22 迷路

(二〇〇六年十一月号)

 僕は今、この原稿を書くために、仕事場の机に向かっている。そしてこの机の上には、九冊のA5サイズの冊子が置かれている。
 冊子の奥付に記載されている発行日は、一九九四年八月から九五年の四月にかけて毎月一冊ずつ。つまり月刊誌だ。発行者はオウム教団の顧問弁護士だった青山吉伸(単行本執筆時点では服役中)で、発行所の欄には株式会社オウムと記述されている。
 本のタイトルは『VAJIRAYANA SACCA(ヴァジラヤーナ・サッチャ)』。サンスクリット語だ。「ヴァジラ」の意味は「決して壊れない」、「ヤーナ」の意味は「乗りもの」で、「サッチャ」は真理。「ヴァジラヤーナ」は通常、金剛乗と訳される。
『ヴァジラヤーナ・サッチャ』が創刊される前の一九八七年七月から九一年九月まで発行された教団機関誌の名前は『マハーヤーナ』(MAHA YANA)だ。意味は「大きな乗りもの」。つまり大乗だ。『ヴァジラヤーナ・サッチャ』はそのタイトルが殺人教義と訳されたタントラ・ヴァジラヤーナを想起させるため、九五年八月に『アヌッタラ・サッチャ』に名称を変えたが、これは創刊準備号と第一号で終わっている。まあ当然だろう。そもそもあの時期にPRのための会報を新たに出そうと考える状況判断の甘さと稚拙は、いかにもオウムらしい。
 大乗の教えの根本には、真理の教えを多くの人に広めるという啓蒙的な思想がある。だから大乗の修行者は、この世界や他の人たちと積極的な関わりを持ちながら教えを広めると同時に、自らの修行も進めることを目標とする。釈迦入滅から数百年が過ぎた頃に仏教内の改革運動として始まった大乗は、アフガニスタンから中央アジアを経て、中国や韓国、日本などに伝播した。
 これに対して、そもそもの釈迦の教えに近い上座部仏教(小乗)は、釈迦入滅後にインドからスリランカやタイ、ビルマなどの東南アジア圏に定着した。修行者個人が解脱・悟りへと到達するための教えであり、修行における実践においては、外界や自分以外の人との接触はできるだけ避け、ひたすら自己の浄化を進めていくことが特徴だ。
 もっとわかりやすく喩えれば、小乗(ヒナーヤーナ)は一人しか乗れない乗りものだ。つまり自転車。修行者は必死にペダルを踏みながら、己自身の解脱を目指す。大乗は大型バスだ。自分以外にもたくさんの人が乗る。運転手である修行者が目的地に近づけば、他の乗客への功徳にもなる。
 では、オウムの機関誌に名づけられたヴァジラヤーナ(金剛乗)とは何か。警察庁のホームページのトップページには、「公安の維持」なる項目がある。これをクリックすると、さらに幾つかの項目が表れ、「焦点―オウム真理教~反社会的な本質とその実態~」をクリックすれば、以下のような説明に辿りつく。

 今も生きる〝殺人教義〟「タントラ・ヴァジラヤーナ」
 オウム真理教の教義は、松本智津夫が様々な既成宗教の教義を部分的に取り入れ、独自の解釈を加えて確立したものです。その中には、教団の利益に合致すれば、殺人さえも教団の救済活動として許される場合もあるとするきわめて反社会的なものもあります。かつて信者たちは、この教義に基づいて殺人を含む数々の組織的犯罪を引き起こしました。
 現在も、オウム真理教は、その〝殺人教義〟を破棄するどころか、その根幹に据え、松本智津夫の説法をホームページや信者向けの定期刊行物に散りばめています。オウム真理教の信者は、今でも松本智津夫やその子供の写真を祭壇に掲げ、写真に向かって拝礼し、教義を繰り返し学習しているのです。
 また、一連の事件に関与して逮捕されながらも、釈放後6割近くの信者が復帰しているほか、依然として松本智津夫に対する帰依を表明している者が多数います。
 オウム真理教は、その機関誌によれば、「オウム真理教進出阻止」のための住民運動や関係省庁による対策など社会全体の警戒感の増大を〝弾圧と迫害の荒波〟と捉え、信者に教え込んでいます。

