。
 補足するが、彼女が今も教団に対して影響力を保持しているかどうかはわからない。その可能性はあると思う。でもそれとこれとは位相が違う。裁判所ではこんなやりとりがあったようだ。

――あなたはアレフの信者だったのですか。
 信者ではありません。
――教団との関係はどうなっていたのですか。(中略)
 自分でもよくわかりません。

 教員たちと会って事情を聞いてから数日後の夜、三女の入学拒否を最終的に決定した三橋修学長(当時)に僕は面会した。講師の依頼を正式に引き受ける前に、三橋の思いも確認しておかねばならないと考えたからだ。代表作である『差別論ノート』(新泉社)をはじめ、『日本の社会科学と差別理論』(石田雄共著・明石書店)など、日本の差別問題についての数々の著作がある三橋のプロフィールは、和光大のHPに、次のように記述されている。

 研究活動のキーワードは「差別的な人間関係」「マイノリティ研究」。(中略)その目で見、かつ経験した差別という人間関係のあり方について考えることとなる。当初は社会心理学的な方法をもってアプローチしていたが、民俗学的・構造主義的なアプローチを導入して差別的関係に迫ったのが『差別論ノート』である。ここで展開した、差別は、差別する側が被差別者をつくるという考え方、及び差別的関係は差別者と被差別者の一対一の関係では解けないという考え方は、その後も全く変わっていない。

 人は異例や例外を作る。そしてこの異例や例外は時として共同体内部で、普遍性を獲得しながら前提となる。そうなると人は、それがかつて異例であり例外であったことを忘れてしまう。差別問題はこうして起きる。「民俗学的・構造主義的なアプローチを導入して差別的関係に迫った」三橋は、日本社会が忌み嫌うオウム真理教教祖の娘に当事者として対峙して、そして自らが例外を作る(差別する)側に立たされた。
 ただし事情はある。面会したときに三橋は僕に、「彼女をもしも入学させた場合、来年度以降の入学希望者が激減する可能性があるとの恐れをどうしても拭えなかった」と説明した。「苦渋の選択」との言葉も聞いた。
 この恐れを一概に否定はできない。激減まではないとは思うけれど、今のこの社会なら、麻原の三女が通う大学になど子供を行かせられないと思う父兄は、確かに少なくないだろう。それでなくとも私学の経営は今とても苦しい。しかも少子化は加速している。多くの教員や職員たちが、自分たちの生活を守るためにネガティブな要素はできるだけ排除したいとの心情を抱くことは、ある程度は理解できる。
 おそらく決断する際の三橋は、組織を守らねばならない学長と思想信条を表明する学者という二つの立場で、強烈なダブルバインド状態だったのだろうと僕は想像する。そのうえで同情はする。共感はしないけれど同情はする。
 いずれにせよ、和光大が彼女を拒絶した理由は、入学希望者の減少という外在的な要因、つまり世間の反応が大きかったことは事実のようだ。麻原の娘などとんでもないと主体的に拒絶したわけではない(結果的には同じだけど)。
 三女が入学を拒絶されたのは和光大だけではない。同年には文教大学が、さらにこの前年には武蔵野大学が、入学を一方的に取り消している。
 出自によって入学を取り消す。これは明確な差別だ。しかしあらゆる差別問題に取り組むはずの部落解放同盟を含め、ほとんどの人権団体はこの事態に抗議しない。異を唱えない。声をあげない。反応しない。まるですっぽりとエア・ポケットに入っているかのように、明らかな異例が明らかな常態になっている。
 オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。
 要するに問題はここだけにあるわけじゃない。そこにもあるし、あそこにもある。そこら中にある。おそらく他のほとんどの大学は、「ウチに来なくてよかった」と胸を撫で下ろしているはずだ。ならば和光大や文教大、武蔵野大だけを批判しても意味がない。
 もちろん別の考え方もある。個別の問題に具体的に対処するからこそ、全体の問題が底上げされるという考え方だ。それは僕も考えた。しかしいずれにせよ、僕ごときが講師の誘いを断ったからといって問題の対処にはならない。あとはけじめというか心情レベルの話だ。僕を誘った教員たちが言ったように、内部から問題提起する方策もあるはずだ。むしろそのほうが意義はある。そう結論づけた僕は、三橋との面会後に、非常勤講師の依頼を正式に受諾した。
 こんな経緯があってから三カ月後である六月十三日、二回目の口頭弁論に三橋は出廷した。その発言記録を読みながら、僕は今、啞然としている。一言にすれば、「それはないだろう」という感覚だ。

