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【短編】雨男

「そいつはね、水たまりを飲むんだって」
澤田君は、ニヤニヤしながら容子と私に言う。
「でね、その男がすすっている時に水たまりを踏むと、踏んだ人が飲まれちゃうんだってよ」
「誰かが近くにいる水たまりを、わざわざ踏まなくない?」
容子が言い返す。
「踏むまで見えないんだって」
「ご都合主義!」
「塾の奴がそう言ってたんだ」
容子はどーでもいー、と言って席を立ってしまった。私はもう少し詳しく聞きたかった。
「その雨男って、人間なの?」
「そんなわけないだろ。人間みたいに見えるらしいけど」
澤田君は明らかに不機嫌に応えた。容子がもういないからだ。

クラスで一番美人なのは誰?とお母さんに聞いたら、容子ちゃんかなぁ、と答えた。小学校に上がる前は、お母さんは私にかわいいかわいいと毎日のように言っていたが、今はもう言わない。どうして外国の人はみんな美人なの?と聞いたら、あんたはテレビの外人しか見たことないからよ、と言った。でも容子のお母さんだって日本人ではなくて美人だと言ったら、あの人はきれいな人よねと答えてそのまま食器を洗いにキッチンへ行ってしまった。容子のお母さんはテレビには出ない。

私は寝る前に儀式を行っている。自分の突き出したエラを両掌でぎゅうと挟んで十五秒の間、祈るのだ。私は容子の顎のラインが好きだった。以前、斜め後ろから見た彼女のそれがあまりに素敵だったので思わず指ですらりとなぞってしまった。
「やだ!なに急に」
容子は自分の顎を守るように顔の下側を両手で包み込んで、その仕草がとても愛くるしかったので、私はそれを毎晩の習慣にして、ついでにもっと自分の顔の形が容子に近付けばいいと思ってぎゅうっと抑える。骨だって物質なのだから力を加え続けたら形だって変わるはずだ。お母さんがガイハンボシになったのだって靴で骨の形が変になったからだったのだ。

澤田君の塾の友達の言ったことは、間違っていた。六月の大雨の翌日、曇り空の下で私はその人を見た。ちゃんと見えた。かがみこんで両手をついて、道の端にできた大きな水たまりにキスをする姿は、何かに祈っているようだったが、何に対しての祈りなのかはわからなかった。太陽とか神様とか、そういうものではない、というのだけはなんとなくわかった。真っ黒な布を巻いたみたいな服装で、それがまた祈りらしさを増していた。近付いても、その人は少しも動かなくて、口もとの水だけが小さく揺れていた。鼻が高くて、閉じた目のまつげは長くて、浅黒い肌で、その人は外国の人なのかもしれない。
「こんにちは」
私は声をかけた。もしこの人が雨男なら、澤田君へ教えてあげられる。その人はちゃんと見えるし、黒い服を着た外国の人だったよ、と言ったら、澤田君は少しはニヤニヤするだろうか。でも、私の挨拶を無視してその人は少しも動かない。
「こ、ん、に、ち、は!」
先生に声の小ささを叱られて言い直すみたいに、もう一度話しかける。でも、やっぱり動かない。そっと肩に触れてみた。冷蔵庫から出したばかりの牛乳みたいに冷たかった。肩に手を置いたまま、耳元でもう一度こんにちはと言っても、その人はずっと目を閉じてキスをし続けていた。軽く肩を弾いても動かず、水たまりから口を離さない。私はだんだん腹が立ってきて、その人を突き飛ばそうとした。両手で、体重をかけて、思い切りどんと押した。その人はぐらんと一度揺れたけど、すぐに元の姿勢に戻った。
私は立ち上がり、とうとう、その水たまりをそっと踏んだ。踏んだつま先が、スニーカーごと見えなくなった。すぐに足首が見えなくなり、膝から下がなくなった。怖くなって足をどけようとしたけど、見えないものを動かすことはできなかった。右足から、私はどんどん透明になっていった。その人は少しも動かずに水たまりを吸い続けていた。
私が透明になるにつれて水たまりはずるずると小さくなっていった。最後に見たのは、エラを隠すために両頬に垂れている自分の髪の毛と、ほとんどなくなった水たまりと、真っ黒な雨男だった。
雨男は水たまりと私を飲み干して立ち上がると大きなため息をついた。そのため息の中にはほんの少しだけ私がいて、その私は澤田君のことなどすっかり忘れて、ただ、あの時容子の美しい顎を撫でられてよかった、と思った。

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