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個人的な反出生主義

  もし私が、自分の一番内密な信念に従うとすれば、自己を顕(あら)わすのをやめ、どんな形でにせよ、外界に反応するのをやめてしまうだろう。ところで私はまだ各種の感覚を失っていない。
(E.M.シオラン   生誕の災厄)

反出生主義について


  「新たな人間は生み出されるべきではない」という反出生主義の結論は、それを語る者によって異なるときはあるものの、功利的、合理的、倫理道徳的のいずれか、あるいはすべてからみて最高度に正しいものとして語られる。
  しかし、人類は数百万年にわたり存続を続けており、反出生主義がそのような性質であるとすれば、人類が一分の隙も無く功利的、合理的、倫理道徳的に動くことは不可能であることの証とならざるをえない。
  以上から、反出生主義は人類の性質および人類そのものの否定および拒絶である。


  人間が死すべきものである以上、新たな人間は生まれるべきではないという主義は、人間の存在を否定し拒絶するものとならざるをえない。


  君主にとっての規範となるべくして記された『韓非子』や『君主論』は現代においてもすぐれた人間観察の書として知られている。裏を返せば、民衆を従わせるのには、民衆の性質を知り、その性質に合わせて行動しなくてはならないということの証でもある。水道管や電線が、水や電気を意図通りに流すため、それらの性質に合わせて形作られているのと同様である。そしてから、反出生主義は、目指すところそのものが人間の性質と相容れないものである。

一、二および三から
  反出生主義が人類を否定し拒絶するものである以上、人類から否定し拒絶されることは反出生主義の宿命であり、人類から拒絶されることこそ反出生主義が反出生主義であることの証明となる。

私見と結論
  反出生主義を拒絶されることが、その主義の本性から必然的に辿らざるを得ない道筋であるならば、わたしはその行路を支持したいと思う。
  反出生主義が人類から拒絶されざるをえない主義であるならば、わたしはわたし自身が支持し信奉するこの主義が人類から拒絶されることを望む。蛇に足を付け加えてでも蛇の存在を人々に普及させようとするよりは、蛇が蛇であることを全うして人々から拒絶された方がいい。なぜなら、わたしは蛇が――そのままの蛇が――好きだから。

肝心なことはひとつしかない、敗者たることを学ぶ――これだけだ。
(E.M.シオラン   生誕の災厄)

余談

  このような結論は、主義の実現を放棄するものであり、反出生主義を実践のためのものでなく、主義(イズム)のための主義(イズム)にしてしまうものだと言われるだろう。
  しかし、わたしはそれでよいと思っている。実際、反出生主義を支持する人たちの中には、この主義に出会ったとき、惹かれた、救われた、釈然とした、気持ちが楽になった……等々の感想をもった人が少なくないのではないだろうか。
  そうして誰かの慰めになるのなら、その主義が単なる『主義のための主義』でも構わないのではないだろうか。

  反出生主義とはつまるところ、苦痛を悪とし、苦痛のない状態が最上の状態だとの評価から生まれる主義である。痛覚が(危機を察知しそれを避けるためのもので)生存に必要であるならば、生存そのものが不要であり、一度生存し始めたものはどうあっても苦痛から逃れられないので、生存を始めるべきではないと主張するのである。この主張にわたしも賛同しているのだが、そうでない人間もいる。
  生存、存在はそれ自体が価値あるものであり、存在に伴うもの、生存に必要なものもまた、たとえそれが不快なものであってもむやみに否定されるべきではない、という価値観を持った人間などである。
  反出生主義と、こうした存在に対して肯定的な者とが相対しても、異なる価値観、信条の対立としかならず、相容れないもの同士は互いに沈黙するほかない。

  そこで、出生とは「同意なしに不可逆の“生”を押し付けるものであり、自らが存在に肯定的な価値観をもつからといって、新たに別個の存在を生み出すべきではない」という理屈が発生しなくてはならなくなる(他者に自らの価値観を押し付けるのは悪いことだからやめるべき。という方向へもっていくために)。
  しかし、これは詭弁だろう。存在していないものに強制、強要、なにかを押し付けることは不可能である。
  また、仮に出生が非-存在に対する“生”の強制だというのが
真実であったとしても、非-存在に強制などの悪が為されたところで、すでに存在しているものはいささかの痛痒も感じないのだ。
  新たな存在を生み出すのは常に今存在している側であり、今存在している者が出生を望む限りは、なにか別の経路から、出生しないことによる利益、あるいは出生することによる損害が発生しない限り、出生をなくすことは事実上不可能と言わざるをえない。仮に非-存在に「生まれない」という選択が可能だとすれば、その選択は相互扶助、利他的行為の完全な拒絶(能力的、結果的にそうなってしまったというのですらなく)にしかなりえないのであって、そのようなものに対して譲歩することのできる人間は世を見渡しても稀であろう。また、人間の共同体である社会が存続を前提して動いていくものある以上、その存続に必須である出生が全面的に拒絶されることはありえない。反出生主義を広く普及させ実現させようと試みるのは、三角形の内角の和を直角ひとつに等しいものへと変更しようと試みるようなものである。
  なにかと理由をつけて出生は悪であると断ずれば断ずるほど、人間的存在は悪でしかありえず、悪でしかない存在によって正義がなされる道理はない、という結論に至らざるをえなくなるだけである。

まず人間が罪と呼んでいるものの正確な分析からはじめる必要があるわ、そうして、彼らが罪というような言葉であらわしているものが、じつは人間の義務や民族的風習の侵犯にほかならず、フランスでいう罪なるものが、数百里のかなたでは必ずしも罪でないこと、全世界津々浦々であまねく罪と見なされるような行為は現実にはけっして存在しないこと、したがって、正しく罪の名に値するようなものは実際にはなくすべては世論と風俗習慣によって左右されるものでしかないことを、納得する必要があるわ。
(マルキ・ド・サド   ジュスチーヌあるいは美徳の不幸)
道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
(芥川龍之介   侏儒の言葉)
そこで倫理学の本を読み出した。何巻ものひどく長い大著を丁寧に読んだ。そして私の得た結論は、人は自分の快楽のみを追い求め、他者のために自己犠牲を払ったときにも、自己満足以外の何かを求めているというのは幻想に過ぎないというものだった。そして未来は不確実なので、今可能な快楽に飛びつくのが常識に過ぎないのだ。正しいとか不正であるというのは単に言葉であり、行動の規則は人間が身勝手な目的のためにでっち上げた慣習に過ぎない。自由人は自分の都合に合う場合以外はそんな規則に従う理由はない、と思った。そのころ私は警句が好きだったし、世間でも流行っていたので、自分の考えを警句仕立てにして、「街角の警官に気をつけながら、自分の好みに従うべし」と述べた。
(モーム   サミング・アップ)


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