見出し画像

「同性が好きな人、手を挙げて」が【教授法として】失敗している3つの理由。


保健の授業にて
「左利きの人、手を挙げて。」
「AB型の人、手を挙げて。」
いずれも40人中2、3人が挙手する。
次に、
「同性が好きな人、手を挙げて。」
と言うと生徒は失笑する。
「日本に、同性愛者は左利きやAB型と同じ割合でいる。」という話をすると、
笑うのをやめ真剣に聞く。
https://twitter.com/barbeejill3/status/1065175669372411906

学校の先生によるツイート。実際にこの通りの授業を行っているらしい。自分の教授法を参考として紹介しているようだ。

勘弁してくれ。

この先生が善意であることは疑わない。同性愛者がいること。それはおかしなことなんかじゃない。左利きの人がいることや、AB型の人がいることと、まったく同じことなのだ。心の底から、そのことを生徒に伝えたいのだろう。単純に教科書的に、単なる「知識」としてではなく、「身をもって」「腑に落ちた状態で」。生徒に「気づき」を得てほしかったのだろう。この授業を受ければ、生徒は「そうか。数としては左利きと同じくらい同性愛者がいるのだな」とは「理解」するかもしれない。

だが、「理解」は誤解と紙一重なのだ。話がセクシャルマイノリティの存在のように非常にデリケートなトピックならなおさら。

この手法は、端的に言って、教授法として3つの意味で大失敗している。

①同性愛者の生徒への配慮が著しく欠けている
②他者にセクシャリティを問う問題性が伝えられていない
③「左利き」「AB型」であることと「同性愛者」であることの違いが伝えられていない

同性愛者の生徒への配慮が著しく欠けている

おそらく、この先生は、実際に教室で「同性が好きな人」が手を挙げた場合、決してそれを笑わないだろう。教室内がザワザワしたら制止さえするかもしれない。

だが、それがたった一瞬のサスペンドであっても「同性愛者の人は手を挙げて」と教室で、教師の権力をもって問われた側の、当事者の気持ちが一切考慮されていない。「同性が好きな子は手をあげて」。そう言われたときの、当事者の、張り裂けそうな心臓すら想像できずに、それが一体何の「マイノリティ教育」だろうか。

この教師がしていること。それは善意ではあっても、教師という権力を用いた、他者へのカミングアウトの強要であり、マイノリティの安易な「学習教材化」だ。他の生徒の学びになるからと言って、一部の生徒、マイノリティを一瞬でも傷つけていいはずがない。この時点で教授法として失敗している。

クソリプがやっぱり沸いてますね。
そもそもいじめや差別が起こらないようにするために理解を深めるための授業なのに。
いじめが仮に起こればそれは潜在的差別やいじめを起こす未発達な子どもの精神であって、それを正すのも教員の仕事です。
配慮で抽象的な議論だけでは子どもは理解できない。
https://twitter.com/JOA_channel/status/1065186079442010117

だから、その「理解」のために、なぜマイノリティの気持ちが犠牲になっても構わないのか。「クソリプ」で片付けてよい問題ではない。

「左利きの人」「AB型の人」に挙手させた上で、「今、だいたい4、5人手があがりましたね。実は同性を好きな人も同じくらいいます」と言うだけではなぜダメなのか。(血液型についても、特定の血液型の評価が低いなど「血液型差別」の温床に、血液型占いがなぜか膾炙している日本ではなりやすいため、どうなのかと筆者は考えるが)

他者にセクシャリティを問う問題性が伝えられていない

そもそもセクシャリティを(特に公の場で)他者に問うてはならない。これは非常に大事なルールなのだが、この教授法ではそれが教えられていないどころか、逆に教師自らがルールに抵触してしまっている。下手をすると「問うてはならない」どころか、「同性愛者か尋ねることは左利きかどうか尋ねることと同じなのだ」という誤解を生徒に与えかねない。

手を挙げて問題が発生する可能性は十分にありえます。しかしそれは挙げさせたから問題が起きたのではなく、問題が起こる土壌がその場に存在している事が根本的な問題なのではないかと私は思います。
問題が起きないように腫れ物に触れないようにして真の問題から目をそらすことの方が問題かと。
https://twitter.com/JOA_channel/status/1065258046417362950

「問題が起こる土壌」がその場に存在していること、それ自体が問題なのはその通りだ。だが、その「土壌」を確認し掘り起こすために「同性愛者の人は手を挙げて」だとか「あなた同性愛者なの?」と聞いてはならないだろう。

セクシャリティについて(答えを完全に強制さえしなければ)聞いてもよいと考えているとしたら、それは自分たちが「聞かれただけでは別段困らない」マジョリティ、つまりヘテロセクシャル側にいるからだ。同性愛者に対する理解を根本から深めたい、それが差別になってしまう土壌こそ変えるべきという教育意図は結構だが、セクシャリティについて教育するのであれば、まさに「本来であればそうなのだが、それができない土壌があるなら、一体何をしてはいけないか」。このことこそ教師が伝えねばならないことではないか。

「左利き」「AB型」であることと「同性愛者」であることの違いが伝えられていない

左利きであること、AB型であることと、同性愛者であることは、確かにそのパーセンテージで言えば「同じ」ことなのかもしれない。だが「同じ」であることを強調するために「違い」を見逃してしまうとしたら、そのように生徒に教えているのだとしたら、これは教授法として失敗だろう。

そして、問題はまさに「パーセンテージとしては特定の血液型や利き腕と同じはずの同性愛が、現状では、同じように扱ってはならない」ことにある。「同じなのに違う」。その「違う」がどういった事態を引き起こすことになるのか。残念ながら、この教師はそのことをまったく理解していない。


この教師はAB型だろうが、左利きだろうが、同性愛だろうが、同じように対処するという。だが「同じ」ように対処しても「同じ」にならない、そのことがまさに問題であるのに、「本来なら」同じなのだから、同じように扱うべきなのだから、そこに触れないで通り過ぎても何の問題解決にもならないじゃないか、と教師は言う。

以上、3点から見えるのは、この教師の「自分の立場」に対する無自覚だ。教師という、教室で大きな権力を持つ立場への、「教材」として他者を使っても決して自分は使われることはないマジョリティという立場への。

そしてこの「無自覚の暴力性」こそが、こうしたトピックで一番に学ばれるべきことなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?