弁護士 入学拒否の理由は、原告の父親を問題にしたわけですか。
三橋 全くそうではありません。第1に本人がどういう立場であるのか。オウム真理教との関係ですね。第2に、そういう方をお迎えした場合、大学でどんな問題が起こるか、ということでした。
弁護士 具体的にどう判断をしたのですか?
三橋 原告はオウム真理教(正確にはアーレフというべきかもしれませんが)の正大師でホーリーネームもお持ちだし、教団と深い関係にあると判断しました。それ以外に考えた点は、元オウム信者の方(これも元信者なのか現役の信者の方なのかよくわかりませんが)と一緒にお住まいだし、同じマンションの別の部屋にもいらっしゃること。もうひとつ、獄中にいるオウムの人たちと接見されていることなどですね。
弁護士 そういう原告が入学した場合、どういうことが生じると判断したのですか。
三橋 一つは周りの学生への影響、二つめにご本人への影響があると思いました。1番目は今の学生は自分探しを行うという特徴があります。私どもは原告が大学で積極的な布教活動を行うとは思いませんが、友人から何か悩みごとを相談された場合、教義に照らしたり、教団の誰かに相談するなりして、原告がその学生に影響を与える可能性があるのではないかと思いました。
『創』(二〇〇五年八月号)

 ここまでを整理する。東京地裁六一一号法廷に出廷した三橋修前学長は、入学拒否をした理由について、
 1 教団と深い関係にあること
 2 元オウム信者と生活を共にしていること
 3 獄中にいる元オウム信者と面会していること
の三つをポイントとして説明した。
 1については、その事実関係は僕には判断できない。数年前に教団施設を出た彼女は、僕の知る範囲では、一度も施設には戻っていないはずだ。でも関係がまったくないとは断定できない。施設に戻らなくても接触はいくらでもできる。実際に彼女を慕う信者たちは今も数多い。家族も含めて、影響力は保持しているはずだ。しかし仮に、彼女が今も教団と深い関係があったとしても、それがなぜ入学を拒否する理由になるのだろう。たとえ現役の幹部信者であっても、正式な入学手続きを経たならば、大学側はこれを拒否することはできないはずだ。それは建前に過ぎないともしも反論されたなら、大学学長という公職にある人が法廷の場で口にできないならば、それはもはや建前としても失効していると僕は言い返す。
 日本国憲法第二六条には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と明記されており、教育基本法第四条(教育の機会均等)は、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」と謳っている。三女に対する入学拒否は、明らかに信条、社会的身分、門地(家柄)によって、教育を受ける機会を奪っている。三女が獄中にいる元オウム信者と面会していることを、法廷で三橋は入学拒否のひとつの理由にしたが、ならば今も月に二回は元オウム幹部たちに会うために東京拘置所に通っている僕は、和光大の非常勤講師を即刻辞めなくてはならなくなる。
 さらに拒否の理由を三橋は、周囲の学生と本人への影響であると述べた。本人への影響については、右翼などがもしも大学に嫌がらせに来た場合、大学は彼女を充分に守れない可能性があるとの趣旨を述べている。