 地下鉄サリン事件以降のメディア全般で、あるいは麻原や幹部信者たちが裁かれる法廷で、「タントラ・ヴァジラヤーナ」は殺人教義と訳されながら、特に検察側の主張の際にはとても頻繁に使われた。麻原にとっては五冊目の著書となる『マハーヤーナ・スートラ』が刊行されたのは一九八八年二月。副題が「大乗ヨーガ経典」である『マハーヤーナ・スートラ』は、オウムの教義や修行方法が体系的に記述されていて、この時期においては教義の集大成の位置づけにある。ここにはタントラ・ヴァジラヤーナについての記述はない。
 この年の七月、弟子たちとともにインドに渡った麻原は、ダライ・ラマのイニシエーションを受けると同時に、チベット仏教の高僧であるカール・リンポチェに会い、ヴァジラヤーナ(タントラヤーナ)を伝授されたと教団機関誌『マハーヤーナ』で述べている。一九八八年八月五日の説法で麻原は、ヴァジラヤーナについて次のように説明している。

 大乗の上にあって、はい。いいか、ヴァジラヤーナの定義というものは、すべての現象を、諸現象を完壁に解析し切ることだ。もちろん、それは大乗を背景としていなければならない。いいか。じゃあいったい、その諸現象とは何かというと、自己の煩悩だね、あるいは他の煩悩だ、これを解析し切って、昇華して、そして完全にその煩悩から解放されると。これがヴァジラヤーナの教えであると。

 ヴァジラヤーナとは煩悩から完全に解放されること。ここには殺人教義の要素はまったくない。でもこの説法から二カ月も経たない一九八八年九月二十四日、世田谷道場で麻原は、信者たちにこう語っている。

 例えばここにだよ、Aさんという人がいたと。いいですか。このAさんは生まれて今まで功徳を積んでいたので、このままだと天界へ生まれ変わりますと。いいですか、ここまでは。じゃあ次の条件ね。ところが、このAさんには慢が生じてきて、この後、悪業を積み、そして寿命尽きるころには、地獄に落ちるほどの悪業を積んで死んでしまうだろうと。いいですか。こういう条件があったとしましょうと。(中略)
 すべてを知っていて、生かしておくと悪業を積み、地獄へ落ちてしまうと。ここで例えば、生命を絶たせたほうがいいんだと考え、ポアさせたと。この人はいったい何のカルマを積んだことになりますか。殺生ですかと、それとも高い世界へ生まれ変わらせるために善行を積んだことになりますかと。ということになるわけだよね。でもだよ、客観的に見るならば、これは殺生です。客観というのは人間的な客観的な見方をするならば。
 しかし、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポアです。そして、智慧ある人は――ここで大切なのは智慧なんだよ。智慧というのは――わたし先程何て言った?――神通力と言ったよね。智慧ある人がこの現象を見るならば、この殺された人、殺した人、共に利益を得たと見ます。OKかな、これは。ところが智慧のない人、凡夫の状態でこれを見たならば、「あの人は殺人者」と見ます。どうかな、これは。

 この説法からほぼ一週間後の一九八八年十月二日、竣工したばかりの富士山総本部道場で麻原はヴァジラヤーナについて、今度は「グルのクローン化」だと述べている。

 金剛乗(ヴァジラヤーナ)の教えというものは、もともとグルというものを絶対的な立場に置いて、そのグルに帰依をすると。そして、自己を空っぽにする努力をすると。その空っぽになった器に、グルの経験、あるいはグルのエネルギー、これをなみなみと満ち溢れさせると。つまり、グルのクローン化をすると。あるいは守護者のクローン化をすると。これがヴァジラヤーナだね。
 そして、オウムのこの三年の足取りは、まず小乗を説いたと。それは、四念処の観によって小乗を説いたと。我身これ不浄なりと。感覚そのものは苦悩であると。そして、人の心というものは絶えず変化すると。観念というものは自己を苦しめるものであって、それは真実ではないと。身・受・心・法といわれるものです。そして次に『マハーヤーナ・スートラ』をはじめとする善行を説いたと。功徳がベースであると。功徳によってこの現象は変わり得ると。そしてあなた方、わたしの弟子は激しい修行によって自己を空っぽにし、グルだけを意識することによって、グルの神聖なエネルギーをあなた方に注入されると。それによってあなた方は霊性の向上を行なうと。
『ヴァジラヤーナコース 教学システム教本』

 聞き手のレベルによって言い方を変えているという可能性はあるけれど、たった数カ月のあいだにヴァジラヤーナの解釈が、「煩悩から完全に解放されること」から「ポアによる殺人の正当化」、さらに「グルのクローン化」へと変わっている。時間の経過とともにより過激になったというのならまだ理解しやすいが、そういうわけでもないようだ。タントラに金剛乗、あるいはヴァジラヤーナなど言葉の使い方も含めて(この時期には「タントラ・ヴァジラヤーナ」との言い方はしていない)、どうも錯綜しているかのような印象がある。
 一審で検察は麻原が大きく変わった理由として、一九九〇年の衆院総選挙惨敗をあげ、判決でも認定されている。小乗的な性格を有すヨーガのサークルとして始まったオウムは、やがて世界の救済のために信者を増やすという大乗的なメカニズムを打ち出す宗教集団に変わり、その大乗的な実践である政界進出の目論見が失敗すると同時に金剛乗的なニュアンスに変質したと考えれば、確かに構図としてはわかりやすい。つまり多くの人をバスに乗せようとした(選挙)のに誰も乗ろうとしない(全員落選)から逆ギレしたという構図だ。

