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【解説】七夕ゼリー食べてない書店員の七夕解説

7月7日は七夕!


7月7日は暦の上では七夕です。
地域差はあれど、「織姫と彦星が会う日」とか、「短冊に願い事を書く」、「笹の葉に七夕飾りをつける」といったイメージがあるのではないでしょうか。

そんな七夕、みなさんはどうして「たなばた」と読み、
いつから「願い事」を書くのかご存知でしょうか。

めくるめくめぐるの世界へようこそ、書店員VTuberの諸星めぐるです。
今回は、民俗学的な視点からの「七夕」という不思議な行事を解説していきます。

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七夕とは


七夕とは、7月7日の夜、天の川に隔てられた彦星と織姫が年に1度だけ会うという伝説にちなむ年中行事のこと。
この七夕は、五節句のなかの1つである。ちなみに五節句というのは江戸時代の祝日のことで、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽がある。

そもそも、日本における七夕には大きく分けて2種類の流れが存在する。
牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星が天の川を渡って会うという伝説や、少女が星に技芸の上達を願うという奈良時代ころに中国から伝えられた乞巧奠(きこうでん)に由来する表の伝承と、水神を迎える祭儀という内側の伝承である。

七夕には夏の畑作物や稲の収穫祭、収穫予祝の祭という農耕儀礼としての性格も広くみられる。こうした性格も七夕が水神の祭儀であったことと深く関係しているようだ。

日本民族大辞典

日本民族大辞典にもあるように、もともとの七夕は、乙女と水神の聖婚をモチーフとする古代祭儀であったと考えられるのだ。
空から舞い降りた天女が羽衣奪われて泣く泣く結婚する話も実は七夕の話に含まれるぞ!

というのも、七夕の日には多くの水に関係する伝承が存在している

このほかにも日本の年中行事と多くの共通性を持つ東アジアの水稲耕作文化領域でも、正月の若水汲みに関係するものと考えられる。
また、四国をはじめとする地域の七夕の水をめぐる伝承には、水によるよみがえりにもとづく伝承があり、この日の水が天に由来することを示す天人女房の伝承も存在している。
これについて折口信夫は以下のように考察している。

七夕の水をめぐる伝承は、盆の準備段階に由来するというのは二次的なもので、本来は正月の若水に対応する生命の水、よみがえりの水の表象にもとづく行事が存在していた可能性を考慮する必要がある。

折口信夫

このように、一口に七夕といっても、そのルーツには日本古来のもの・中国古来のもの・日本各地の伝統や風習などさまざまな要素が習合し、今のような形で伝えられていると考えられるのである。

七夕の行事の歴史


古代中国

荊楚歳時記』という、古代中国の長江中流域の年間行事をまとめた史料の中に、すでに七夕が存在する。
そこには織姫と彦星の逢瀬の物語と乞巧奠の行事の内容が記載されている。
また、中国最古の詩集『詩経』の中にも織姫と彦星のことが読み込まれている。
このことから、『荊楚歳時記』に見るような七夕の物語と儀礼は、遅くとも後漢の頃(25年 - 220年ごろ)には成立していたと考えられている。

乞巧奠のルーツ
7月7日に家々の女たちが色糸を結んで7本の針に通すという、儀式的な習俗。
儀式は庭の真ん中に机と筵(ござ)を置き、その上に酒や肴や瓜や果物を供え、「巧」を授かるようにと未婚の女性が願う。(「巧」とは機織りの巧みさのこと。)
このように、女性は機織りの技巧の向上を願ってこうした夜を毎年送った。

また、織姫と彦星のそれぞれのルーツについて、小南一郎氏は牛の原像は、おそらく農耕祭祀の一部をなす河・水の祭の犠牲であるとしている。
このため織姫もまた、機織りは日常的な営為ではなく、祭祀にかかわる神話的・象徴的なものであった可能性が示唆されている。


