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【三浦一族を巡る旅】

三浦半島にはロードバイクで4回来てます。
三崎漁港まで行き海鮮を頂き、その独特な台地を軽快に走った記憶があります。

その時にも思ってたのですが、この半島はコッペパンの様な台地に特産の大根や白菜など三浦野菜と言われる地場の産物を生み出しているのです。

その姿が何やら可愛らしく、訪ねる度に笑顔になるのを感じてました。知る限りこの様な地形はここだけであり、北海道の様な気分になります。(経験した事ないので、知らんけど)

〝コッペパン〝の様な台地は今日思いついた言葉です。我ながら言い得て妙だと思います。


写真では分かりにくいけど、なだらかに丸みをおびてます。

さて、今回は遥か昔にこの地を治め半島の名前にもなってる(逆かも知れません)三浦一族を巡る旅です。

先日の歴博で三浦一族を保存する活動をしてる人の講演を聞き、前から気になってたので良い機会と訪ねる事としました。

そうなると前乗りしての有効活用を目指すので、以前行った事のある、白浜毘沙門天側の野営地で車中泊です。

目の前が海岸で、そこに至るにも藪の中を進むような険しい道もあります。昼間でも少し恐怖を感じる程ですから、夜はやはり少し不安になりました。

流石にナビは優れものです、そんな不安もなんのその、目的地まですんなり連れて来てくれました。

幸い穏やかな凪状態で、波や風もなく、満天の星がお出迎えしてくれました。

簡単な車中泊飯とお酒を共にボートした至福の時です。


海まで数メートル。

大筋の予定は決めてたので、遅めの行動開始です。まずは三浦一族が滅んだ油壺の新井城跡を訪ねました。相変わらずの方向音痴をありますが、道がなく辿り着けません。

結局キャンプ場と大学の研究施設の中にある様で、そこに入らなければ行けない事だと判断して諦めました。

次はソレイユの丘の側にある和田城跡を目指します。先日頂いたチラシには明記されてるのですが、Googleでは出てきません。何となくこの辺だろうと散策しましたが、何もありません。

なんと、2連敗です。過去にこんな事はなく、少し落ち込みましたが、メインの衣笠城跡を目指そうと走り出しました。駐車場が明記されてないのが気になります。近辺まで行けば何かしら有るだろうと考えてたのが、災いです。

とんでも無い急坂を登った先にあるのかと思いきや、その先もなにやら怪しいのです。ここまでも、行き止まりや崖の側の劇細道を走らされた事がトラウマにになり、先に進めなくなりUターンしました。

落ち着いて調べてみようと、セブンイレブンに立ち寄り今回の旅を誘導してくれた方(女性)のyoutubeを見て、再トライです。

先程引き返したその先にありました。

平安から鎌倉時代の物ですから、遺構などはさほどありませんが、確実にこの地で三浦氏がこの半島を治めてたのだろうと感じます。

そしてここが第二の滅亡の地なのです。


意外に狭いです。

三浦氏は3度滅亡してますが、その都度立ち上がり現代まで続いてるようです。

現代においても多くの三浦さんが活躍してます。直系か繋がりがあるかなどは不明ですが、三浦の名前を名乗っている以上何かしらの繋がりがあるのかと、ロマンを感じます。

最後に怒田城跡を訪ねます。ほぼ史跡はないのは事前に知ってました。

近くまでたどり着くのですが、本丸まで行けません。今回の旅はほとほと私の方向音痴とGoogle先生の相性が合いませんでした。

住宅地を何度も何度もグルグル回り、あの丘(林)に有る様だと分かりましたが、車で行く事が出来ません。

諦めかけて帰ろうかと思います。しかし、ここまで来て訪ねないのも悔しい限りです。

実は2日前に痛風を発症してしまい、歩くのも困難な状況なのです。

あの坂道を登れるかと、逡巡しましたが近くのセブンイレブンに止めさせて貰い、片足引きずりながら登りました。

そこは基本的に貝塚跡のようで、怒田城跡の記実もありませんが堀跡らしき物があり、この地が第3の滅亡地の様です。


怒田(ぬた)城跡でもあるようです。

ここから房総半島に逃げて生き延びたようです。舟倉と言う地名が残ってるのが、何より証拠です。

この地を舞台に源平始め、北条にも攻められ何度も滅亡と復活を繰り返してきた三浦氏は地元でも人気のようです。

確かに房総半島からみたら半分にも満たない小ささである土地を、一族で守り通した史実は地元の誇りでしょうね。

しかし、あと3日後に迫る小田原ライドが心配です。痛風は治りが遅いのです。

現状靴も履けない状態ですから、もしかしたら痛恨の結果を迎えるかもしれません。

三浦氏を褒め過ぎた北条の祟りか。

結果は報告します。





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