 でも変質はその前から始まっていた。ヴァジラヤーナについて麻原が説法などで言及し始めた一九八八年は、オウム神仙の会をオウム真理教に改称した翌年であり、教団が急激に膨張して、ニューヨークやモスクワ、スリランカに支部を置いた時期でもある。
 つまり宗教団体としてはまさしく絶頂期だ。ところがこの年の九月下旬、オープンしたばかりの富士山総本部道場で修行に参加していた在家信者である真島照之(薬物中毒を治療するために修行していたとの説がある)が突然大声をあげて暴れだしたため、一部の信者たちが真島を裸にして浴槽で頭から水をかけ続けていたところ、脈が停止するという事件が起きた。あわてて駆けつけた早川や村井たちが中心となって人工呼吸や心臓マッサージなどの蘇生処置を施し、さらに知らせを聞いた麻原も駆けつけてエネルギーを移入するなどの処置を行ったが、結局はそのまま死亡した。
 ここまでは事故だ。誤った判断や不手際はあるけれど、少なくとも違法行為は犯していない。でも教団はこの事故死を警察に通報せず、遺体を教団内で焼いて遺骨は近くの湖に流した。この行為に従事した早川紀代秀は、その共著書『私にとってオウムとは何だったのか』(ポプラ社)に、その理由を記している。

 どうしてそんなことになったかと言いますと、グル麻原から、もしもこの事故が公になると救済計画が遅れると言われたからでした。また、真島さんのためには一刻も早くポア(魂を高い世界へ転生させること)をしないといけないが、ポアのためには遺体を教団で処置したほうがよいこと、さらに平田(水をかけるように指示をした幹部信者=引用者註)の医師資格を守ってやるということからも公にしないほうがよいということだったのです。

 さらに早川は、村井と岡崎、岐部哲也の四人で遺体を焼却しているとき、グルが真島の魂を天界へポアしたとの連絡が届き、「良かった」と思うと同時に「うらやましい」とさえ思ったことと、「これはヴァジラヤーナへ入れとのシヴァ神からの示唆だな」と麻原がつぶやいたことを記述している。
 この男性信者死亡事件から四カ月後の八九年二月十日、出家信者で真島事件の一部始終を目撃していた田口修二が、麻原への不満や不信を訴えながら脱会を希望したために独房に入れられた。もしも脱会を認めれば真島事件の真相が明かされてしまうと考えた麻原は、早川たち幹部信者に田口への説得と、もし説得しきれなければ殺害するようにと命じ、どうしても説得に応じなかった田口は、早川と村井、新実と岡崎、そして大内利裕ら幹部信者に殺害される。
 こうしてオウムは一線を越える。罪の意識に苛まれる早川たちは、麻原から詞章を唱えるようにと指示される。

 ここに真理がある。そしてその障碍するものを取り除かないとするならば、真理はすたれてしまう。しかし、障碍するものを取り除くとしたならば、それは悪業、殺生となってしまう。私は救済の道を歩いている。そして多くの人の喜びのために多くの人の救済のために悪業を積むことによって地獄へと至るとするならば、それは本望だろうか。私が救済の道を歩くということは、他のために地獄に至ってもかまわないわけだから本望である。

 多くの人を救うための悪業はやむをえない。麻原が実行犯たちに与えたこの詞章は、殺生を悪業と見なしているという意味では、まだヴァジラヤーナとして完成されていない。でもこの事件から二カ月後である一九八九年四月七日、富士山総本部で麻原は、信者たちに以下のように説いている。

 例えば、ここに悪業をなしてる人がいたとしよう。そうするとこの人は生き続けることによって、どうだ、善行をなすと思うか、悪業をなすと思うか。そして、この人がもし悪業をなし続けるとしたら、この人の転生はいい転生をすると思うか、悪い転生をすると思うか。だとしたらここで、彼の生命をトランスフォームさせてあげること、それによって彼はいったん苦しみの世界に生まれ変わるかもしれないけど、その苦しみの世界が彼にとってはプラスになるかマイナスになるか。プラスになるよね、当然。これがタントラの教えなんだよ。