奈良時代日本


「タナバタ」の伝来


じつは、宮中行事の伝来に先立って、「タナバタ」はやってきている。
5世紀代に新しく中国南朝(宋)や百済・新羅などから機台付の機がもたらされているのだ。
これを『タナバタ(機織り機)』といい、タナバタで布を織る織女を『オトタナバタ・タナバタツメ』と呼んでいた。
この言葉に名前のルーツがあるとされている。

宮中行事としての乞巧奠

日本に宮中行事としての七夕の行事が存在していたことは、天平の時代、つまり奈良時代からであるとわかっている。

7月7日、庭に葉薦(はごも)を東西に長く敷き、その上にむしろを置く。むしろの上に朱漆の高机をおき、そこに供物を次々にならべる。
海の幸、山の幸に分けられたそれらは梨・桃・大豆・茄子・鮑など。
これを東南・西南・北西・北東におく。
和歌を詠んだ短冊と梶の葉が供えられ、
北西の机には金の針七本・銀の針七本に、五色の糸を縒った葉も飾られる。準備が整うと、庭に椅子が出されて天皇が角盥に張った水に映し出された牽牛と織女の邂逅を眺める儀式に移る。
外では蹴鞠、中では音楽の演奏と、一大フェスのような盛況っぷりである。

この様子を見るに、多くの場合は古代中国の乞巧奠の内容に則って行われ、そこに和歌を詠む宴の文化が加わっていることがわかる。
現在でもこの行事を伝承しているのが冷泉家なので、興味のある人はぜひ。


江戸時代


やってきました一般化


室町時代から浸透していったとされる宮中行事としての七夕行事は、
武家・町人とも白帷子を着て、素麺を食べて互いに贈る習慣として一般化していった。
また前日の6日には、詩歌を書く梶の葉が市内で売られ、織姫と彦星にささげる和歌が歌われる文化が根付いていたとされる。
そして江戸中期には「寺子屋」での学習行事(運動会みたいな)として七夕の日に五色の短冊を笹に飾る文化に転換され、後期には子供の行事へと変容していった。

歌川国芳「稚遊五節句之図 七夕」

明治時代

明治時代には、七夕を含む五節句が廃止、寺子屋もなくなったために一時期東京での七夕の行事は衰退していく。
しかしながら、他地域や民間の間で細々と「短冊を笹に飾る習慣」は定着し語り継がれていった。


昭和時代

仙台七夕まつりがターニングポイント


一度は廃れた七夕の行事が大きく復興の転換期を迎えたのには、今も存在する「仙台七夕まつり」と商店街が関わっている。

昭和初期からは都市での七夕行事の衰退を打開しようと昭和2年に立ち上がり、仙台七夕の市内大町五丁目の商店会が七夕復興を提唱した。
これが年々盛大となっていき、第二次大戦の中断を経て昭和21年に再開したのち、現代にいたるまで盛大な行事へと開花していった。
この成功を経て、各地の商店街や商工会が賛同。古くからの伝統を持つ各地の七夕も、商店街が飾りの中心地へと変遷していったという流れが存在している。
そう、今日の七夕のルーツは昭和の時代に商店街から発展した復興の思いがきっかけとなっているのである!


七夕まつりの飾りや風習


紙衣(かみこ)・七夕人形


紙衣(かみこ)は、紙で作った人形、もしくは着物を飾ったもの。
子どもは裁縫が上達し、着るものに困らないように願う。
子どものいない親は、紙衣を子供のいる家庭からもらい受けることで子宝に恵まれるとされていた。

七夕馬


これは、どちらかというとお盆の行事に付随する関東地方中心のもの。
一般にはキュウリやナスなどで作る精霊馬と同じようなもの。
七夕馬は霊迎えの乗り物として設けていたものが、七夕行事と習合した形になる。かわいい

その他の飾りも「上達」や「豊穣」を願うものが多い


いかがでしたでしょうか。
今回はここまで
それではみなさん、良い七夕をお過ごしください!

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