言語
誰かのために何かをする
結局、自分のためでしょう?と批判される
利他的な活動が
利己的だと指摘される
「自己」と「他者」 の問題。
「他者」へとエネルギーを注いでいるつもりが
「自己」へと向けられているように見える。
**矛盾。 **
なぜ起きるか?
もともとそれらは一つのものだったから。
なぜ分かれたか?
**それは言語化したから。 **
地球で考える。
「西」と呼ばれる方向に進んでいく。
やがて「東」と呼んでいる場所へとたどり着く。
球体だった地球を、世界地図のように平面にする。
これが言語化するということ。
言葉はあらゆるものを細分化する。
「全」と「無」「正義」と「悪」
言葉はハサミのごとく物事を切りとっていく。
分からないことが言語化された時、安心する。
分けることは分かるということ?
しかし、時として
何か一つ、絶対的なものを私たちは表現しようとする。
切り取ったものを合わせた揺るぎないもの。
真理かもしれないし、神かもしれない。
よく分からないもの。分けることができないもの。
言葉にすればするほど、そこにはたどり着けない。
この文章で、「言語」について語りが尽くそうとしても「全て」を表現できない。
「言語」も一つの言語であるから。
悲しいことにこのスマホの平面上ではその次元を超えられないのだ。
**言葉では表現できないものは体感するしかない。 **
文頭に戻れば、「自己」と「他者」の混ざったような世界。
二項対立を超えたリアルそのもの。
日常的に経験しているはずだ。
しかし、言語でそれを語り尽くすことはできない。
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