 金剛乗の危険な側面を示す典型的な説法としてこのフレーズは、メディアや法廷の場においても頻繁に引用された。確かにこのまま解釈すれば、「悪い人は殺して救ってあげよう」との教えなのだから、とても危険な思想であることは間違いない。
 しかし実際の説法では、このあとに麻原は、この過激な教えの実践については、担保条件を付けている。

 ただ、これは深遠で難しい。どうしても心の弱さが出ると、そこまで断定的に判断することはできないと。ただ君たちがだよ、今生で最終解脱を考えているんだったら、最も強い心の働きを持ちなさいと。だまして教化できる範囲っていうのは決まってるんだね。相手が真理と、それから真理じゃない中間状態にある場合は、だまして真理へ連れてくることができると。しかし完璧に悪業をなしていて、もう全く真理との縁がないと。この人はトランスフォームした方がいいんだ、本当は。
 そういうとある人はこう考えるかもしれないと。いや、それは完全に排他的な心の現われじゃないかと。でもそうではないんだね。排他的な心の現われではなくて、それは相手に対する愛なんだよ。

 肯定のようにも読めるし、否定にも読める。積極的な促進でもないが、かといって抑制でもない。とても曖昧だ。最後に「愛なんだよ」とまとめられても(実際にはこの後も説法は続いている)困惑するばかりだ。僕がもし弟子の一人としてこの場にいたならば、「尊師、結局のところはどっちなのでしょう」と訊いているだろう。
 いずれにせよ麻原にとってのタントラ・ヴァジラヤーナは、「煩悩から完全に解放される」というきわめてオーソドックスなレベルから始まって、その四カ月後には「救済のためには悪業をあえて犯す」に変わり、さらにその二カ月後には「悪業をなす人を殺して転生させてあげることも救済である」に変質している。つまり事故死とその遺体の不法な処理、そしてこの不法な処理を隠蔽するがための殺人。現実に起きたこれらの事件を整合化するために、タントラ・ヴァジラヤーナについての麻原の認識が、段階的に変化したとの見方もできる。
 ここで、ここまでの麻原の足取りを、もう一度トレースしてみよう。薬事法違反で逮捕された二十七歳の麻原は、この翌年にヨーガの道場である「鳳凰慶林館」を、東京都渋谷区桜丘に開設する。麻原彰晃を名乗り始めたのもこの頃だ。後の幹部信者である石井久子や飯田エリ子、山本まゆみらは、この時期に入会している。一九八四年二月に「鳳凰慶林館」は「オウムの会」に変わり、五月には「株式会社オウム」が設立されている。2DKのマンションの一室で麻原は、石井や飯田らとともにヨーガの修行に没頭し、また鍼灸の治療も行っていた。島寿司の中島の話からは金儲けに邁進していた時期であると考えたくなるけれど、学生などが治療を受けにやってきたときには、「お金はいいよ」と料金を受け取らなかったこともあるという。サリン事件の翌年に髙山文彦が『月刊現代』に連載した「日本を震撼させた怪人の軌跡」から引用する。

 そのころ道場に通っていた学生のひとりは、
「当時のオウムは、宗教めいたところはまったくありませんでした。もちろん、ハルマゲドンということも麻原さんは言ってなかった。山本まゆみ、飯田エリ子、石井久子……みんなまじめで、いいひとたちでした。純粋にヨーガの修行をおこなっていたんです。麻原さんも、解脱できない、解脱できない、と頭をかきむしりながら、みんなといっしょに修行を重ねていました」
 とふりかえる。
(一九九六年六月号)

 一九八五年、オカルト総合雑誌として発行されていた『トワイライトゾーン』(ワールドフォトプレス)十月号に、空中浮揚をするヨーガ修行者として(記事タイトルは「神を目指す超能力者」)、麻原は大きく紹介された。
「麻原彰晃氏。あと一年もすれば、空を自在に飛ぶ人である」
 との書き出しから始まり、
「麻原氏の中には、地球、自分、宇宙、神々……超大な計画がもくろまれているのかもしれない」
 で終わる記事とともに掲載された麻原の空中浮揚の写真は、サリン事件後は多くのメディアで、空中浮揚などしていない証拠として頻繁に使われた。確かに宙に浮いているけれど、麻原は顔をしかめながら歯を食いしばり、髪も逆立っている。明らかに浮揚というよりもジャンプの瞬間なのだ。
 この記事を書いた高井志生海は、サリン事件後に出版された『ジ・オウム』(太田出版)で、麻原の印象を記述している。

