焼け野原発言に思うこと〜今だから感じるケニーvs棚橋戦の重み〜

ケニー離脱の衝撃が冷めやらぬ中、週プロに載った焼け野原発言が各所で波紋を広げてますね。「ケニーが荒らして焼け野原にした新日」「ケニーによるプロレスの価値観の一元化を棚橋が散らすことに成功した」という中々に扇情的な言葉が並んでおり、ケニーの新日における功績を思えば、納得しかねるファンは多いでしょう。個人的な感想としては、外様の将軍が国のために武勲を上げたはいいものの、構造改革に着手したことで反発を買って粛清され、残った人が都合よく紡いだ歴史書を読んでいるような気持ちになりました。週プロの編集者による誘導はありつつも、焼け野原発言自体は1.4前のインタビューで棚橋自身が口にしていたことでもあります。この発言、賛否のどちらかといえば否が強いのですが、ある側面ではこの意見も正しく、また同時に棚橋=善、ケニー=悪という構図に落とし込むのも無理だと思ってます。先ほど歴史に喩えましたが、多角的に見ると見え方がガラッと変わるのが歴史であり、改めて1.4のケニーvs棚橋がいかに「重い」試合であったのかが伝わってきますね。

2016年のG-1優勝時、間違いなくケニーは新時代のヒーローでした。外国人初優勝という、新日の歴史に名を残す偉業もさることながら、当時中邑とAJの離脱で新日に渦巻いていたWWEへの拒否反応、加えて、いつか「そっち」へ行くんだろうという外国人選手への不信感、そうした諸々の暗闘に対し、一つの決着をつけたのは何を隠そうケニーです。今までの外国人選手の口にした新日愛は、気持ちこそ本物ではありつつも、半分はビジネス上のリップサービスのようなもので、口にしても信じきれない人は多かったのではないでしょうか? そんな中、ヒールでありながらずっと封印していた日本語を解禁し、WWEからも評価の高いケニーがあの時点で口にした「日本は俺のホーム。だからそっち行かない」と言う言葉は確かに新日のファンの心を救ったのです。

しかし蝶野を始めとする外国人選手はあくまで日本人選手にとっての外敵であるというスタンスに、否応無くケニーも飲み込まれていく形になります。ケニーの語ったチェンジ・ザ・ワールド。IWGP王座戴冠で幕を開けたケニーの革命は波紋を広げました。「アスリートプロレス」と言われる、Jr.レベルの身体能力を見せながら、ハードコアと大技をMIXした、受動的な積み重ねであった四天王プロレスとはまた違う、能動性を兼ね備えたケニーのスタイルに、新日本の価値観は塗り替えられていきます。まず、動けることこそが至上の価値観になった部分は否めず、フィニッシュこそ固定されていますが、そこに至るまでの大技のエスカレーションは以前より激しくなってきました。DDTやそれ以外の団体のスタイルを敢えて新日に持ち込んだ目新しさはあったのですが、そんな彼が頂点に立ったことで状況が変わり、新たな常識になったのです。それだけケニーという選手のポテンシャルと影響力は凄まじく、ベストバウトマシーンというのは伊達ではなかったわけです。

もう一つ、ケニー王者で最も賛否が激しかったのは、飯伏幸太との友情でしょう。ケニーと飯伏の関係は、戦い無くして友情無しという新日の流儀とは相容れず、またケニーの王座戴冠によって開いてしまった両者の格に対し驚くほど無頓着だったのが、批判を受けた一番の理由だったように思います。DDT時代の関係を知っているか否かでここの受け取り方はだいぶ違うというのもあるのですが、飯伏に対してジェラシーを見せて欲しいというのが新日のファンの意見だったのではないでしょうか。ただ、二人の友情はそういう安っぽいものではなく、なまじ絆があったからこそ、裏切り等を絡めればとたんに嘘臭くなるという難点もあったと思います。

そんな中行われたケニーvs飯伏vsCodyの試合は、3wayということもあって、評価は真っ二つに分かれました。思えばこの試合は一つの分水嶺でしたね。新日本ではなくNJPWになったとはよく聞く揶揄の一つですが、それをしてもこのメインに対しての拒否反応はわりと根強く、試合後に出てきた、新日本を変えた当事者である棚橋自身が突きつけた「ここは新日本だ」は、ある意味一つの事件ではありました。THE ELITE主導による新時代の動画拡散型のプロレスに実のところノレていないファンも多く、そうしたファンにとっては、この言葉は心に響いたのではないでしょうか。その後に続いた「賞味期限切れ」発言は、ケニー時代のお試し期間の終焉を意味しており、変わりつつも今の新日本を体現した男による最後通告でもあったわけです。

ここから苛烈なイデオロギー闘争が幕を開けますが、これは単なるスタイルの違いや思想の対立といった単純なものではなく、実に色々なものが入り混じった非常に重い戦いだったわけですね。棚橋自身、昭和プロレスファンのアレルギーは強く、板挟みになった過去があります。そこから時代を変えたとは言え、そんな彼がカビの生えたイデオロギー闘争を持ち出しまで、今までの新日本を語る資格があるのか?というのは彼自身自問自答したことでしょう。1.4の試合自体は以前書いた雑感を振り返ってもらうとして、この試合は今振り返ってみても近年稀に見る「重い」一戦だったと思います。

