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ミスター・ガラス 割れたガラスは二度割れない

公開中の映画「ミスター・ガラス」が面白かった。シャマラン監督の「アンブレイカブル」「スプリット」「ミスター・ガラス」3部作の最後にあたる作品。原題は「Glass(グラス)」。そっちの方がよかった気もする。3部作はあらかじめDVDなり動画配信で見ておいたほうがいい。第3作だけ見るとほとんど意味がわからない。

見どころは解離性同一性障害者ケヴィン・ウェンデル・クラムを演じるジェームズ・マカヴォイの演技。前作「スプリット」はホラー映画としていろいろな人格が描かれていたが今回はスーパーヒーロー映画ものとしてそれぞれの人格をキャラ立ちさせていて非常に良い。特に9歳のヘドウィグがヤバい。鼻血に注意だ。

脚本はとてもよくできていてシャマラン監督得意のどんでん返しもある。今回はどんでん返しがずばり映画のメッセージになっているところも秀逸だ。正義とは何か、悪とは何かを問いかける内容で、ノーラン監督の「ダークナイト」のようなダークヒーローものが好きな人ならドンピシャだ。

「わかりづらい」という感想も見かけたが3部作を通して見ればわかりやすい。ヒャッハーと頭をからっぽにできるマーベル系の娯楽映画ではないが、スーパーヒーロー映画そのものの意味を考えさせられる面白い内容だ。スーパーパワーをもたないヒロインが重要な意味をもっているということもあり、女性主役のスーパーヒーローものと比べてみても面白そうだ。

以下ネタバレ。

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本作の結末が意味することは「傷ついたものほど人にやさしくできる」「何が正しいかは自分で決めろ」だと思う。3部作は「悪とは何か」という普遍的なテーマが共通していて、最終的には「君にはそれを見極める力がある」になる。

3部作のテーマはざっとこんな感じだ。

「アンブレイカブル」
暴力が正義を生んだ

「スプリット」
群衆が暴力を望んだ

「ミスター・ガラス」
悪とは可能性をつぶすことだ

余談ながら3部作の原題をすべて並べると「Unbreakable Split Glass(割れない割れガラス)」になる。一度割れたガラスは二度割れない、一度傷ついたものは二度と傷つかないよう強くなるという意味にとれて暗示的だ。

「悪とは可能性をつぶすこと」というテーマはブラッド・バード監督の「Mr.インクレディブル」とも共通だ。同作で政府は正義の自警団と悪のテロ組織をともに法で規制する。何が正しくて何が悪いのかは国が決める。結果市民に大きな被害が出ても仕方ない。そんなのおかしいだろ?というメッセージがあった。ミスター・ガラスが最後に残す「人間にはみな無限の可能性がある」みたいなメッセージもまさに同じだ。

列車テロを起こして無限の可能性がある人間を無差別に殺したおまえが言うことなのかという気持ちも若干あるのだが。

ちなみに映画ライターの町山智浩さんはシャマラン監督、ブラッド・バード監督、そして「ウォッチメン」のザック・スナイダー監督は3人とも小説家アイン・ランドの愛読者という共通点があるとツイッターで書いていた。ミスター・ガラスの結末はアイン・ランドの『肩をすくめたアトラス』が下敷きになっているという。

日本アイン・ランド協会(そんなものがあるのね)によれば、アイン・ランドはアメリカで保守の女神とも呼ばれる作家。個人主義・合理主義・資本主義を柱とした作品を多く残しているという。同協会のサイトに雑誌「プレイボーイ」掲載のアルビン・トフラーによるロングインタビューが転載されていて、読むとアイン・ランドの思想がよくわかる。

ただ『肩をすくめるアトラス』を読んでいないのでなんとも言えないが、インタビューからはミスター・ガラスとの共通点が見つからなかった。アイン・ランドは友情や家族の絆より仕事が大事だと言っていて、他人を第一に考える人を「感情的寄生者」と呼んでいる。いわんとすることはわかるものの、ケイシーがケヴィンのためを思いリスクをおかして献身的にはたらいたこととのギャップが大きい。

「オブジェクティビズム運動」を生んだベストセラー作家とのストレート・トーク
https://aynrandjapan.org/page/playboy_interview.html

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次に、傷ついたものはどうやって正しいことをすればいいのか。それをあらわすのが2作目から登場するヒロイン、ケイシー・クックだ。彼女に腕力はないが、人にやさしくできる強い意思の力がある。具体的にはケヴィンを愛することができる。