 まずは気さくな印象がある。年配の取材対象者が多かった中で、若くて元気があったせいもあるだろう。話を始めると止まらない。外へぐいぐい広がっていくような向上性と発展性を求める性質と見受けられる。雄弁闊達。野心ある理想家肌の人物。
 (中略)率直にいえば、私は初対面の麻原氏に、特別の悪感情は湧かなかった。彼は霊的に脅かしてよい原稿に仕上げさせるなどといったこのオカルト界の常套の手法を一切とらなかった。取材時に見せた腹の内臓をぐるぐる回す「ナウリ」というヨガの所作は、彼が少なくともヨガを懸命に続けた人であることを示していた。

 高井が述懐するように、この時期の麻原には宗教めいた気配はほとんどない。あくまでもヨーガのトレーナーだ。だから集まっていた弟子たちはメンバーであり、麻原も先生と呼ばれていた。
 これ以降は『トワイライトゾーン』や『ムー』などの雑誌に頻繁に記事や広告が載ると同時に、一般を対象にした集中セミナーなども行われるようになる。一九八六年三月には麻原にとって最初の著作である『超能力「秘密の開発法」』が出版された。内容においてはヨーガの技法を身につけるためのメソッドの記述が主で、宗教的な要素はまだ希薄だ。
 翌月に「オウムの会」は「オウム神仙の会」と改称される。またこの年の五月と七月にインドへ渡った麻原は、ヒマラヤのガンゴトリの麓で瞑想し、解脱を果たしたとされている。このとき三十一歳だ。
 この年の十二月、麻原は二冊目の著作『生死を超える』を発表する。ヨーガの修行法を実践的に記述したとされるこの本のプロローグである「はじめに」において麻原は、修行を進めるためにインドへと渡り高名なヨーガ行者(世界的に有名なパイロット・ババのこと。ただしこの本で麻原は固有名詞を明示していない)の弟子となったが、結局はこの行者は自らの生活を維持することにのみ関心がある俗物なので、一人でヒマラヤ山中にこもって解脱したと語っている。

 このように紆余曲折の末、私は解脱を果たした。解脱とは期待に違わず、素晴らしいものだった。苦は滅し、生死を超越し、絶対自由で絶対幸福の状態――、その表現には少しの誇張もなかった。あの釈迦牟尼仏も、この状態を得ていたのだ。
『生死を超える』

 実際に解脱を果たした当人の記述としては、この描写はあまりに凡庸で抽象的すぎて物足りない。でも『生死を超える』巻末に載っている当時の五人の弟子たちの空中浮揚の写真は、『トワイライトゾーン』に掲載されていた麻原の写真よりははるかに説得力がある。おそらくはシャッターを押すタイミングなのだろうが、まさしくふわりと浮いているように撮られている。ところがこのときも麻原は、例の歯を食いしばって髪が逆立った空中浮揚の写真を、弟子たちの写真と並べて掲載している。明らかに見劣りがする。この時期はまだかろうじて視力はあった。普通なら撮り直すはずだ。でも麻原はこの写真を使い続けた。『超能力「秘密の開発法」』では、表紙カバーにまで使っている。
 なぜなら本気だったからだ。
 道場で解脱できないと頭を搔きむしっていた麻原は、本気で修行をしていたのだろう。島寿司の店主である中島に、「人間頭を使うとこれだけ金儲けができるんだよ」と言いながら札束をちらつかせて見せたのはこの数年前だ。中島の時制の記憶に間違いがないのなら、この時期には金の亡者に成り下がっていたと思いたくなるけれど、貧乏な学生からは会費を取らずに教えていた。
 どっちだろうと悩む必要はない。どっちもある。胴巻きに札束を入れながら麻原は、懸命に修行に励んでいた。人はそんな存在だ。多面的だし矛盾している。でもメディアというフィルター(これはもちろん僕の映画や本も含めて)は、この多面性と相性が悪い。特にマスメディアの場合、相反する場合にはどちらかを削ぎ落としながら、多くの人が支持する単面ばかりを探して強調する。
 つまりメディアとマーケット(視聴者や読者)の相互作用。互いに互いを刺激し合いながら高揚する。言ってみれば、視聴率や部数という神経伝達物質をやりとりするニューロン(神経細胞)とレセプター(受容体)の関係だ。削ぎ落とされた端数はやがてゼロ(なかったもの)になり、残された(わかりやすい)整数ばかりがすべてになる。
 これはメディアの必然だ。回避はできない。だからこそこの端数に、常に思いを巡らすような接し方(リテラシー)が必要だ。
 不恰好な空中浮揚の写真は、麻原自身にとっては、本当に空中に浮揚したという実感を持った瞬間の写真だったのだろうと僕は推測する。だからこそ見た目は無様であっても使い続けた。
 この写真が初めて掲載された『トワイライトゾーン』一九八五年十月号のインタビューで麻原は、「二〇〇六年には核戦争の第一段階は終わっているでしょう」と述べている。核戦争は浄化の手段であり、その後には「仏教的・民主主義的であり、完璧な超能力者たちの国」が残るという。また同記事には、麻原が神奈川県三浦海岸で五体投地の修行をしていたとき、天から降りてきた神が「あなたに、アビラケツノミコト(神軍を率いる戦いの神)を任じます」と言ったとの記述がある。
 この頃に入会した上祐史浩(現在は「ひかりの輪」代表)は、これらの記事を引用しながら自身のウェブサイトで、以下のように解説する。

