事件と世間

インターネットが発達し、SNSが世間の風潮を形成することが多くなってから久しいが、それ以前、少なくとも戦後はマスメディアがその形成の中心になっていたと解釈している。

今でも日本国内に残っている風潮として、新興宗教は怪しい、政治の話はタブー、というのがある。

いつからタブーなのか、どうしてタブーのように扱われているのかは正確にデータを取ったわけではないのでわからないが、少なくとも過去の事件によりあからさまに避けられるようになった風潮は多分に存在していると考えている。

つまり、宗教はオウム真理教事件、政治関係は連合赤軍によるあさま山荘事件などだろう。

後者の方は1970年頃の話なのでもう50年も昔、当時20歳だった人はもう70歳で社会形成のメイン層から外れている世代なわけだが、知らない人はいないと思えるほどに語り継がれている事件である。


どちらにも共通する点として、あくまでフツーだった複数人が一定の思想組織に勧誘され、洗脳の末に犯人となってしまった(加害者側となるのが避けがたいのかもしれないと思わせる)事件で、サイコパス的な異常者の無軌道的犯行で無かったことが挙げられる。

つまり、民衆が「自分も洗脳されちゃうかも」という大事件だったのだ。
そういった内容をマスメディアが流布することにより、社会ではそれを避けるような動きが醸成され、具体的には「新興宗教はやばいかも」であるとか「政治活動に本気になるのはやばいこと」という雰囲気になるのだと考えている。

現実として、新興宗教団体がカルト集団化することや、極端な政治団体が社会にとって有害な活動をしたりすることは珍しくないので社会全体がそれらをタブー視することによって排除することは、応急措置的な対策としては間違っていなのだが、当然話題をシャットアウトするということは、どういう思想や風潮でその組織、思想が興り、隆盛し、暴走したのかという知識の浸透が遅れてしまったり、純粋に宗教的なポジティブな社会の繋がり、政治参加へのモチベーションの低下を招いてしまうという側面がある。

結論として、あくまで本格的に、社会としてそのような事件の再発を避けていくには十分な理解、啓蒙活動や教育が必要なのだ。

以下に、当時を知らないティーンエイジャー向けに自称社会プロファイリングリストことこよみによる、両事件概要、注意点を記しておく


オウム真理教事件を知ろう

ウム真理教事件 (オウムしんりきょうじけん)とは、 1980年代 末期から 1990年代 中期にかけて オウム真理教 が起こした一連の事件の総称である。 オウム真理教の教祖である 麻原彰晃 (本名・松本智津夫)が、宗教を隠れ蓑に 日本 を乗っ取って、自らその王として君臨するという野望を抱き、それを現実化せんとする過程で、世界各国での 軍事訓練 や 軍事ヘリ の調達、 自動小銃 の密造や 化学兵器 の生産を行い 武装 化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別 テロ を実行した一連の事件をいう。

wikipediaより

オウム真理教は、元々密教系の教えを元にした宗教団体だったと言われている。
オウム、というのはOmと発音する真言のことであり、仏教でお経とかで用いられるサンスクリットの聖句である。

よく言われているのは、この宗教団体は元々かなりカジュアルなもので、初期は麻原を中心としたヨガサークルのようなものだったということだ。
今でこそヨガといえば、健康志向の体操のようなイメージだが、本来はヨガといえば瞑想を始めとしたスピリチュアル的な活動で、体操はあくまで長時間の瞑想を可能にする健康な身体作りだったりするものとされている。

このヨガ、正しくはヨーガ・スートラという考え方は、多分にスピリチュアルな要素を含んだもので、いわゆるチャクラの存在や魂の存在を前提とするものである。

有名な麻原の空中浮遊は、このヨーガ・スートラの奥義とされているもので、麻原よりもかなり古い世代のヨガ宗教家、本山博氏も著書で紹介していた。(同書内では他にも透視や発火、幽体離脱も可能としていた)

このヨガ活動を軸に、構成員の獲得をしていき、次第にカルト的宗教団体になったのである。

このような考え方をする団体でよく言われているのは、「科学は証明できて初めて信用を得るため、理屈を伴わず証明しがたい事実が中心である科学は、常に後追いな上に世界の一部しか捉ええぬ」ということだ。
つまり、スピリチュアルは理論で証明できなくても問題ないということだ。

スピリチュアルの思想は、まずこういった考え方があり、次にあくまで最初は生きやすくするためだとか、健康のためというポジティブなテーマから入るため、誰しも勧誘されうるという側面がある。

なので、入信後、その思想や修行が論理的に理解できなくても疑いを持ちづらいのだ。
末期のオウム真理教の幹部は、すべからく高学歴で優秀の頭脳を持った人たちであり、彼らもそういった理解を超えた世界に、理性で抗えなかったのだろうと思われる。

哲学が立派な学問として成立しているように、頭脳活動の最先端では「理屈の確からしさ」は常に疑われるものであり、だから、我々のような一般人よりも超自然的思想に惹かれてしまうのかもしれない。と言われる。

