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千葉城(猪鼻城)から佐倉&佐原の旅


千葉駅の側にお城があるのをご存知でしょうか?正しくはお城と呼んではいけないのかもしれませんが。千葉市立郷土資料館の建物が、お城の形をしてると言った方が良いですね。確かにその姿は小田原城と殆ど同じです。この様な型で歴史を残す方法の賛否はあると思いますが、一つのやり方ではあるかもしれません。

見学してみて、その内容の充実さに驚きました。千葉県の元を作った千葉氏の歴史を紹介してまして、引き込まれてしまいました。

実は隣の県なのに以外と馴染みがなかったし、特に気にもしてませんでした。県名にもなってるのに、千葉氏の知名度はかなり低いように思います。

平氏からの流れで名門の家ですし、将門との繋がりも深く親近感を持ちました。更に福島の相馬氏や九州にもその勢力を広めた、日本の武家の中でもかなり力を持った家の歴史を知れました。

律令国家から武士の時代に変換する時代は、我々あずま者がその切っ掛けを作ったのだと、改めて知れました。将門から頼朝が朝廷に対抗して、江戸に続く武家の時代を作って来た日本の歴史に、あずま武士が深く関わりこの千葉でもそれが脈々と続いてきた事実を知る事が出来ました。

東京湾を挟んで三浦氏と千葉氏の果たした役割りは大きな物があると思います。どちらも地名として残ってますし、その名残が各々の地に残ってるロマンを感じます。

そんな千葉家も歴史の流れに翻弄されて、佐倉に引っ越しました。この町も江戸の最後に活躍した人を輩出してます。

ハリスとの交渉で活躍した堀田 正睦もその人です。鎖国政策を辞めて開国した担当者がこの佐倉の殿様でした。今は廃城となり、その城址跡をみてきましが、石垣もない平城だったようです。戦国のきな臭い匂いを感じない可愛らしい雰囲気を感じたお城跡でした。

せっかくここまで来たのでちょっと足をのばして、佐原の伊能忠敬記念館を訪ねようと考え、車を走らせました。

が、時間外で入れませんでした。この町も小江戸と言われてるらしく、こじんまりとではありますが、その風情を残した街並みでした。隣町の潮来と同じ様な水郷地帯の機能がまだ残っている町です。子供の頃家族旅行で潮来の12橋巡りをしたのを思い出して、懐かしくなりました。確か、花嫁がこの船に乗って嫁入りする風習があったと記憶してますが、それは遠い昔の思い出なのでしょうね。

それにしても55歳で日本地図の作成に取り掛かった伊能忠敬って方は、凄い人ですね。

元々は九十九里の出身だそうですが、この地で勉学に励みそれを為し得たその、功績は素晴らしいと思います。

余談ですが、同じような時代に忠敬さんのそれよりは
正確さにおいても劣っているのですが、40年も前に実測なしで日本地図を完成した人がいます。

近いとは言えないですが、隣の国常陸の国(現在の高萩市)の長久保赤水と言う人が完成させ(単なる農民だそうです)流通してたそうです。

何故でしょう。恐らくなんの接点も無いと思うのですが、2人とも太平洋の地平線を眺めて生まれ育ってます。この海岸線はどこまで続いているんだろう?その先はどうなってるんだろう?そんな素朴な疑問からの出発のような気もします。

桓武天皇から平氏が東国で生まれ、その流れから千葉氏が起こり、紆余曲折があり現代まで続いてる歴史があります。

今回はネットで見つけた千葉城からの旅でしたが、知らない事だらけで、とても楽しい旅になりました。成田空港やディズニーランドなど、近代のイメージが強い千葉県ですが、その成り立ちには近隣の人々との永い戦いの歴史があるのが分かり、より親近感を持ちました。

遠くに行かなくても新しい発見はいくらでもあると思います。今後も近県を訪ねるシリーズを企画しようと思います。

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