 このように、きわめて初期の頃から、すでに武力行使を容認する思想の萌芽が見られることがわかります。
 これは、いわゆる「お告げ」に類するものであり、科学的には証明できないことであるにもかかわらず、絶対視する傾向が麻原には見られます。こうしたお告げやヴィジョン(幻視)を絶対視して突っ込んでいく傾向は、その後の麻原に一貫して見られる傾向でした。

 確かに『トワイライトゾーン』のこの記事には、核戦争というハルマゲドンと武力行使の整合化という二つの要素の萌芽が認められる。ただし記事全体を読んだかぎりでは、切実な印象があまりない。『トワイライトゾーン』の読者層(ハルマゲドン関連は定番の特集記事だ)を意識しながら、ついでに流行の思想を口にしたという雰囲気だ。
 でも萌芽ではある。それは確かだ。あとはこの小さな芽に、どのような栄養が与えられたかを考察しなければならない。
 この後も会員は増え続け、一九八六年には、後の出家制度の原型となるサンガ制度が始まった。セミナーなどで説法をするようになったのもこの頃だ。東京新聞社会部記者である瀬口晴義が書いた『検証・オウム真理教事件』(社会批評社)によれば、当時の会員たちはサンガ(横浜に借りた一軒家)に住み込みながら修行を続けていた。アルバイトなどで百二十万円を稼いでお布施した時点でサンガを卒業し、その後は世田谷区上町の本部に住み込んで、オウム出版の営業などを手伝うシステムだ。
 この時期に麻原はシャクティパットを行い始める。グルが親指を弟子の眉間に当てながら霊的なエネルギーを注入するというこの技法について麻原は、クンダリニー(すべての人が持っているとされる霊的エネルギー)の覚醒を促進し、解脱のためにはとても重要なステップであると述べている。
 事件後のメディアでは、ポアや空中浮揚と同じように揶揄や嘲笑の対象にされたシャクティパットだが、多くの元信者たちが、実際に「光を見た」とか「熱を感じた」などと証言していることは確かだ(もちろん、いわゆるプラシーボ効果として切り捨てることもできる)。
 一九八七年一月、大阪支部が開設された。さらにこの年の二月、麻原はインドでダライ・ラマと最初の対談を行っている。三月には三冊目の著作『超能力「秘密のカリキュラム」』、そして八月には秩父で行われたセミナーにおける説法を収録した四冊目の著作『イニシエーション』が出版される。驚異的なペースだ。もしもこの時期の麻原に年賀状を書くのなら、「ご活躍、とても頼もしく思っています」などと一筆書きたくなる。
 ただし『イニシエーション』は、麻原が書いたものではなく、説法を採録した書籍だ。これ以降の麻原の著作は、すべてこのスタイルとなる。おそらくは目の状態が悪化したのだろう。またこの著作では、八正道や十二縁起などの説明にかなりのページを割いており、それまでの著作よりは明らかに仏教的な要素が色濃くなっている。
『イニシエーション』が出版される一カ月前、麻原はヨーガの集団である「オウム神仙の会」を、宗教の集団である「オウム真理教」に改称した。このときの麻原は、まずは「これからの会の進路はヨーガ系か仏教系か」と弟子たちに訊ね、次に名称を変えることを提案している。

「神仙の会の名称を変えたい。どんな名前がいいだろうか」
 ヨーガ系か仏教系かの問い掛けから間もなく、麻原は弟子たちに相談を持ち掛けている。
「真理教なんてどうだ」
 麻原の突然の提案に、石井を除く全員が強い拒絶反応を示した。
「みんな『えー』という反応でしたね。宗教じゃないという感覚でやってきたのに、『真理教』じゃ、いかにも新興宗教と同じじゃないですか」
 猛反発を受けていったんは撤回したが、翌日には名称を「オウム真理教」とすることが決められた。
『検証・オウム真理教事件』瀬口晴義

