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2018.03.30 天気がいいからこの大学にする!

大学受験に向けて受験先を考えている。茨城大学 ※1 がいいと思ってる。カリキュラム・学科・受験科目・ある程度の自然…、いい条件が重なっている。

そのことを父に話すと「茨城なら筑波大学がいいんじゃないか?」と言ってくる。俺は茨城県に行きたいわけじゃない、茨城大学に行きたいんだ。茨城県内だったらどこだっていいわけじゃない。

あと「岡山大学はどうだ? 天気がいいぞ、雪も降らないし、晴れるし」とも言ってくる。どこぞのバカが「天気がいいからこの大学にする!」と思うっていうんだ。人生を左右することだから考えてくれるのは子としてありがたいが、いかんせん考え方がトンチンカンチン ※2 なんだ。

このことを墓場のラジオ ※3 の「逝き場の無い話」※4 に送ったら読まれた。17歳の自分と50代の父、その中間に位置する30代のシブさん ※5 いわく「場を和ませるためなんだと思う」とのこと。だからこっちとしてはツッコんで返せばよかったらしい。


※1 結局なんだかんだあって茨城大学には進学しなかった。その経緯もおいおいnoteに書ければいいね。

※2 原文ママ。本当はトンチンカンって書きたかったんだと思う。

※3 トッキンマッシュのポッドキャスト。現在はアーカイブは削除されて、過去音源販売か有料サブスク機能でしか聞けない。「ポッドキャストのマネタイズ」における先駆者的存在。

※4 誰に言うでもないけどひっそり抱えているモヤモヤした思いを成仏させるメールテーマ。

※5 墓場のラジオのパーソナリティ。


子供から大人への変化を迫られる中で、この年代の人々はやはりどうしても焦燥感に駆られたり、不安な気持ちになったりするものだ。高校生にインタビューしているネット記事や図書館で借りた本を読んだりしていると、その不安定さが故にうつ症状まで発症する人だっていると知らされる。

自分もそうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。本当はずっと不安だったのかもしれないが、それを茨城大学にすがることによって、考え込むのをやめてごまかしていたんだと思う。

朧気に覚えているのが、高2の時の担任からは「学部や学科内容だけでなく、教授の専門分野まで調べて大学を決めた方がいい」と言われたことがある。それがいまいちピンときてなかった。

社会学部・法学部・経済学部…みたいな感じで、大まかな学部単位で勉強することが決まっていると思っていた。そして扱う内容はどこの大学でも大差ないと思っていた。例えば法学部だったら、どこの大学でも弁護士を養成するための勉強で統一されてると思ってた。

これが実際に大学に進学して気付いたのだが、やっぱり教授の専門分野まで調べておくべきだったのだ。こんなにもバリエーション豊かで特色ある教授たちがそろって初めて、大学というものは構成されているんだなと思った。

社会学部に入ったのだが、実際にマスメディア職の仕事を経たうえで大学教員に転職してきた人がいれば、男性学というジェンダー論の中でも細分化された分野に長けているベテラン教授もいる。

自分が所属していたゼミの教授はアイデンティティ論を主軸としている人だった。自分の好きな趣味について、なぜそれが好きなのか、それにはどんな歴史があったのか、どのように人々を魅了してきたのかを調べて、自分の経験と重ねて自分の言葉で語るという卒論課題だった。

学内ではもちろんのこと、全国的にも珍しいゼミだったと思う。俺は「ネタが採用された時のハガキ職人の、高揚感と自己肯定」というテーマで、1万2000字の卒論を書いて卒業した。

こんな卒論があるか。卒業式に出席したというのに、俺は今でもちゃんと大学を卒業できたのか不安になる。極端なことを言うともしかしたらゼミの単位が取れてなくて、今もまだ大学に所属していることになっているかもしれない。卒業証書ももらったのに。

このゼミでの経験、自分と向き合うことや過去を振り返ること、そして同じテーマに惹かれて集まってきた他のゼミ生との絆や思い出を1つ1つ数えると、やっぱり大学は学部学科だけでなく教授の専門分野まで考えて選ぶべきだったと思う。どうやって調べたらそこまで出てくるのかは分からなかったが。

だからこそ天気で大学を決めてこようとしてきた父に腹が立つのだ。父は大学時代をなんだと思っているのか、父の大学時代はそんなにしょうもないものだったのか。

大学進学に当たって父の大学時代を聞かされていたこともあるのだが、1~2回生は新聞配達のバイトをして、3~4回生は新幹線の清掃バイトをしていたことしか聞いてないのだ。

新聞配達の朝勤がしんどくて大学で寝てて、1年経って6単位くらいしか取れなかったから、それを辞めて新幹線の清掃バイトにして、客が残した弁当を食ってた。そういうことくらいしか知らないのだ。

何を専攻していたのか、そこから今に活きることはあったのか、大学時代の思い出は何なのか、一生の友はできたのか、恋愛はしてきたのか、朝まで語り明かしたこととかあったのか…。子供でも大人でもないこの特別な時期、第2の思春期ともいえるようなこの日々に、一番身近な大人である父が何も感じていないのだ。

そりゃ大学を天気で決めるようなバカにもなってしまうものだ。たしかにまともな感覚を持った大人のするアドバイスではない。シブさんが言うように、とぼけたことを言って子供を笑わせようとしたのかもしれない。

じゃあ言わせてもらおう、おもんないのだ。うちの父は言うことがおもんないのだ。大学を天気で選ぶボケで誰が笑うんだよ。このエッセイを読んでる人にも考えてもらいたいが、あなたはこのボケに笑いましたか? 読んでて噴き出しましたか?

誰かが何か言った時に、自分の思うようにリアクションを取ってくれなかった人のことを「冗談の通じない人」とバカにするヤツがいる。ケースバイケースだが、おもんないことしか言ってないから相手が笑ってないだけということはないだろうか。

自分のおもんなさを棚に上げて、相手の責任にしようとしているその姿がみっともない。多分その人だって、ちゃんとしたお笑い番組を見たら笑っていると思うよ。

他にも言う人と聞く人の関係性とか、聞く人の精神状況だってある。養ってもらってるという上下関係がある以上、フランクな友達のように冗談を言い合って笑うことなんてできない。大学進学で不安だという人を、プロの芸人さんのネタではなくそんじょそこらのおじさんの冗談で笑わせることができるだろうか?

相手を見極められない冗談は時に暴力にもなりうる。少なくともウケなかった時に聞き手側に責任転嫁しない潔さが必要になってくる。その覚悟を持てない人間はムリして面白いことなんて言わなくたっていい、逆に迷惑だから。