三女 私という人間を知りもしないで、どうして苦渋の選択ができたのですか。
三橋 ぼくにとっては本当に苦渋なんです。本当に申し訳ないというか。ただあなたをその時点で知っていれば違う選択をしたかどうか。(あなた自身に罪はなくとも)人間は社会的存在だということをわかっていただきたい。(中略)
三女 あなたの子供がもし同じ目にあったらどう思いますか。私だけでなく母も周りの人も皆悲しむんですよ。私だけじゃないんです。苦渋の選択とか言っていますが、母や姉、妹、弟がどんな思いをしたかまで考えてくれましたか(泣きながら訴える)。
三橋 個人としては考えましたが、組織としてはそこまで考えませんでした。
三女 母は自分の名前を書いたために取り消しになったと自分を責めて、もう二度と名前を出さないでほしいと言って泣いたんですよ。和光大学なら(差別に反対している大学だから)大丈夫だからというので親の名前を書いたのに、どうして考えてくださらなかったのですか。
三橋 そこまでは考えませんでした。

 三女は最後に、「ありがとうございました」と三橋に言い、裁判官から「三女を受け入れた場合の影響について具体的に検討したか」と訊ねられた三橋は、「例えば四月五日に入学式が迫っていたわけですが、そこでどう原告を守るか。マスコミだけなら規制はできたでしょうが、他の人たちの場合、どう防ぐか難しいところはあったと思います」と答えている。入学希望者が激減することを恐れたとの理由は、ついに最後まで口にしなかった。
 経営が苦しいことは、ほとんどの私学に共通している。今さら隠すことじゃない。それとも本音は明かすべきじゃないと考えたのか。すべての人に就学の権利はあるとの建前は口にしないで、さらに本音さえも明かさないのなら、それは「何も言っていない」ということになる。三女自身が法廷で明かしたように、彼女が和光大学を受験したその理由は、僕のアドバイスから始まっている。責任は僕にも大いにある。でも「入学希望者が激減する可能性があるとの恐れをどうしても拭えなかった」という言葉を聞いたからこそ、僕は非常勤講師の依頼を受諾した。
 なぜならここには、共同体に帰属しなくては生きていけない個の苦悩がある。自らの思想と社会規範とのあいだの葛藤がある。差別問題研究の第一人者であるからこそ、法廷という公式の場で三橋が語るべきは、「人間は社会的存在だ」などではないはずだ。
 かつて三女の入学を僕に勧めた教員の一人である上野俊哉(和光大学表現学部教授)は、『インパクション』一四三号(二〇〇四年九月号)でこの問題についての考察を、「トレランス~和光大学『入学拒否』問題について」とのタイトルで寄稿している。

 何の罪もない人間を、ただ未曾有の大量殺人に関与した教団代表の子供であるという理由だけで「平穏」を乱す存在と位置づける視線は、「近代」以前の発想であり、リベラルや実験性をうたってきた和光大学の理念に根本から反している。(中略)
 しかし北朝鮮「拉致」やイラク「人質」事件への世間の対応を見ていると、全く同形の「同調圧力」がバイアスになっていることがわかる。当の発言者はとことん「善意」の人なので、さらに始末が悪い。反レーニン主義者でも「地獄への敷石=善意」と連想してしまう。
 驚くべきは、日の丸、君が代の強制に反対し、文部科学省の大学政策に日々、疑問を投げかける「良心的」な教職員集団がした決定がこれだ、という点である。こんな近代の原則にも徹しきれない人々が考えている「平和」や「学問」とは何だろう? むしろここに恐怖を感じる。