 このときは名称変更後に会員の三分の一がやめた。残った会員の一人から「やっぱりあの名前がまずかったんじゃないでしょうか」と詰られた麻原は、「それはしょうがないな」と淡々として答えたという。会員(つまり収入)を増やすことよりも宗教としての道を目指すことに強い情熱を持っていたとの解釈もできるし、最終的にはヨーガよりも宗教のほうが儲かると考えていたとの解釈もできる。
 いずれにせよヨーガのサークルとして始まったオウムは、オウム真理教という名称を手に入れながら宗教団体へと変貌した。いつのまにか「先生」の呼称は「尊師」となっていたが(一時的ではあるが「大師」と呼ばれた時期もある)、石井や飯田など古参の信者たちはずっと先生と呼び続けていたし、麻原も特にこれをとがめなかった。ちなみに弟子たちは、最初はスタッフと呼ばれていたが、やがて出家信者たちはシッシャ(サンスクリット語で弟子の意味)と呼ばれるようになり、すぐにサマナなどの言葉が使われるようになった。僕が知る事件後のオウムについては、サマナという呼称が一般的だった。

 オウム真理教に名を変える少し前に、麻原は石井久子が解脱したと述べている。続いて岡崎一明、上祐史浩、山本まゆみの解脱が認められ、彼らは教団内で大師と呼ばれるようになる。一定のステージに達したと見なされた信者に麻原がホーリーネームを授けるようになったのもこの頃だ。
 オウムの変遷にはいくつかのポイントがある。出家制度はそのひとつだ。特に一九八八年の富士山総本部道場開設以降、出家制度は前面に打ち出されるようになる。それ以前にもサンガ制度はあったけれど、麻原はむしろ出家を否定するかのような説法をしていた時期もある。結婚してすでに妻や子供がいる麻原は、家族と別離しなくてはならない出家ではなく、在家信者であることを選択したからだろう。だからこの時期の麻原は、石井など成就した出家信者に対してしばしば敬語を使っていた。
 麻原が提唱する修行システムによって、弟子たちは「光が見える」「強い快感を得た」などを体験した。前述のように麻原は自らの解脱体験で、具体的なビジョンを獲得できていない。だからシャクティパットも含めて弟子たちが語る体験談は、麻原にとって、自分の考案した修行プログラムは間違っていなかったとの確信を深めさせる役割を果たしていた。
 視聴者がいるからテレビがある。読者がいるから書籍がある。そして弟子たちがいるから教祖がいる。ヨーガの修行なら単独もありえただろう。でも麻原はヨーガから仏教へと軌道を修正した。さらに、個人的な修行である小乗から、大衆救済の大乗へとレールを替えた。弟子がいたからこその転身だ。自らの理論と弟子たちの体験が相互に作用し合いながら、サークルは宗教集団へと変わってゆく。こうして次の段階が始まる。
 一九八七年十一月、ニューヨーク支部が開設された。翌年の六月に支部を訪ねるために渡米した麻原は、帰国してすぐにインドへと飛ぶ。ダライ・ラマからイニシエーションを受けるためだ。前述したように、このときにチベット仏教の高僧であるカール・リンポチェに会った麻原は、修行を一気に進めるためのチベット密教の秘儀である「タントラヤーナ」について学ぶ。
 翌八八年にリンポチェは、麻原の招きで富士山総本部道場の開設セレモニーに出席している。それほどに麻原はリンポチェから影響を受け、また絶対的な信頼を寄せていた。前世のグルだったと言っていた時期もある。
 早坂武禮が書いた『オウムはなぜ暴走したか。』(ぶんか社)によると、来日した翌年の八九年五月十日にリンポチェは逝去しているが、その三日前の五月七日に麻原は、「瞑想中に『リンポチェは死んだ』との声を聞いた」と言い出して、大慌てでビザの申請やフライト手配などを命じ、弟子たち二十人ほどを引き連れて、十一日にインドへと向かっている(この旅には早坂も同行した)。
 もちろんこの段階で、リンポチェのサイドから連絡など来ていない。同行した弟子たちも半信半疑だったが、到着すると同時に数日前に逝去していたことを確認し、リンポチェの親戚や弟子たちを驚かせたという。
 リンポチェから「タントラヤーナ」について学んだこの時期、麻原は「ヴァジラヤーナ」についても説法などで言及しているが、「タントラ・ヴァジラヤーナ」という言葉はまだ生まれていない。この二つをまだ峻別はしていなかった。あるいは意味が重複していた。
 一九八八年八月に行われた富士山総本部道場の開設セレモニーの前日、麻原は「ヴァジラヤーナとは大乗を背景としながら完全に煩悩から解放されることだ」と述べている。ここには人を殺すことを整合化するような要素はまったくない。この時点で(教団機関誌によれば)在家信者は三千名で出家信者は一二五名になっている。出家制度を本格的に採用して以降、村井秀夫など多くの出家修行者が富士山総本部道場で成就を認められ、麻原の側近となってゆく。
 ところがこの時期、麻原は体調の悪化を理由に自らが行うシャクティパットを中止し、石井や上祐など高弟たちに任せ始める。『オウム真理教大辞典』(東京キララ社)のシャクティパットの項目には、「一度に数百人もの信者へシャクティパットを施した麻原は倒れたふりをしたこともあった」と記述されている。何のためらいもなく「ふりをした」と記述されているが、本当に「ふりをした」かどうかの判断は難しいはずだ。「ふり」の可能性はもちろんある。でも可能性だ。この時期に周囲にいた多くの信者たちが、実際に顔色が悪く病人そのものだった麻原を目撃している(念を押すが、これがシャクティパットの副作用であるとの断言はできない)。
 この連載十三回にも登場し『A2』の被写体でもあった松尾信幸は、在家信者時代に上祐史浩からシャクティパットを授かったとき、道場からの帰りに寄ったゲームセンターでいつものようにテトリスを始めたら、たった百円でいつまでも終わらずに困惑したという話を聞かせてくれた。このときは「なんだかばかばかしいな」と笑う僕に、「でも効果は確かにありましたよ。思い込みと言われればそれまでだけど」と松尾は言った。
 麻原がシャクティパットをやめた時期は、説法で「タントラ・ヴァジラヤーナ」という言葉を使い始めた時期と一致する。ただしこの頃は「グルの徹底したクローン化」という意味で使っていて、危険な要素はまだ語られていない。
 サリン事件から二年以上が過ぎた一九九七年九月十日、林郁夫の第一五回公判に提出された弁護側による冒頭陳述の補充書は、

