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何の他意も意図もないけど思ったことを書いていく

昨今のウイルス騒ぎによせた個人的な感覚の話です。


なんだかほんとうに、誰の事も責める気になれない。今も皆さん各々が、日々を目いっぱいに頑張っているものなんだと考えている。

その場所にいる人からしたら「怖いから来ないでくれ!」が真かもしれないし、
その場所に来る人からしたら「仕事もお金もなくて生き延びるためには……」が真かもしれないし、
それらを各々に「ちょっとずつ分かり合おう」って言い出すのもなんか綺麗事な気がするし。

今を目いっぱい存在して頑張っている皆さん個人個人が、誰にどのような思いを持つかも制限できないし。それを言動に移した先に、その言動に対しての善悪のジャッジが生まれたりもする。

この状況でどうしても溜まっていくストレスの解消法も千差万別で、各々が現状に一番合ったものを選んでいく必要があるのかなって思ったり。


自分の価値観にそぐわない他人にムッとしたりとか、色々とあるけれど
誰もが頑張っているから余裕がなくなってムッとしたり、それでわーってなったり。かといってその「わーっ」ってなった言動が許されるものでないこともあったり。「適切」という言葉の難しさを強く感じざるを得ない。

困った人は困っている人」という考え方を思い出す。周囲から見て困った言動をする人は、本人自身が困り事を抱えている場合が多い、という内容だ。なんだか私は、どうせ誰に対して何ができるわけでもないが、しかし誰かに対して「周りを困らせているのだから悪だ」という気にもなれない。自分にはどうせそんな無責任な言葉を投げつけるくらいしかできないからである。無責任かつ相手を明確に傷付ける言動ならば、存在しない方がよっぽどましだ。


自分にはただ感染対策含めてできる限りのことをやっていくことしかできなくて、あとはもうただ周りの人を不安にさせないようにさせないようにと、最近はずっとそればかりを考えている。

皆さんが膨らみ切った風船のように見えることがある。少し刺激を与えればパンと割れて、爆発して怒鳴って殴りかかってくるような、そういう存在に見えることがある。だから私は相手を不安にさせないようなふるまいをしなければ。ひたすらにそれしか考えられないのである。


そんななか、先日の通院で主治医から「投影性同一視」という言葉を教わった。多分私のなかでもこの現象が強くなってきているのかもしれない。気を付けていかなければと思う。


今も「こんなことを書けば誰から何を言われるか」「きっと誰かから怒られるのだろうな」と思いながらこの文章を書いている。しかし私は、陽性者含めて誰かの事を怒って団結をするような私刑(リンチ)に参加する気だけは、絶対にない。

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