そして、オウム真理教は大いに幻覚剤を用いたとされ、こちらも信者の獲得と信者の信用の獲得に寄与していたようである。
LSDを始めとする幻覚剤は、往々にして神秘的で深遠な体験をもたらすものであり、スピリチュアル宗教ではこれを神のような存在や神の国に結び付けて説明したりするのである。

こちらの方は、強烈な実体験を伴うので、もはや理屈で論破することは不可能であり、これを含めて、幻覚剤+古くからの教え(密教)+超論理的演説が合わさったオウム真理教の布教活動は強力なものだったのである。


まずこちらの結論としては、理解を超える思想に対しては常に気を付ける必要があるということが言える。
だいいち、観測しがたいものや、再現しづらい事象は、特に現実かどうかはわからないし(幻覚剤を持ちいた体験はそれこそ抗いがたいが、脳が現実を誤認することはよくよくよくあることだ。認知に一時的な変化をもたらす物質ということだけが、幻覚剤の確かな事実だ。)わからないものを追求しても結局なにもわからないということはカントの代表作である「純粋理性批判」でも大いに語られている。世の中の、観測しえる、わかりえることから組み立てて身の回りの現実を生きやすく最適化していくべし、とカント論である。


そして次に、ヨガで解脱を目指すチベット密教のような宗派を除き、多数派の宗教団体では、現生での解脱は不可能であるとされている。
オウム真理教も建前としては信者の解脱を目標としていたのだが、ただ瞑想したとて解脱ができるものでない、というのが主流の理解である。(このあたりは説明が非常に難しいので省く。ただ、How to 解脱をマニュアル化したのが仏教やキリスト教の教えであると考えている。つまり利他的に健康的に生活することが苦しみを減らす(ストレスを緩和する)ということだ。)


オウム真理教に限らず、スピリチュアルはまず大いにリスクを孕んでいると考えてよい。次に、お布施のような金銭を要求する宗教は悪いもの(運営側のビジネス)であると考えて良い。

信者の苦痛を減らすためなら、家賃の掛かる教会の存在や、運営部の利益は必要ではないからだ。note無料記事で教えを公開し、zoomで集会を行い、教祖は自分の収入で生活を賄えば良いのだ。

そしてあえて信者に労働をさせてまで、勧誘してまで信者を獲得する必要も全くない。(能動的に救済しようとするのはそれこそありがた迷惑だし、傲慢だ。)なので駅前で強引に勧誘してくる団体もまず眉唾である。



あさま山荘事件を知ろう

あさま山荘事件または浅間山荘事件[注釈 1](あさまさんそうじけん)は、1972年昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所(本社・静岡県浜松市)の保養所「浅間山荘」[注釈 2]において連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件である。

wikipediaより

あさま山荘事件は1950年後半頃に台頭してきた暴力的な社会主義的勢力が、暴走の果てに起こした事件である。

当時は世界的に、類似した政治団体があったようで、
国内でも新左翼とまとめられているものの、大小いくつも、社会主義的思想を掲げて政府を暴力で打倒しようとする組織があったとされている。

現在は、安倍元首相の暗殺まで暴力による政党への攻撃が久しい状況になっていたが、当時は戦後まもなく社会情勢が不安定な時代で暴力的革命活動の試みもあり、1959年には安保闘争、1960年には社会党党首の浅沼稲次郎が暗殺されるなどの事件もあった。


このあさま山荘事件の中心となった組織は、学生が中心であったが、次第に統率が失われて生き、次第に暴走して私刑行為を行うまで堕落していったのだ。

この組織の暴走により、特に国内での社会主義、共産主義思想はなりを潜め、現在に至る。
ただ資本主義に傾倒しすぎると、GAFAのような国家を超える超巨大企業による支配がまかり通る世の中になってしまいかねないので、バランスをみて調整していくことが必要だ。

昨今、若者の流行はTVや雑誌ではなく、twitterやyoutubeのおすすめ欄、またそのおすすめアルゴリズムに表示されやすいものが増えており、(というかまずバズって収入を得たいならyoutubeやTikTokで発信すべきという感じになっている。youtubeやTikTokが全ユーザーのおすすめ欄にその動画を表示すれば、莫大な宣伝効果により確実にバズるというわけだ。)つまりそれらの巨大プラットフォームによる、意図的な流行を通した資本蒐集がまかり通る時代になっているということだ。

だからこそ、そういった資本主義的脅威に対抗するため、ある程度は資本の集中を嫌う社会主義、共産主義的な考え方が必要になってくるわけだが、極端にそれが行き過ぎた結果、この事件の原因を生んでしまったのだ。

結論としては、何かの思想に没入、傾倒するのは危険ということだ。あくまでニュートラルな視点に立てるよう努力して、眼前の常識の善し悪しを判定できる知性が、この先必要である。


オウムの項目でMPを9割消耗したのでこれ以上書けない。

おわり

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