3作のあらすじをふりかえるとざっとこんな感じだ。

1作目のアンブレイカブルはミスター・ガラスが列車テロを起こして大量に人を殺す。列車テロから生まれたのが不死身の男デヴィッド・ダンだ。ミスター・ガラスは生まれつきの病気で体がガラスのように弱いこと、ダンは幼いころプールに沈められて死にかけたことがそれぞれのトラウマになっている。ちなみに列車テロから2001年9月11日のことを思い出してしまうが劇場公開は2000年なので関係ない。

2作目のスプリットは解離性同一性障害者のケヴィン・ウェンデル・クラムが強化人間「ビースト」になって女子高生と恩師を殺す。ケヴィンに捕まったものの逃がされるのがヒロインのケイシー・クックだ。ケヴィンは幼いころ母から受けた厳しいしつけの虐待がトラウマ。ケイシー・クックも同じく幼いころ伯父から性的虐待を受けたことがトラウマ。おなじトラウマをもっていたことからケイシーは逃がされた。

3作目のミスター・ガラスはミスター・ガラスとダンとケヴィンの3人が集められて「スーパーパワーがあるというのは妄想だ」と精神分析医に説得される。ミスター・ガラスはスーパーパワーの存在を信じ、ダンとケヴィンを正義と悪として戦わせる。ミスター・ガラスが列車テロで父親を殺したことを知ったケヴィンはミスター・ガラスを殺す。ケイシーはケヴィンがビーストになるのを止めようとするがケヴィンは警察に射殺される。ケヴィンと戦っていたダンは精神分析医が所属していた秘密結社に殺される。秘密結社は3人がスーパーパワーを持っていることを秘密にしておく必要があったのだ。しかしミスター・ガラスの策略によって、3人の戦っている映像はインターネットで公開された。スーパーパワーをもった3人は死んでしまったが、力をもった人たちは世界にたくさんいる。傷つくことを知っているものは人より強く優しくなれるのだ、というテーマがほのめかされて終わり。

ケイシーとケヴィンは傷ついたもの同士だが、ケヴィンが暴力に依存したのに対し、ケイシーは暴力から遠ざかった。

ケイシーは2作目ラストで救出されたとき警察官から虐待のあとを確認され、3作目では性的虐待をしていた伯父を刑務所に入れたと言っていた。2作目でケヴィンのトラウマを知ったケイシーは、ビーストになったケヴィンをショットガンで殺そうとするのではなく、ケヴィンを愛することで獣性をおさめようとする。「動物ごっこ」と自分をレイプした伯父のようにケヴィンには弱い女性を襲う暴力的な男になってほしくないということだろう。ケヴィンはしつけに厳しい母親がトラウマとなってビーストになったとき不純と感じる女子高生に襲いかかっているので、ケイシーの伯父の性暴力的レイプとは意味がちがう。言い換えれば更生の余地があるというわけだ。

ケイシーはストックホルム症候群なのかとも考えたが、第2作で最初から最後まで冷静にケヴィンを観察して行動しているところからそれはないと結論した。

ケヴィンは射殺されるが、最後は暴力的な自分でもなく、暴力的な自分を望む「群れ(Horde)」でもなく、弱い自分として死んでいく。自分を愛してくれるケイシーがそれを望んだからだ。ややこしい3部作の中でわかりやすいメッセージだ。

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映画を見たあと思い出したのはいじめの記憶だ。子供のころにいじめられた記憶。逆に自分がいじめたこともあった。弱かったのだ。ひどいものだった。

いじめは正しいとか悪いとかではなく暴力そのものだ。意味がなく、根拠がなく、生産性がない。だから「面白い」ところがあり、弱いものが参加して、いじめは続けられる。お笑い芸人がいじめをやるのは暴力が面白いからだ。しかし暴力は人を傷つけてトラウマを残す。そこで正義や道徳やルールが生まれる。だが暴力をおさめるための暴力も、暴力をやめさせるためルールを守らせることもまた暴力になる。ルールそのものに根拠がないからだ。厳しすぎるルールもまた人を傷つけトラウマを残す。

ならどうすればいいのか。映画にならえば弱い自分自身が強い意思をもってやさしくすればいいのだ。子供のころの自分にそれができるかと聞いたら「怖いからできるわけがない」と答えるかもしれない。でも「たしかにそうやっている子はいる」とも答えたと思う。「あの子みたいにできない。でもそれが良いことはわかる」。

強者と弱者の差が広がり、弱肉強食が尊ばれ、世界中がひどい悪口といじめに支配されていく現在、ミスター・ガラスのメッセージはとても響くものがある。失意の底にある人、傷ついた人が作れる優しい世界は必ずあるのだ。

「ミスター・ガラス」
全国公開中
出演:ブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクソン、ジェームズ・マカヴォイ、アニャ・テイラー=ジョイ、スペンサー・トリート・クラーク、シャーレーン・ウッダード、サラ・ポールソン
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
公式サイト:Movies.co.jp/mr-glass

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