語弊を恐れずに言えば、棚橋がケニーのやりたいプロレスを一切させずに、道場仕込みのグラウンドで完封してしまえば、昭和プロレスファンの溜飲も下がるでしょう。しかしそれは、相手を光らせる棚橋の信条に反しますし、それではケニーに対しての批判も成立しません。かといって、ケニーのスタイルに合わせてしまえば、それは「融和」であり、土壌に上がったことによる単なる「迎合」になってしまいます。この試合、棚橋は自分の築いた時代を問われていたわけですし、非常に難しかったと思います。そんな中、棚橋の取った手段は以前も書いた「受けによる否定」なんですよ。プロレスにおける「受け」って謂わば相手のスタイルへの肯定の文脈で語られることが多いのですが、棚橋はそこから一歩進めて「受けはするが同じようには返さない」という極めて狂気に近い方法論を取りました。単に相手の技に対してセルしないだけならそれは単純な否定であり、また受けて同じように技の数の帳尻を合わせて返せば、前述の通りケニーのスタイルへの迎合になります。歯を食いしばって、痛みに耐え、身体はボロボロなのに、ケニーは棚橋を仕留め切れない。これによって間接的に試合の技のインフレに一定のストッパーを与えつつ、ケニーの技の意味合いを意図的に「軽く」したわけです。ダメージはもちろん筆舌に尽くし難いレベルなのですが、効かないように振る舞うのではなく、効きつつも仕留められないという、ゾンビスタイルとはまた違った、棚橋にしかできないやり方です。生還すればタフマンですが、試合後の印象は精神力のみで生き残ったように見えました。誰が見てもボロボロではあるのですが、拒否し続けて貫き通した。それが棚橋のイデオロギーだったというわけです。そこにはやはり、新日の根底にある「怒り」があったのかもしれません。対するケニーは、これも描いた通り、ハイフライフローを完コピする事で象徴の簒奪に走りました。技を使うだけでは単なる掟破りなのですが、そこに至るまでのムーブ含めて完全にコピーし、挑発ではなく奪いに行ったあたりにケニーの本気度が窺えます。棚橋は棚橋でハードコアなテーブルへのハイフライ自爆という、ケニーのスタイルを垣間見せましたが、観客に謎掛けをやるあたり、棚橋の懐の深さや余裕が垣間見えますし、観客に媚びない姿勢も感じました。構図だけ見れば二人は最接近していたのですが、試合の中に互いへの否定が隠れており、そこには間違いなく戦いがあったわけですよね。

結果として、イデオロギー闘争は棚橋が勝利し、敗者であるケニーは新日を去りました。相手に対するリスペクト、それこそ握手やハグがあればという意見もありましたが、僕はそうは思いません。人生に照らし合わせれば分かる通り、分かり合えないリアルがあり、常に和解の道があるわけではないからこその戦いなのです。ほんの些細なボタンのかけ違いから道が分かれることはありますし、時には存在証明を賭けて否定しなければいけないこともあります。そういう意味では、主張と命を賭けて合間見えたことが、すでに互いへの最大級のリスペクトだと思うのですよ。ケニーの功績とその才能を最大級に評価するからこそ、看過できなかったし、敵として成り立ち、敵として潰さざるを得なかった。僕はそう思います。

ケニーは志半ばで潰えた悲劇の主人公のようにも思えますし、また革命の過程で当人の予期しない部分で怪物に成り果ててしまったようにも見えます。また、子供のような夢を本気にして語り、全力でそれを実現してしまった夢追い人で、さらなる夢を求めて飛び立ってしまったようにも思えます。皮肉にも、棚橋の言った人間力は、ケニーが離脱することでかえってその存在の大きさをファンに実感させたような感じもありますね。ケニーのクリエイティブ・コントロールの手綱を握れなかったという新日の落ち度もありますが、見方を変えれば新日を利用して名を上げたとも言えるので、この辺は人によって意見が違うでしょう。ケニー個人の動向を見るか、新日の登場人物、代表者として見るかでかなり印象は変わると思います。ケニー離脱はそうしたポリティックスな生臭さも感じますが、それだけにリアルさもあり、ケニーが見れない残念さもありつつも、こうした現実的な感傷もまたプロレスの醍醐味だとも思うのです。焼け野原という発言に過敏になるのは分かりますが、ケニーは英雄であり、また敗者でもあります。敗者は単なる負け犬ではなく、敗者としてこれからも続く新日の歴史に賭けたとも言えます。完全否定ならケニーの動画は全削除されているでしょうし、わざわざ言及もされないでしょう。そうでないことから考えても、ケニーは間違いなく、どんな幕引きであれ、新日の歴史に残る偉大な選手だったと思うのです。

新日に限って言えば、IWGPとG-1の頂点を両方とも奪取し、飯伏幸太とのシングルも実現した今となっては、確かにやり残したことはもうありません。加えて、ケニーが離脱することで、間接的に飯伏vsケニーのカードの価値は飛躍的に高まりました。次、飯伏がIWGPを巻いた時に、再びケニーが立ちはだかる時が来るのではないでしょうか。かつて新日を荒らし回った外敵でありながら、一時代を築き上げ、先に進んだケニーの親友として。どの観点から見ても、それはケニーという選手が紡いだ一つの物語であり、歴史は人の目によって観点は変わります。焼け野原も事実なら、功労者というのもまた事実で、僕はそれは相反しないと考えています。もちろん、ファンからすれば忸怩たる思いはあるでしょうが、その両極端なドラマ性のほうに僕は惹かれます。ケニーのこれからの道に加護があるように祈りつつ、再会を願ってひとまず筆を置きます。

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