 この寄稿文で上野は、拒否の本音については、「来年の『入学募集』にどのくらいの打撃が生じ、どれほど『地域住民』を混乱させるか、という要因があったことは間違いない」と書いている。「三橋修は、ある意味でこの騒ぎの中で、当該の人物の次くらいにひどい目にあった者かもしれない」との記述のあとに上野は、「(学長という公的立場のしばりのため)社会学者としての彼は自身の言葉を封じられていた。年度内に学長の任も解け、本人がそのことを書く日も近いだろう」とも書いている。
 確かに、この問題をめぐっての教員会議の際には、多くの教員や職員たちが彼女の入学に反対したと聞いている。在学している学生の父兄や保護者からも(三女を)入学させないようにとの多数の声が寄せられていたとも聞いている。もしも三橋以外の誰かがこのときに学長の地位に就いていたとしても、おそらく最終的な判断は変わらなかっただろう。その意味では、三橋が不運であったことは確かだ。
 でもそれは認めつつ、やはり教育者として、差別問題の研究者として、最高学府の長として、法廷における三橋の言葉は絶対に適正ではなかったという認識は譲れない。問題の背景に働いていた状況と自らの苦悩を表明して初めて、「人間は社会的存在だ」という言葉は意味を持つ。
 だから今、これを読むあなたにも考えてほしい。三橋が口にした「苦渋の選択」の本当の意味を考えてほしい。かつてならありえないことが当たり前になる。かつてなら起こりえないことが現実になる。ちょうどこの時期には、日本各地の自治体によるオウム信者の住民票不受理宣言も始まっている。オウム信者流入が噂された千葉県我孫子市や柏市、流山市や野田市などの市役所の正面玄関脇には、「人権は皆が持つもの守るもの」(我孫子市)や「ふれあいと対話がきずく明るい社会」(柏市)などの立て看板の横に、「オウム(アレフ)信者の転入届けは受理しない」と記述された真新しい看板が設置された。まるで質の悪いブラックジョークのようだが、これもまた明確な憲法違反だ。でも、誰も指摘しない。当然の措置として支持される。なぜならオウムは特別だからだ。
 和光大学以外に文教大学からも教授会の決定事項として入学を拒否された三女は、東京地裁に地位保全の仮処分を求め、地裁はこれを認定し、大学側は「司法判断を尊重する」とこれに従った。つまり彼女は大学生になることができた。元気に通学しているとの情報もあるが、彼女のその心中まではわからない。少なくとも文教大学では、三橋が法廷で述べたような混乱状況にはなっていない。

 いつものように綾瀬駅で降りる。そしてこの日の天気もいつものように、重苦しい曇り空だ。東京拘置所までは徒歩で十五分。急げば十分。高さ五メートルほどのコンクリート塀が片側にそびえる綾瀬川沿いの道を歩きながら、この塀はまるで、異界とこの世界とを隔てる境界線のようだとつくづく思う。
 犯罪者とは何だろう。ルールを犯した人だ。ルールとは何だろう。共同体の規範だ。共同体とは何だろう。人が生きるために必要な組織体だ。
 ……学校を卒業してからの僕自身は、幸か不幸か会社や組織とは、あまり濃密な関係を作らずにこれまでを過ごしてきた。でももちろん、まったく無縁でいられるわけじゃない。人は共同体に帰属せねば生きていけない。逆に言えば、共同体への帰属意識がこれほどに強いからこそ、文明は発達し、伝播され、人はこれほどに繁栄できた。
 いずれにしても、本当の意味での極悪人の定義は、「人を多く殺した人」ではなく、「帰属する共同体の規範により強く背いた人」なのだ。一九九六年の『A』撮影時、幹部がほとんど逮捕されたオウムで急遽代表代行になっていた村岡達子は、「人を殺したら罰せられる。でも戦争で大量の人を殺したら褒められる。当たり前のことと普通は思うのかもしれないけれど、でも子供の頃からずっと、大人になってもまだ、この疑問が頭から離れなかった」と僕に言った。「なぜオウムに入信したのか」との問いに対する答えだった。一呼吸置いてから彼女は、「でも尊師は、私のこの疑問に答えてくれたんです」と微笑んだ。ファインダーを覗きながら、僕は訊いた。
「麻原は何と答えたんですか」
 返事はない。じっと僕を見つめながら村岡は、静かに微笑み続けている。もしも重ねて訊けば、「森さんにうまく伝えられる自信がないんです」と彼女は答えるだろう。
 この時期、「うまく伝えられる自信がない」との彼らの言葉を、僕は何度も聞いている。撮影を続けながら、あなたにとって麻原彰晃とは何ものなのかと、信者たちに必ず訊ね続けた時期がある。ある程度までは答えてくれる。しかしある程度だ。ある段階で必ずのように信者たちは口ごもる。何かを隠しているとかごまかそうとしているとかではなく、語彙を失っていることは明らかだった。麻原についての質問を続けていると、まるで臨界点のようにその瞬間が必ずあった。
「これ以上は言葉では説明できないんです。森さんも体験してもらえればわかるはずです」
「体験って?」
「尊師にお会いになれば」
「だって、もう会えませんよ」
 この言葉に対しての信者たちの反応は様々だったけれど、「(二度と拘置所から出てこられないのだから)会えない」という言葉の意味が一瞬だけ理解できないような表情のあとに、ああそういえばそうでした、と言わんばかりに微笑む信者が多かった。実際に会うか会わないかは深刻な問題ではないらしいと気づいたのはこの頃だ。末端に至るまでほとんどの信者が、事件前には麻原と何かしらの接点があった。作品の重要な被写体である荒木浩もそれは同様だ。
 役職は広報副部長だが、荒木にはホーリーネームがない。つまりまったくの末端信者だ。それでも麻原彰晃については、彼も接点を持っている。もっともその接点(思い出)は、通路で擦れ違ったときに声をかけられたとか、せいぜいがそのレベルだ。ところがこのささやかな思い出に、荒木も含めてほとんどの信者たちは充足していた。その理由が僕にはわからない。だから質問はいつも言葉尻が宙に溶ける。このくりかえしだった。