(社会への恨みと報復を抱いた)麻原は、チベット密教のタントラ・ヴァジラヤーナの教えを捩じ曲げて殺人を正当化し、自分の意のままに動かせる武装集団をあやつって日本に暴動を起こし、自分を受け入れようとしなかった社会や国家権力を打倒して、祭政一致の国家を作って自分はその最高権力者になろうとした。

 と事件を総括した。宗教学者の島田裕巳は『オウム︱なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー)で、この補充書の記述には林郁夫の意向が強く反映されていると分析している。
 確かにタントラ・ヴァジラヤーナは、安全で人畜無害な思想ではない。でも連載初期で引用した浄土真宗本願寺派の戦時中の布告が示すように、あるいはキリスト教の歴史における十字軍遠征や異端審問が示すように、あるいは現在のイスラム過激派の自爆テロが示すように、死への不安や恐怖を軽減することが重要な機能である宗教全般に、この危険性は常に内包されている。もちろん宗教全般が普遍的に持つ属性だとしても、これを実践するかしないかの違いは大きい。世俗化の過程は、この危険性を薄衣で幾重にも被うことでもある。ただし消えてはいない。保持はしている。だからこそすべての宗教は、戦争や虐殺と親和性が高い。
 つまり信仰は人を殺すことへのハードルを下げる。

 オウムに限ったことではないし、タントラ・ヴァジラヤーナに限ったことでもない。もちろんこれが潤滑油になった可能性はある。でも潤滑油は潤滑油だ。駆動力は別にある。『A』や『A2』を撮りながら、実際に何人もの信者たちと話した実感から言えば、タントラ・ヴァジラヤーナよりも、むしろすべてを試練と解釈するマハームドラーのほうに、僕はオウム暴走のメカニズムが垣間見えると感じている。
 これについては、もう少し取材と思考を重ねてから後述するつもりだ。

A3 目次

『A3』無料公開にあたって
プロローグ
1 傍聴
2 封印
3 面会
4 弁明
5 弁護
6 故郷
7 真宗
8 記憶
9 拒否
10 手紙
11 暴走
12 鑑定
13 信仰
14 鏡像
15 集会
16 父親
17 詐病
18 棄却
19 姉妹
20 船橋
21 刑事
22 迷路
23 孤立
24 死刑
25 視力
26 抗議
27 試練
28 生殺
29 統制
30 独房
31 受容
32 特異
エピローグ
文庫のための新章 残像
参考文献・年譜・オウム真理教組織図
解説

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森達也(映画監督・作家)

‘98年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2011年に『A3』が講談社ノンフィクション賞を受賞。2016年、映画『Fake』を発表。

『A3』

2012年に集英社文庫から出版された『A3』(上・下)を全文公開します。
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