 尊師の車のメンテナンスも僕が担当していました。そういうときに直接話をうかがうことがありましたが、いろいろと示唆的なことを言ってくれるんです。それを聞いていると、この人はほんとに僕のために、僕の成長のために一生懸命考えていてくれるんだなと、そういうことがひしひしと伝わってくるんですよ。
『約束された場所で』村上春樹「寺畑多聞のインタビュー」

 拘置所受付窓口に置かれている面会受付用紙に、自分の名前や住所、そして早川紀代秀の名前を書いていたら、すぐ隣から声がした。
「早川ってオウムの早川かあ」
 顔を上げれば、口許に薄い髭をたくわえた若い男が、じっと僕を見つめていた。明らかに堅気じゃない。肘の下まで捲り上げたジャージーの袖からは、刺青の端が覗いている。兄貴分か親分の宅下げと差し入れに来て、ついでに面会をする若い衆というところだろう。
 見つめ合ったのは数秒だ。普通なら「ガンつけるのか」とか凄まれるところだが、このときは彼のほうから視線を外した。その瞬間の表情は何となく弱々しかった。そういえば『A』撮影時、初めて訪ねた都内の施設で、「昨日はヤクザがたくさん来ていたのだけど急にいなくなっちゃいました」と、出迎えた信者が言ったことがある。
「なぜヤクザがいたのですか」
「不動産屋さんから頼まれたようです」
 ああなるほどと僕はうなずいた。珍しい話ではない。地下鉄サリン事件以降、オウムと賃貸契約を結んでいた不動産屋や大家のほとんどは、物件からの速やかな退去を要求した。でも居住する信者が多い場合には、当然ながら新しい物件は簡単には見つからない。オウムと知りながら契約する大家はまずいないし、かといってこれを隠して契約してもし発覚したら、メディアに大きく報道される。何よりも法的には、彼らを施設から追い出す正当な権利を、不動産屋や大家は持っていない。
 とはいえそのままにしておいては、地域住民から自分たちが責められる。そこで信者たちを強制的に退去させるために、不動産屋や大家はいろいろな手を使う。ヤクザを使っての嫌がらせは、他の施設でもよく使われていた。
「でもなぜ急にいなくなったのだろう」
「私たちがオウムであることを、ここに来たヤクザの人たちは知らなかったようです」
 信者は言った。
「来てすぐに、おまえら、もしかしてオウムなのかって訊かれたので、そうですよって答えたら、急に帰っちゃいました。不思議ですね」
「サリンを噴霧されたらかなわないと思ったんでしょうね」
 そう言う僕に、信者は真顔で言った。
「ここにはないですよ」

 所持品をロッカーに入れてボディチェックを済ませてから、長い回廊を歩き、エレベーターに乗って六階で降りる。面会室に現れた早川の印象を一口にすれば、小さな商店の気のよいオヤジだ。にこにこと微笑みながら、「いやあ森さん。いつもチョコレートありがとうございます」と律儀に頭を下げた。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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